中国地方随一高い山城 尼子十旗矢筈山とヤマタノオロチ伝説の地を巡る-2023-11-26

2023.11.26(日) 日帰り

尼子十旗の中で最も高所にある、夕景(ゆうげ)城跡(矢筈山)にフォロワーさん(コムさん)を案内して登りました。 いくつかルートがあるようですが、登山道は荒れてヤブとなり、明確な登山道が無いまま、大峠集落から谷川に沿って登り、やがて案内板は有るものの、ヤブに覆われて進むべきではない‼️、と判断して尾根を求め主郭を目指して登りました。 すると先ほどまでとうって変わり、霜が降りて寒く感じていたのが、太陽の光を浴びて温かく、かつ尾根が事の他急勾で寒いどころか汗をかき、たまらず上着を脱いで登りました。🤗 依頼を受けたコムさんを含む6名が、このところ話題の熊🐻の出没に対処して、鈴やスマホから歌を流し、会話をしながら登る事1時間半、休憩とりながら、場所によっては4つ足になりながらも、おかげ様で熊さんにも会わず登りました。 尼子経久氏の母の里にあたる、中国地方随一の高さと、広大な郭遺構を持つ城跡を歩くことができ、私に案内依頼をされたコムさんも、とても満足げでした。😊 帰る途中にいつもは通り過ぎてる道路横に、ヤマタノオロチ伝説にまつわる、言い伝えがたくさん残る所に立ち寄りました。

霜が降りて大変に寒い朝となり、矢筈山に登る前に皆でラジオ体操(出雲弁)をして身体を温めました。

霜が降りて大変に寒い朝となり、矢筈山に登る前に皆でラジオ体操(出雲弁)をして身体を温めました。

霜が降りて大変に寒い朝となり、矢筈山に登る前に皆でラジオ体操(出雲弁)をして身体を温めました。

ここが矢筈山への
道無き登城ぐちです。🤗

ここが矢筈山への 道無き登城ぐちです。🤗

ここが矢筈山への 道無き登城ぐちです。🤗

「矢筈」の名が示す通り、東西二つの峰がある山で、西の峰が主郭、東の峰にも曲輪群があるようです。

主郭は山頂南端で土塁が付いて幅広の櫓台のような地形が残り、北西隅付近に石積跡らしき加工された石が残っている。主郭から北北西に向かって階段状に曲輪が続いており、全体的に東側に土塁が付いていて、北端は土塁囲みになっている。主郭から南へ伸びた尾根に鋭角に竪堀を組み合わせた堀切が二条残っている。

「矢筈」の名が示す通り、東西二つの峰がある山で、西の峰が主郭、東の峰にも曲輪群があるようです。 主郭は山頂南端で土塁が付いて幅広の櫓台のような地形が残り、北西隅付近に石積跡らしき加工された石が残っている。主郭から北北西に向かって階段状に曲輪が続いており、全体的に東側に土塁が付いていて、北端は土塁囲みになっている。主郭から南へ伸びた尾根に鋭角に竪堀を組み合わせた堀切が二条残っている。

「矢筈」の名が示す通り、東西二つの峰がある山で、西の峰が主郭、東の峰にも曲輪群があるようです。 主郭は山頂南端で土塁が付いて幅広の櫓台のような地形が残り、北西隅付近に石積跡らしき加工された石が残っている。主郭から北北西に向かって階段状に曲輪が続いており、全体的に東側に土塁が付いていて、北端は土塁囲みになっている。主郭から南へ伸びた尾根に鋭角に竪堀を組み合わせた堀切が二条残っている。

いのしし柵を開けて山へ入ります‼️

主郭から東の峰にある東曲輪群に至る途中の鞍部は塚状の土壇を挟んで両側が凹んでおり、堀切であったのかもしれない。東曲輪群は東峰の山頂を中心に西、南、北に平段が付いているが主郭ほど明瞭なものではない。主郭から東麓が見えないので、これを補うのが目的であろうか。

