知るも知らぬも逢坂の関(逢坂山~音羽山)

2018.12.24(月) 日帰り

クリスマスイブの今日(12/24)。昼間は時間があるので山に行こ、ということで、(百人一首にでてくる)逢坂の関の名前が付いた逢坂山。その歌を詠んだ蝉丸の名前が付いた蝉丸神社、そして音羽山まで足を伸ばし、牛尾観音まで歩いてきました。 ルート上の倒木はありましたが、全く問題ありません。 逢坂山から大谷駅に抜ける最短ルートを探してみましたが、結局、わからず引き返し。 その他のルートはわかりよかったです。 道中、詩が書かれた石碑があり、今日歩いた地名にちなんだ詩を調べてみました。 多くの方が詠んでいますね。

いつもスタートの写真は撮り忘れ。いきなり疎水から始まります。桜並木です。
春は綺麗でしょう。このあたり一帯「一燈園」の建物です。

いつもスタートの写真は撮り忘れ。いきなり疎水から始まります。桜並木です。 春は綺麗でしょう。このあたり一帯「一燈園」の建物です。

いつもスタートの写真は撮り忘れ。いきなり疎水から始まります。桜並木です。 春は綺麗でしょう。このあたり一帯「一燈園」の建物です。

ニスクラ??台風でテとブ が飛んで行った?

ニスクラ??台風でテとブ が飛んで行った?

ニスクラ??台風でテとブ が飛んで行った?

疎水から離れ、山をしばらくあるくと、音羽山山頂に到着。びわ湖が一望できます。いい景色です。

疎水から離れ、山をしばらくあるくと、音羽山山頂に到着。びわ湖が一望できます。いい景色です。

疎水から離れ、山をしばらくあるくと、音羽山山頂に到着。びわ湖が一望できます。いい景色です。

逢坂山頂の標識。手書き感一杯でほのぼのしています。こういう標識、好きです。
逢坂山で調べたら、こんな詩がありました。
「名にし負(お)わば、逢坂山のさねかづら、人に知られでくるよしもがな」(三条右大
臣)
交通の要所だったため、いろいろとうたに詠われていたようですね。

逢坂山頂の標識。手書き感一杯でほのぼのしています。こういう標識、好きです。 逢坂山で調べたら、こんな詩がありました。 「名にし負(お)わば、逢坂山のさねかづら、人に知られでくるよしもがな」(三条右大 臣) 交通の要所だったため、いろいろとうたに詠われていたようですね。

逢坂山頂の標識。手書き感一杯でほのぼのしています。こういう標識、好きです。 逢坂山で調べたら、こんな詩がありました。 「名にし負(お)わば、逢坂山のさねかづら、人に知られでくるよしもがな」(三条右大 臣) 交通の要所だったため、いろいろとうたに詠われていたようですね。

下りてきて、1号線を越える手前です。これから音羽山に登りますが、その前に寄り道して、蝉丸神社へ。(ところで、これから登る音羽山と登ってきた逢坂山が標識になぜか同じ方向に書かれています)

下りてきて、1号線を越える手前です。これから音羽山に登りますが、その前に寄り道して、蝉丸神社へ。(ところで、これから登る音羽山と登ってきた逢坂山が標識になぜか同じ方向に書かれています)

下りてきて、1号線を越える手前です。これから音羽山に登りますが、その前に寄り道して、蝉丸神社へ。(ところで、これから登る音羽山と登ってきた逢坂山が標識になぜか同じ方向に書かれています)

蝉丸神社に寄りました。蝉丸(大神)と猿田彦命をまつってあるとのこと。蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふさかの関」が有名です。この逢坂(の関)近くに居を構えていて、行きかう人の姿を見ながら、この詩を詠んだのでしょうか。

蝉丸神社に寄りました。蝉丸(大神)と猿田彦命をまつってあるとのこと。蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふさかの関」が有名です。この逢坂(の関)近くに居を構えていて、行きかう人の姿を見ながら、この詩を詠んだのでしょうか。

蝉丸神社に寄りました。蝉丸(大神)と猿田彦命をまつってあるとのこと。蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふさかの関」が有名です。この逢坂(の関)近くに居を構えていて、行きかう人の姿を見ながら、この詩を詠んだのでしょうか。

蝉丸神社から引き返してくる途中。丁度昼前、ウナギを焼いているとてもいい香りが、山を歩いている私たちにもただよってきました。思わず撮影。ここで登山をやめてうなぎ屋に行って帰ろかという誘惑に負けずに前に進みます。

蝉丸神社から引き返してくる途中。丁度昼前、ウナギを焼いているとてもいい香りが、山を歩いている私たちにもただよってきました。思わず撮影。ここで登山をやめてうなぎ屋に行って帰ろかという誘惑に負けずに前に進みます。

蝉丸神社から引き返してくる途中。丁度昼前、ウナギを焼いているとてもいい香りが、山を歩いている私たちにもただよってきました。思わず撮影。ここで登山をやめてうなぎ屋に行って帰ろかという誘惑に負けずに前に進みます。

