活動データ
タイム
00:57
距離
1.9km
のぼり
103m
くだり
108m
活動詳細
すべて見る今回は、大和三大山城のひとつに数えられる椿尾上城です。(残り2つは 松永弾正の信貴山城と大和国人衆 十市氏の龍王山城です。近々登城します。乞うご期待) 築城者は、大和四家(筒井 箸尾 越智 十市でしたか?!)のひとり筒井順昭で、また、順慶はその子供になります。筒井の城と言えば近鉄筒井駅近くの筒井城を連想されますが、そこは平常時の城で、籠城などの長期戦に持ち込む場合は椿尾上城を詰めの城として整備していたと考えられています。ぞくに筒井城を筒井平城、椿尾城を筒井山城と呼ばれる事もあるそうです。 この城が歴史の表舞台に登場した背景には、家督を継いだ順慶の時代になり、そして松永弾正の大和乱入で、松永弾正 対 国人衆の構図が出来あがり、より城の重要性が高まった事によるものと考えます。 順慶の功績は、何度も筒井城(大和郡山市筒井町)を奪われ追われるも、不屈の精神で再起を図り、遂に、この城から挙兵出撃して辰市城の戦い(大和国での中世・戦国時代最大の戦のひとつとされています)で松永弾正から勝利をおさめて戦乱を無くし、その後、大和郡山城主となり大和守護職にも任ぜられ、国中の民、国人衆から慕われた事が1番だと思います。 ところで、この戦いで敗れた松永弾正は急速に勢力を衰え、大和国での実権を筒井に譲る一因ともなった戦いとなりました。松永弾正は、その後、ご存知のとおり、信長に2度目の反旗を翻して信貴山城に立て籠り、籠城戦を展開し最後まで抵抗しましたが、敵兵を城内に送り込まれた事をきっかけに総崩れとなり、10月10日に落城。久秀は館に火を放ち自刃しました。この日は苦しくも奈良の大仏殿(大仏殿の戦い)が焼け落ちて10年後のその日だったそうです。 椿尾上城は、大和の歴史を大きく塗り替えるきっかけともなったと言えるお城かもしれませんね。 筒井順慶は、秀吉と光秀が戦った山崎の合戦で、洞ヶ峠から戦を観戦し、どちらにもつかなかった事で、「順慶の洞ヶ峠」が日和見の代名詞として有名ですよね。 椿尾城とは一般的に椿尾上城を指します。上城の近くには椿尾下城があって、椿尾氏の城がそれにあたるらしいです。二つの城は縄張から共通する部分が多く見られるので、やはり、筒井方の縄張りであろうと思います。 山城好きには最高の城です。 登城時期は、11~2月がベストです。 この時期以外は山ダニの餌食になります。(^o^;)
もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。