いのしし柵を開けて山へ入ります‼️ 主郭から東の峰にある東曲輪群に至る途中の鞍部は塚状の土壇を挟んで両側が凹んでおり、堀切であったのかもしれない。東曲輪群は東峰の山頂を中心に西、南、北に平段が付いているが主郭ほど明瞭なものではない。主郭から東麓が見えないので、これを補うのが目的であろうか。

いのしし柵を開けて山へ入ります‼️ 主郭から東の峰にある東曲輪群に至る途中の鞍部は塚状の土壇を挟んで両側が凹んでおり、堀切であったのかもしれない。東曲輪群は東峰の山頂を中心に西、南、北に平段が付いているが主郭ほど明瞭なものではない。主郭から東麓が見えないので、これを補うのが目的であろうか。

ここが登山道❓
今朝は霜が降りたので
脚部はずぶ濡れになります。🤗

ここが登山道❓ 今朝は霜が降りたので 脚部はずぶ濡れになります。🤗

ここが登山道❓ 今朝は霜が降りたので 脚部はずぶ濡れになります。🤗

進むにつれて
ヤブが同行さん
を包み込みます。

進むにつれて ヤブが同行さん を包み込みます。

進むにつれて ヤブが同行さん を包み込みます。

矢筈山への道案内の
看板ですが、ヤブが
ひどいので、このまま
進む気になりません。🤗

矢筈山への道案内の 看板ですが、ヤブが ひどいので、このまま 進む気になりません。🤗

矢筈山への道案内の 看板ですが、ヤブが ひどいので、このまま 進む気になりません。🤗

足下は全く見えません‼️
何かがひそんでいても、不思議ではありません😢💦

足下は全く見えません‼️ 何かがひそんでいても、不思議ではありません😢💦

足下は全く見えません‼️ 何かがひそんでいても、不思議ではありません😢💦

ずっと谷筋を登っているので寒く身体が冷えます、陽があたり始めたので、先頭の同行さんは尾根に向かって登り始めました。

ずっと谷筋を登っているので寒く身体が冷えます、陽があたり始めたので、先頭の同行さんは尾根に向かって登り始めました。

ずっと谷筋を登っているので寒く身体が冷えます、陽があたり始めたので、先頭の同行さんは尾根に向かって登り始めました。

大丈夫ですか❓
足下がかなり急勾配
なので滑りますよ‼️

大丈夫ですか❓ 足下がかなり急勾配 なので滑りますよ‼️

大丈夫ですか❓ 足下がかなり急勾配 なので滑りますよ‼️

尾根に出たらこのような集落の状況が見えます、鉄穴流し(かんなながし)による遺構です、江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄の採集方法で、岩石や土に混じった砂鉄を川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す。
採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。
その結果棚田が副産物として形成されたのです。

尾根に出たらこのような集落の状況が見えます、鉄穴流し(かんなながし)による遺構です、江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄の採集方法で、岩石や土に混じった砂鉄を川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す。 採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。 その結果棚田が副産物として形成されたのです。

尾根に出たらこのような集落の状況が見えます、鉄穴流し(かんなながし)による遺構です、江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄の採集方法で、岩石や土に混じった砂鉄を川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す。 採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。 その結果棚田が副産物として形成されたのです。

相変わらず登山道は無く、急勾配が続きます。

相変わらず登山道は無く、急勾配が続きます。

相変わらず登山道は無く、急勾配が続きます。

今日みたいな
霜が降りた寒いなか
注意して良く見てください
マムシがひなたぼっこ
かなり6人で騒ぎますが
ピクリとも動きません‼️。🤗

今日みたいな 霜が降りた寒いなか 注意して良く見てください マムシがひなたぼっこ かなり6人で騒ぎますが ピクリとも動きません‼️。🤗

今日みたいな 霜が降りた寒いなか 注意して良く見てください マムシがひなたぼっこ かなり6人で騒ぎますが ピクリとも動きません‼️。🤗

こちらは(ミヤマシキミ)有毒植物で葉、果実にはアルカロイドのスキミアニンやジクタムニンがあり、葉に多く含まれる。
誤食するとけいれんを伴う中毒を起こす。
かつては、頭痛や目まいなどの民間薬として使用され、また、煎じた汁は虫下しとして使われたようです。