逢坂の関があったところを歩道から、道路の分かれ目右手あたりでしょうか。

「夜をこめて鳥の空音ははかるとも、よに逢坂の関は許さじ」(清少納言)

(うなぎ屋の看板も見えますす。)

逢坂の関があったところを歩道から、道路の分かれ目右手あたりでしょうか。 「夜をこめて鳥の空音ははかるとも、よに逢坂の関は許さじ」(清少納言) (うなぎ屋の看板も見えますす。)

逢坂の関があったところを歩道から、道路の分かれ目右手あたりでしょうか。 「夜をこめて鳥の空音ははかるとも、よに逢坂の関は許さじ」(清少納言) (うなぎ屋の看板も見えますす。)

逢坂の関の写真を撮った場所を撮影。回りが切り立った山で、関を作るにはいい場所だったのでしょう。
ちなみに、ここが東海道での大津と京都の峠のようです。となると、地形で滋賀と京都をわけるとここが境になると思うのですが、実は、山科近くまで、大津市が入り込んでいます。特に街道沿いとその北が大津(滋賀県)です。歴史・地理的な理由があるのでしょうが、よくわかりませんでした。

逢坂の関の写真を撮った場所を撮影。回りが切り立った山で、関を作るにはいい場所だったのでしょう。 ちなみに、ここが東海道での大津と京都の峠のようです。となると、地形で滋賀と京都をわけるとここが境になると思うのですが、実は、山科近くまで、大津市が入り込んでいます。特に街道沿いとその北が大津(滋賀県)です。歴史・地理的な理由があるのでしょうが、よくわかりませんでした。

逢坂の関の写真を撮った場所を撮影。回りが切り立った山で、関を作るにはいい場所だったのでしょう。 ちなみに、ここが東海道での大津と京都の峠のようです。となると、地形で滋賀と京都をわけるとここが境になると思うのですが、実は、山科近くまで、大津市が入り込んでいます。特に街道沿いとその北が大津(滋賀県)です。歴史・地理的な理由があるのでしょうが、よくわかりませんでした。

音羽山に入ると暫くすると、階段がずっと続きます。

音羽山に入ると暫くすると、階段がずっと続きます。

音羽山に入ると暫くすると、階段がずっと続きます。

昼ご飯も食べて、音羽山頂上へ。空気も澄んで綺麗です。びわ湖が見えます。

昼ご飯も食べて、音羽山頂上へ。空気も澄んで綺麗です。びわ湖が見えます。

昼ご飯も食べて、音羽山頂上へ。空気も澄んで綺麗です。びわ湖が見えます。

同じく、京都側の景色。

同じく、京都側の景色。

同じく、京都側の景色。

ここT字路なんですが、左から来ました。写真を撮っている方に進みます。

ここT字路なんですが、左から来ました。写真を撮っている方に進みます。

ここT字路なんですが、左から来ました。写真を撮っている方に進みます。

牛尾観音に到着。牛尾観音、かの有名な清水寺(音羽山清水寺)の奥之院として親しまれてきたとあります。778年寺院が建立されたとのこと。1200年以上の歴史ですね。

牛尾観音に到着。牛尾観音、かの有名な清水寺(音羽山清水寺)の奥之院として親しまれてきたとあります。778年寺院が建立されたとのこと。1200年以上の歴史ですね。

牛尾観音に到着。牛尾観音、かの有名な清水寺(音羽山清水寺)の奥之院として親しまれてきたとあります。778年寺院が建立されたとのこと。1200年以上の歴史ですね。

音羽の滝です。一度見たかった滝です。目で見た時は、立派だったんですが、石碑と一緒に写すのは難しかったです。欲張ってはいけませんね。

音羽の滝です。一度見たかった滝です。目で見た時は、立派だったんですが、石碑と一緒に写すのは難しかったです。欲張ってはいけませんね。

音羽の滝です。一度見たかった滝です。目で見た時は、立派だったんですが、石碑と一緒に写すのは難しかったです。欲張ってはいけませんね。

山から下りてきました。水車が回っていました。風情があって素敵です。

山から下りてきました。水車が回っていました。風情があって素敵です。

山から下りてきました。水車が回っていました。風情があって素敵です。

紀貫之(きのつらゆき)、熊谷直好という名前があります。紀貫之は古今和歌集の選者の一人。「秋風の 吹きにし日より 音羽山 峰のこずえも 色つきにけり」。熊谷直好は、江戸時代の歌人とのことです。

紀貫之(きのつらゆき)、熊谷直好という名前があります。紀貫之は古今和歌集の選者の一人。「秋風の 吹きにし日より 音羽山 峰のこずえも 色つきにけり」。熊谷直好は、江戸時代の歌人とのことです。

紀貫之(きのつらゆき)、熊谷直好という名前があります。紀貫之は古今和歌集の選者の一人。「秋風の 吹きにし日より 音羽山 峰のこずえも 色つきにけり」。熊谷直好は、江戸時代の歌人とのことです。

