トレランと走れメロス

2019.06.29(土) 日帰り

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 ※雨続きで山歩きしておりません。ヤマップのKZKRプロジェクトを知って随想してみました。あしからずご了承ください。  https://sp.yamap.com/kzkr-pj/  遅い梅雨の訪れに激しい雨が続いて、山を歩くことは叶わない。  激しい雨音を聴きながら手持ち無沙汰に過ごす休日となったが、スマートフォンを確かめると、ヤマップ・トレランプロジェクトの通知が来ていた。  走る、ということに全く関心のない私の心に、山歩きで何度かすれ違ったことのあるトレイルランナーの人々の姿が思い浮かんだ。  運動嫌いの私には何の縁もなかった「走る」という行いについて、少し考えてみることにした。  元々がインドア派である私は、ヤマップに出会うまで、山登りなど別世界の出来事であると思っていた。  山はおそらく坂道の連続であり、そこには肉体的な苦痛しかないだろう。時折、命に関わる事件も耳にする。  意図して苦痛を味わい、命を危険に晒す。意味不明な営みに思えたし、私には一切無関係であると思っていた。  しかし、今の私は山を歩く。それは、私という存在を強く支える大切な営みとなった。  かつての私は、山登りとおなじほどにマラソンの意味を理解しなかった。そして、今もよく判っていない。自ら選んで苦しい目標を設定し、ゴールに向けて喘ぎながら長い距離を走る。その行いが、恣意的な意味の措定に思えるのだ。  しかし…と私は批判的に自己の判断を見つめ直す。それは本当に意味のない行いであろうか。  そうであるならば、あの山道で行き違ったトレイルランナーの人々は人間の意味不明な姿を表象しているのだろうか? 苦しげな表情を浮かべながらも、ひたむきな足取りで走っていく後ろ姿に、私は何か心惹かれるものを感じていなかったか?  そう、心を惹かれていたのだ。  自分では行わないにしても、その姿に真摯な人間の在り方を感じていたのだ。  なぜか?  そんな疑問に私は思念を凝らして、思い至る。その姿は、太宰治の小説「走れメロス」さながらであったのだ。  メロスは、邪智暴虐の王に反するために、命を懸けて走った。素朴な村の牧人であるメロスは、猜疑に充ちた王を破るために走った。  この小説の結構においては、作者こそが邪智の王であり、智は即ち邪に結論している。メロスは、その哀れな邪を破るための、作者の微かな願望が擬人化したものである。この意味において、作者はメロスを信じていない。信じたい、と願っているに過ぎないが、しかし、その願望は作者にとって切迫した真実であったろう。 「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」    作中におけるメロスの述懐が、訳も無く読者の胸を打つ。  この作品の真価は、教科書的な解釈に見られる、信頼の美しさや友情の大切さには無い。 「もっと恐ろしく大きなものの為に走る」ということの前には、人の命さえも問題ではない、というメロスの叫びこそが真価であり、そうでなければ、この作品は子供心にも鼻白むような綺麗事に堕ちている。  トレイルランナーが、山の小道を小走りで過ぎていく。  坂を登り、坂を下り、岩場を越え、木立を抜ける。  その行いに、何か意味はあるか?   日常の視線では、無意味であろう。この判断は、メロスが走る姿を見た人々が、その無意味を説いたのに似ている。  しかし、メロスは意味付けそのものが問題ではないことを捉え、走り抜いた。  メロスは意味を越えたのだ。  そうであるならば、トレイルランナーは、意味に溢れた日常を越えるために走るのかもしれない。

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