こちらは(ミヤマシキミ)有毒植物で葉、果実にはアルカロイドのスキミアニンやジクタムニンがあり、葉に多く含まれる。 誤食するとけいれんを伴う中毒を起こす。 かつては、頭痛や目まいなどの民間薬として使用され、また、煎じた汁は虫下しとして使われたようです。

こちらは(ミヤマシキミ)有毒植物で葉、果実にはアルカロイドのスキミアニンやジクタムニンがあり、葉に多く含まれる。 誤食するとけいれんを伴う中毒を起こす。 かつては、頭痛や目まいなどの民間薬として使用され、また、煎じた汁は虫下しとして使われたようです。

私見上げると青い空が⁉️
と思ったら遂に西峰(主郭)に登りつめました。
万歳です🙌。🤗

私見上げると青い空が⁉️ と思ったら遂に西峰(主郭)に登りつめました。 万歳です🙌。🤗

私見上げると青い空が⁉️ と思ったら遂に西峰(主郭)に登りつめました。 万歳です🙌。🤗

ヤッタ~😅
コムさん‼️主郭
山頂に到着です。🤗

ヤッタ~😅 コムさん‼️主郭 山頂に到着です。🤗

ヤッタ~😅 コムさん‼️主郭 山頂に到着です。🤗

コムさん 《祝》
ついにやりました‼️
尼子十旗すべて
登頂‼️ おめでとう
🎶✨😆✨🎶。🤗

コムさん 《祝》 ついにやりました‼️ 尼子十旗すべて 登頂‼️ おめでとう 🎶✨😆✨🎶。🤗

コムさん 《祝》 ついにやりました‼️ 尼子十旗すべて 登頂‼️ おめでとう 🎶✨😆✨🎶。🤗

こちらは 主郭からの
眺望で、実はまん中の
枝越に大山が見えてる
のですが画像では確認
出来ません‼️😢💦

こちらは 主郭からの 眺望で、実はまん中の 枝越に大山が見えてる のですが画像では確認 出来ません‼️😢💦

こちらは 主郭からの 眺望で、実はまん中の 枝越に大山が見えてる のですが画像では確認 出来ません‼️😢💦

こちらは横田の方向
の眺望です。🤗
しかし、雑木が邪魔‼️

こちらは横田の方向 の眺望です。🤗 しかし、雑木が邪魔‼️

こちらは横田の方向 の眺望です。🤗 しかし、雑木が邪魔‼️

眺望の優れた東峰(二之丸)に移動してランチタイムとします‼️。🤗

眺望の優れた東峰(二之丸)に移動してランチタイムとします‼️。🤗

眺望の優れた東峰(二之丸)に移動してランチタイムとします‼️。🤗

東峰から大山が見えてますが
山頂には雪、そして雲この雲は滞在中は晴れませんでした。🤗

東峰から大山が見えてますが 山頂には雪、そして雲この雲は滞在中は晴れませんでした。🤗

東峰から大山が見えてますが 山頂には雪、そして雲この雲は滞在中は晴れませんでした。🤗

松江方向の眺望になります。🤗

松江方向の眺望になります。🤗

松江方向の眺望になります。🤗

こちは西峰
眺望の良い城の遺構で
記念撮影です。🤗

こちは西峰 眺望の良い城の遺構で 記念撮影です。🤗

こちは西峰 眺望の良い城の遺構で 記念撮影です。🤗

東峰から下山しますが
ここはピンクテープが
頼りになります。🤗

東峰から下山しますが ここはピンクテープが 頼りになります。🤗

東峰から下山しますが ここはピンクテープが 頼りになります。🤗

甲斐の平城は夕景城の支城と思われていますが、最近は、矢筈山からここに主城を移したのではないかという説が出てきているようです。

甲斐の平城は夕景城の支城と思われていますが、最近は、矢筈山からここに主城を移したのではないかという説が出てきているようです。

甲斐の平城は夕景城の支城と思われていますが、最近は、矢筈山からここに主城を移したのではないかという説が出てきているようです。

棚田が連なる大峠集落へ
向かって下山します‼️。🤗

棚田が連なる大峠集落へ 向かって下山します‼️。🤗

棚田が連なる大峠集落へ 向かって下山します‼️。🤗