昔の石の道標。牛尾山(牛観音がある山)や、その奥の高塚山が書き記されているのに驚きました。重要な交通路だったのでしょうか?滋賀や京都近隣の人は、逢坂の関を通らず、この山道を通っていたのかな、など、昔を想像してしまいます。

昔の石の道標。牛尾山(牛観音がある山)や、その奥の高塚山が書き記されているのに驚きました。重要な交通路だったのでしょうか?滋賀や京都近隣の人は、逢坂の関を通らず、この山道を通っていたのかな、など、昔を想像してしまいます。

昔の石の道標。牛尾山(牛観音がある山)や、その奥の高塚山が書き記されているのに驚きました。重要な交通路だったのでしょうか?滋賀や京都近隣の人は、逢坂の関を通らず、この山道を通っていたのかな、など、昔を想像してしまいます。

東海道の街道と、追分の街道が分かれるところ。振り返って撮影。この石の道標に歴史を感じます。

東海道の街道と、追分の街道が分かれるところ。振り返って撮影。この石の道標に歴史を感じます。

東海道の街道と、追分の街道が分かれるところ。振り返って撮影。この石の道標に歴史を感じます。

京阪追分駅まで帰ってきました。単なる地下道と思っていたら、駅に通じる通路でした。

京阪追分駅まで帰ってきました。単なる地下道と思っていたら、駅に通じる通路でした。

京阪追分駅まで帰ってきました。単なる地下道と思っていたら、駅に通じる通路でした。

いつもスタートの写真は撮り忘れ。いきなり疎水から始まります。桜並木です。 春は綺麗でしょう。このあたり一帯「一燈園」の建物です。

ニスクラ??台風でテとブ が飛んで行った?

疎水から離れ、山をしばらくあるくと、音羽山山頂に到着。びわ湖が一望できます。いい景色です。

逢坂山頂の標識。手書き感一杯でほのぼのしています。こういう標識、好きです。 逢坂山で調べたら、こんな詩がありました。 「名にし負(お)わば、逢坂山のさねかづら、人に知られでくるよしもがな」(三条右大 臣) 交通の要所だったため、いろいろとうたに詠われていたようですね。

下りてきて、1号線を越える手前です。これから音羽山に登りますが、その前に寄り道して、蝉丸神社へ。(ところで、これから登る音羽山と登ってきた逢坂山が標識になぜか同じ方向に書かれています)

蝉丸神社に寄りました。蝉丸(大神)と猿田彦命をまつってあるとのこと。蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふさかの関」が有名です。この逢坂(の関)近くに居を構えていて、行きかう人の姿を見ながら、この詩を詠んだのでしょうか。

蝉丸神社から引き返してくる途中。丁度昼前、ウナギを焼いているとてもいい香りが、山を歩いている私たちにもただよってきました。思わず撮影。ここで登山をやめてうなぎ屋に行って帰ろかという誘惑に負けずに前に進みます。

逢坂の関があったところを歩道から、道路の分かれ目右手あたりでしょうか。 「夜をこめて鳥の空音ははかるとも、よに逢坂の関は許さじ」(清少納言) (うなぎ屋の看板も見えますす。)

逢坂の関の写真を撮った場所を撮影。回りが切り立った山で、関を作るにはいい場所だったのでしょう。 ちなみに、ここが東海道での大津と京都の峠のようです。となると、地形で滋賀と京都をわけるとここが境になると思うのですが、実は、山科近くまで、大津市が入り込んでいます。特に街道沿いとその北が大津(滋賀県)です。歴史・地理的な理由があるのでしょうが、よくわかりませんでした。

音羽山に入ると暫くすると、階段がずっと続きます。

昼ご飯も食べて、音羽山頂上へ。空気も澄んで綺麗です。びわ湖が見えます。

同じく、京都側の景色。

ここT字路なんですが、左から来ました。写真を撮っている方に進みます。

牛尾観音に到着。牛尾観音、かの有名な清水寺(音羽山清水寺)の奥之院として親しまれてきたとあります。778年寺院が建立されたとのこと。1200年以上の歴史ですね。

音羽の滝です。一度見たかった滝です。目で見た時は、立派だったんですが、石碑と一緒に写すのは難しかったです。欲張ってはいけませんね。

山から下りてきました。水車が回っていました。風情があって素敵です。

紀貫之(きのつらゆき)、熊谷直好という名前があります。紀貫之は古今和歌集の選者の一人。「秋風の 吹きにし日より 音羽山 峰のこずえも 色つきにけり」。熊谷直好は、江戸時代の歌人とのことです。

昔の石の道標。牛尾山(牛観音がある山)や、その奥の高塚山が書き記されているのに驚きました。重要な交通路だったのでしょうか?滋賀や京都近隣の人は、逢坂の関を通らず、この山道を通っていたのかな、など、昔を想像してしまいます。

東海道の街道と、追分の街道が分かれるところ。振り返って撮影。この石の道標に歴史を感じます。

京阪追分駅まで帰ってきました。単なる地下道と思っていたら、駅に通じる通路でした。