活動データ
タイム
02:35
距離
6.3km
のぼり
404m
くだり
330m
活動詳細
すべて見る私は毎年の年末に、必ずこの信貴山城を訪れています。一年の最後の締めとして、お城めぐりや山の登り納めとして、この信貴山城登山を楽しみながら登っています。 なぜなら、この城を居城としていた松永弾正久秀という武将を知れば知るほど、城跡に訪れたくなる気持ちが高まってくるからです。 「松永久秀」 あの信長でさえ、一目をおく武将だった事はご存じのとおり。彼は知識人であり、政治家、文化人でもありました。さらには、茶の湯をたしなみ、連歌にも長けていたと言われています。 まさに、新しい平和な時代への先駆者と言っても過言ではないでしょう。 また、下剋上の戦国時代にあって、その出世術は他に類の例がないほどの大出世だったと言えます。 私は、松永弾正が特出するものは築城方法だと思います。中世戦国時代の城は「守りやすく攻めにくい」いわゆる戦闘を意識した構造で造られたものがほとんどでした。 しかし、松永の城は奈良市にあった多聞山城で見られたように、瓦屋根の白壁、多聞櫓(天守閣のような)は、時の権力者(権・資金・財力)の象徴とも言うべき絢爛豪華な建物で、人々を魅了させ、これからは戦乱のない平和な時代が到来します、とアピールもこめられていたのではないでしょうか。 信長の安土城も同じような意味合いがあったと思います。 この信貴山城の松永屋敷跡には多聞山城のような立派な建物があったに違いないと私は思いますし、是非ともあってほしい。 今後、発掘調査が行われるとしたら、そこに注目したいです。 最後に、私は日本百名城・続百名城で全国を飛び回っておりますが、どの城も素晴らしくて、行って見て感動をして帰ってきますが、未だに、信貴山城を越える城に出会ってはいません。 信貴山城は1577年10月10日に落城。その後、廃城となって今に至ります。城は落城後のままで歴史が止まっているのです。 皆さんも、機会があれば松永屋敷に足をはこんでみてください。 本能寺の変はその5年後。あと5年。。 65才にして、信長に二度目の反旗を翻しました。老後はゆっくりとした余生を過ごせたと思うのに、天下を夢見で最後の大博打に出た生きざまを。。 信貴山城を枕に、天下取りを夢見た松永弾正の生涯に思いを浸ってくださいませ。
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