整備された道は有りません、尾根を選んで下山しますが、時々在る地積調査のカラー杭とテナビ(ピンクテープ)が頼りです。🤗

整備された道は有りません、尾根を選んで下山しますが、時々在る地積調査のカラー杭とテナビ(ピンクテープ)が頼りです。🤗

整備された道は有りません、尾根を選んで下山しますが、時々在る地積調査のカラー杭とテナビ(ピンクテープ)が頼りです。🤗

あちこち何ヵ所も倒木が、下山する私達を阻みます😢💦

あちこち何ヵ所も倒木が、下山する私達を阻みます😢💦

あちこち何ヵ所も倒木が、下山する私達を阻みます😢💦

うわ~
これはきれいだ‼️

うわ~ これはきれいだ‼️

うわ~ これはきれいだ‼️

オット‼️
楓がキレイな
紅葉じゃない‼️。🤗

オット‼️ 楓がキレイな 紅葉じゃない‼️。🤗

オット‼️ 楓がキレイな 紅葉じゃない‼️。🤗

ついに下山しました
しっかりと 締めます
いのしし 柵を。🤗

ついに下山しました しっかりと 締めます いのしし 柵を。🤗

ついに下山しました しっかりと 締めます いのしし 柵を。🤗

このおうちの背にある
のが矢筈山ですが
見えてはいません‼️

このおうちの背にある のが矢筈山ですが 見えてはいません‼️

このおうちの背にある のが矢筈山ですが 見えてはいません‼️

こちら
奥出雲地方を含む中国地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました。
『出雲国風土記』には、「この地で生産される鉄は堅く、いろいろな道具をつくるのに最適である」と、生産される鉄の優秀性が語られています。
最盛期にはこの地域を中心に、全国のおよそ8割を産出していたようです。🤗

こちら 奥出雲地方を含む中国地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました。 『出雲国風土記』には、「この地で生産される鉄は堅く、いろいろな道具をつくるのに最適である」と、生産される鉄の優秀性が語られています。 最盛期にはこの地域を中心に、全国のおよそ8割を産出していたようです。🤗

こちら 奥出雲地方を含む中国地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました。 『出雲国風土記』には、「この地で生産される鉄は堅く、いろいろな道具をつくるのに最適である」と、生産される鉄の優秀性が語られています。 最盛期にはこの地域を中心に、全国のおよそ8割を産出していたようです。🤗

下山して
金言寺に寄り
夕景城の石碑を
コムさんに案内しました。

下山して 金言寺に寄り 夕景城の石碑を コムさんに案内しました。

下山して 金言寺に寄り 夕景城の石碑を コムさんに案内しました。

ここ金言寺の銀杏は
散るのが早い‼️
そばに有るのがいちい(大山伽羅木)

ここ金言寺の銀杏は 散るのが早い‼️ そばに有るのがいちい(大山伽羅木)

ここ金言寺の銀杏は 散るのが早い‼️ そばに有るのがいちい(大山伽羅木)

クラウドファンディングに
より前側の屋根はキレイに
葺き替え出来ています。
本日は残りの葺き替えの為に
住職様は萱草刈りの為不在でした。🤗

クラウドファンディングに より前側の屋根はキレイに 葺き替え出来ています。 本日は残りの葺き替えの為に 住職様は萱草刈りの為不在でした。🤗

クラウドファンディングに より前側の屋根はキレイに 葺き替え出来ています。 本日は残りの葺き替えの為に 住職様は萱草刈りの為不在でした。🤗

金言寺の銀杏の前より(田んぼ側)、2つのピークを持った矢筈山が見えます。🤗
夕景城
矢筈城、寒の峰城、神ノ目城,感ノ目城などの別名あるようです。
尼子十旗の9番目の城(『雲陽軍実記』には「真木城」とある)。

ここで200年近く城を守ったというが、厳冬の寒さのため、後に小馬木に小林城(後に「冬の居城」といわれた)を築城し移っている。

初代馬来氏は大阪の摂津国馬来郷の人で山名氏の一族。
地頭としてこの馬木の地へ来たが、毛利氏による富田城攻めで討死。
尼子氏滅亡後は毛利氏に仕え、豊臣方に味方して敗れた毛利氏が山口県の萩に国替えになった際、萩に移っている。
永徳2年(1382)夕景城を築城。代々の城主関連として馬木氏、真木氏(ともに宇波の人)、三沢氏(みざわし三成)、杠(ゆずりは氏は新見)の名が出てくる。

金言寺の銀杏の前より(田んぼ側)、2つのピークを持った矢筈山が見えます。🤗 夕景城 矢筈城、寒の峰城、神ノ目城,感ノ目城などの別名あるようです。 尼子十旗の9番目の城(『雲陽軍実記』には「真木城」とある)。 ここで200年近く城を守ったというが、厳冬の寒さのため、後に小馬木に小林城(後に「冬の居城」といわれた)を築城し移っている。 初代馬来氏は大阪の摂津国馬来郷の人で山名氏の一族。 地頭としてこの馬木の地へ来たが、毛利氏による富田城攻めで討死。 尼子氏滅亡後は毛利氏に仕え、豊臣方に味方して敗れた毛利氏が山口県の萩に国替えになった際、萩に移っている。 永徳2年(1382)夕景城を築城。代々の城主関連として馬木氏、真木氏(ともに宇波の人)、三沢氏(みざわし三成)、杠(ゆずりは氏は新見)の名が出てくる。

金言寺の銀杏の前より(田んぼ側)、2つのピークを持った矢筈山が見えます。🤗 夕景城 矢筈城、寒の峰城、神ノ目城,感ノ目城などの別名あるようです。 尼子十旗の9番目の城(『雲陽軍実記』には「真木城」とある)。 ここで200年近く城を守ったというが、厳冬の寒さのため、後に小馬木に小林城(後に「冬の居城」といわれた)を築城し移っている。 初代馬来氏は大阪の摂津国馬来郷の人で山名氏の一族。 地頭としてこの馬木の地へ来たが、毛利氏による富田城攻めで討死。 尼子氏滅亡後は毛利氏に仕え、豊臣方に味方して敗れた毛利氏が山口県の萩に国替えになった際、萩に移っている。 永徳2年(1382)夕景城を築城。代々の城主関連として馬木氏、真木氏(ともに宇波の人)、三沢氏(みざわし三成)、杠(ゆずりは氏は新見)の名が出てくる。

ここ金言寺の銀杏とお寺の由来また夕景城と仏山についての看板。

ここ金言寺の銀杏とお寺の由来また夕景城と仏山についての看板。

ここ金言寺の銀杏とお寺の由来また夕景城と仏山についての看板。

馬木小学校から
望む矢筈山を含む吾妻山比婆山系

馬木小学校から 望む矢筈山を含む吾妻山比婆山系

馬木小学校から 望む矢筈山を含む吾妻山比婆山系

馬木小学校から見えた
矢筈山及び吾妻山比婆山各峰々の名前。
吾妻山(島根県奥出雲町)について
島根県と広島県との県境にある山で標高1,239m。イザナギノミコトが比婆山に眠る妻のイザナミノミコトに向け、山頂から「ああ、吾が妻よ」と呼んだことから吾妻山と呼ぶようになったと言われています。大膳原(広大な草原)にはキャンプ場もあります。

馬木小学校から見えた 矢筈山及び吾妻山比婆山各峰々の名前。 吾妻山(島根県奥出雲町)について 島根県と広島県との県境にある山で標高1,239m。イザナギノミコトが比婆山に眠る妻のイザナミノミコトに向け、山頂から「ああ、吾が妻よ」と呼んだことから吾妻山と呼ぶようになったと言われています。大膳原(広大な草原)にはキャンプ場もあります。

馬木小学校から見えた 矢筈山及び吾妻山比婆山各峰々の名前。 吾妻山(島根県奥出雲町)について 島根県と広島県との県境にある山で標高1,239m。イザナギノミコトが比婆山に眠る妻のイザナミノミコトに向け、山頂から「ああ、吾が妻よ」と呼んだことから吾妻山と呼ぶようになったと言われています。大膳原(広大な草原)にはキャンプ場もあります。

高天原を追放されたスサノオは、出雲国の斐伊川の上流の鳥髪の地(船通山)に天降ります。すると、川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会いました。
老夫婦はアシナヅチとテナヅチ。
娘は、クシナダヒメ。

スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいました。でも毎年、山からヤマタノオロチが降りやって来て娘を一人ずつ食べていったのです。今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまいます。それが悲しくて泣いているのでございます」と答えました。
そこでスサノオノミコトはこの辺りで、湧き出す水をつかい酒を仕込み、八つの龜を用いしヤマタノオロチに飲ませ、見事退治するのです、その為この辺りには八頭の地名が今に残っています。

高天原を追放されたスサノオは、出雲国の斐伊川の上流の鳥髪の地(船通山)に天降ります。すると、川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会いました。 老夫婦はアシナヅチとテナヅチ。 娘は、クシナダヒメ。 スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいました。でも毎年、山からヤマタノオロチが降りやって来て娘を一人ずつ食べていったのです。今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまいます。それが悲しくて泣いているのでございます」と答えました。 そこでスサノオノミコトはこの辺りで、湧き出す水をつかい酒を仕込み、八つの龜を用いしヤマタノオロチに飲ませ、見事退治するのです、その為この辺りには八頭の地名が今に残っています。

高天原を追放されたスサノオは、出雲国の斐伊川の上流の鳥髪の地(船通山)に天降ります。すると、川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会いました。 老夫婦はアシナヅチとテナヅチ。 娘は、クシナダヒメ。 スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいました。でも毎年、山からヤマタノオロチが降りやって来て娘を一人ずつ食べていったのです。今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまいます。それが悲しくて泣いているのでございます」と答えました。 そこでスサノオノミコトはこの辺りで、湧き出す水をつかい酒を仕込み、八つの龜を用いしヤマタノオロチに飲ませ、見事退治するのです、その為この辺りには八頭の地名が今に残っています。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

この松は、クシナダヒメが髪を梳る時に用いたと伝わる松の木でした。

この松は、クシナダヒメが髪を梳る時に用いたと伝わる松の木でした。

この松は、クシナダヒメが髪を梳る時に用いたと伝わる松の木でした。

ここは古来、八頭と呼ばれていましたが、その字面はヤマタノオロチを連想させます。

ここは古来、八頭と呼ばれていましたが、その字面はヤマタノオロチを連想させます。

ここは古来、八頭と呼ばれていましたが、その字面はヤマタノオロチを連想させます。

オロチの脅威から隠れて、姫がひっそりここに暮らしていたと言われると、なるほどそんなロマンを感じさせる場所でした。

オロチの脅威から隠れて、姫がひっそりここに暮らしていたと言われると、なるほどそんなロマンを感じさせる場所でした。

オロチの脅威から隠れて、姫がひっそりここに暮らしていたと言われると、なるほどそんなロマンを感じさせる場所でした。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

この池は、松江市の八重垣神社の「佐久佐女の森」の鏡の池に相当するものと思われます。

この池は、松江市の八重垣神社の「佐久佐女の森」の鏡の池に相当するものと思われます。

この池は、松江市の八重垣神社の「佐久佐女の森」の鏡の池に相当するものと思われます。

鏡ヶ池の水は、どんな日照りが続いても渇いたことがなく、オロチ退治の酒を作るときにも、使われたと伝えられています。

鏡ヶ池の水は、どんな日照りが続いても渇いたことがなく、オロチ退治の酒を作るときにも、使われたと伝えられています。

鏡ヶ池の水は、どんな日照りが続いても渇いたことがなく、オロチ退治の酒を作るときにも、使われたと伝えられています。

鏡の池 この角度なんとなく
ハート❤️に見えます。🤗

鏡の池 この角度なんとなく ハート❤️に見えます。🤗

鏡の池 この角度なんとなく ハート❤️に見えます。🤗

霜が降りて大変に寒い朝となり、矢筈山に登る前に皆でラジオ体操(出雲弁)をして身体を温めました。

ここが矢筈山への 道無き登城ぐちです。🤗

「矢筈」の名が示す通り、東西二つの峰がある山で、西の峰が主郭、東の峰にも曲輪群があるようです。 主郭は山頂南端で土塁が付いて幅広の櫓台のような地形が残り、北西隅付近に石積跡らしき加工された石が残っている。主郭から北北西に向かって階段状に曲輪が続いており、全体的に東側に土塁が付いていて、北端は土塁囲みになっている。主郭から南へ伸びた尾根に鋭角に竪堀を組み合わせた堀切が二条残っている。

いのしし柵を開けて山へ入ります‼️ 主郭から東の峰にある東曲輪群に至る途中の鞍部は塚状の土壇を挟んで両側が凹んでおり、堀切であったのかもしれない。東曲輪群は東峰の山頂を中心に西、南、北に平段が付いているが主郭ほど明瞭なものではない。主郭から東麓が見えないので、これを補うのが目的であろうか。

ここが登山道❓ 今朝は霜が降りたので 脚部はずぶ濡れになります。🤗

進むにつれて ヤブが同行さん を包み込みます。

矢筈山への道案内の 看板ですが、ヤブが ひどいので、このまま 進む気になりません。🤗

足下は全く見えません‼️ 何かがひそんでいても、不思議ではありません😢💦

ずっと谷筋を登っているので寒く身体が冷えます、陽があたり始めたので、先頭の同行さんは尾根に向かって登り始めました。

大丈夫ですか❓ 足下がかなり急勾配 なので滑りますよ‼️

尾根に出たらこのような集落の状況が見えます、鉄穴流し(かんなながし)による遺構です、江戸時代に中国山陰地方で大規模に行われた砂鉄の採集方法で、岩石や土に混じった砂鉄を川や水路の流れの破砕力を利用して土砂と分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す。 採り出された砂鉄は主にたたら製鉄の製鉄原料に用いられた。 その結果棚田が副産物として形成されたのです。

相変わらず登山道は無く、急勾配が続きます。

今日みたいな 霜が降りた寒いなか 注意して良く見てください マムシがひなたぼっこ かなり6人で騒ぎますが ピクリとも動きません‼️。🤗

こちらは(ミヤマシキミ)有毒植物で葉、果実にはアルカロイドのスキミアニンやジクタムニンがあり、葉に多く含まれる。 誤食するとけいれんを伴う中毒を起こす。 かつては、頭痛や目まいなどの民間薬として使用され、また、煎じた汁は虫下しとして使われたようです。

私見上げると青い空が⁉️ と思ったら遂に西峰(主郭)に登りつめました。 万歳です🙌。🤗

ヤッタ~😅 コムさん‼️主郭 山頂に到着です。🤗

コムさん 《祝》 ついにやりました‼️ 尼子十旗すべて 登頂‼️ おめでとう 🎶✨😆✨🎶。🤗

こちらは 主郭からの 眺望で、実はまん中の 枝越に大山が見えてる のですが画像では確認 出来ません‼️😢💦

こちらは横田の方向 の眺望です。🤗 しかし、雑木が邪魔‼️

眺望の優れた東峰(二之丸)に移動してランチタイムとします‼️。🤗

東峰から大山が見えてますが 山頂には雪、そして雲この雲は滞在中は晴れませんでした。🤗

松江方向の眺望になります。🤗

こちは西峰 眺望の良い城の遺構で 記念撮影です。🤗

東峰から下山しますが ここはピンクテープが 頼りになります。🤗

甲斐の平城は夕景城の支城と思われていますが、最近は、矢筈山からここに主城を移したのではないかという説が出てきているようです。

棚田が連なる大峠集落へ 向かって下山します‼️。🤗

整備された道は有りません、尾根を選んで下山しますが、時々在る地積調査のカラー杭とテナビ(ピンクテープ)が頼りです。🤗

あちこち何ヵ所も倒木が、下山する私達を阻みます😢💦

うわ~ これはきれいだ‼️

オット‼️ 楓がキレイな 紅葉じゃない‼️。🤗

ついに下山しました しっかりと 締めます いのしし 柵を。🤗

このおうちの背にある のが矢筈山ですが 見えてはいません‼️

こちら 奥出雲地方を含む中国地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていました。 『出雲国風土記』には、「この地で生産される鉄は堅く、いろいろな道具をつくるのに最適である」と、生産される鉄の優秀性が語られています。 最盛期にはこの地域を中心に、全国のおよそ8割を産出していたようです。🤗

下山して 金言寺に寄り 夕景城の石碑を コムさんに案内しました。

ここ金言寺の銀杏は 散るのが早い‼️ そばに有るのがいちい(大山伽羅木)

クラウドファンディングに より前側の屋根はキレイに 葺き替え出来ています。 本日は残りの葺き替えの為に 住職様は萱草刈りの為不在でした。🤗

金言寺の銀杏の前より(田んぼ側)、2つのピークを持った矢筈山が見えます。🤗 夕景城 矢筈城、寒の峰城、神ノ目城,感ノ目城などの別名あるようです。 尼子十旗の9番目の城(『雲陽軍実記』には「真木城」とある)。 ここで200年近く城を守ったというが、厳冬の寒さのため、後に小馬木に小林城(後に「冬の居城」といわれた)を築城し移っている。 初代馬来氏は大阪の摂津国馬来郷の人で山名氏の一族。 地頭としてこの馬木の地へ来たが、毛利氏による富田城攻めで討死。 尼子氏滅亡後は毛利氏に仕え、豊臣方に味方して敗れた毛利氏が山口県の萩に国替えになった際、萩に移っている。 永徳2年(1382)夕景城を築城。代々の城主関連として馬木氏、真木氏(ともに宇波の人)、三沢氏(みざわし三成)、杠(ゆずりは氏は新見)の名が出てくる。

ここ金言寺の銀杏とお寺の由来また夕景城と仏山についての看板。

馬木小学校から 望む矢筈山を含む吾妻山比婆山系

馬木小学校から見えた 矢筈山及び吾妻山比婆山各峰々の名前。 吾妻山(島根県奥出雲町)について 島根県と広島県との県境にある山で標高1,239m。イザナギノミコトが比婆山に眠る妻のイザナミノミコトに向け、山頂から「ああ、吾が妻よ」と呼んだことから吾妻山と呼ぶようになったと言われています。大膳原(広大な草原)にはキャンプ場もあります。

高天原を追放されたスサノオは、出雲国の斐伊川の上流の鳥髪の地(船通山)に天降ります。すると、川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会いました。 老夫婦はアシナヅチとテナヅチ。 娘は、クシナダヒメ。 スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいました。でも毎年、山からヤマタノオロチが降りやって来て娘を一人ずつ食べていったのです。今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまいます。それが悲しくて泣いているのでございます」と答えました。 そこでスサノオノミコトはこの辺りで、湧き出す水をつかい酒を仕込み、八つの龜を用いしヤマタノオロチに飲ませ、見事退治するのです、その為この辺りには八頭の地名が今に残っています。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

この松は、クシナダヒメが髪を梳る時に用いたと伝わる松の木でした。

ここは古来、八頭と呼ばれていましたが、その字面はヤマタノオロチを連想させます。

オロチの脅威から隠れて、姫がひっそりここに暮らしていたと言われると、なるほどそんなロマンを感じさせる場所でした。

斐伊川沿いに点在するヤマタノオロチの伝承地をなぞるなら、松江市の八重垣神社は遠く離れすぎていると思われます。

この池は、松江市の八重垣神社の「佐久佐女の森」の鏡の池に相当するものと思われます。

鏡ヶ池の水は、どんな日照りが続いても渇いたことがなく、オロチ退治の酒を作るときにも、使われたと伝えられています。

鏡の池 この角度なんとなく ハート❤️に見えます。🤗