活動データ
タイム
03:56
距離
8.5km
のぼり
763m
くだり
773m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る往古より相模・甲斐・駿河の国境に接していた丹沢山塊は、歴史に名のある戦いの舞台にもなりました。 最も有名なものは、群雄割拠の戦国時代における武田氏と北条氏の衝突です。 1569年10月。甲斐の武田信玄による小田原攻めの際、難攻不落の小田原城で籠城作戦に徹した北条氏康を攻めあぐねて本国に撤収する信玄の本隊に、血気に逸る北条氏照・氏邦 率いる軍勢が襲いかかり、戦国時代 最大規模の山岳戦とされる【三増峠の戦い】が勃発しました。 北条氏康も小田原から軍勢を率いて武田信玄を挟撃すべく進軍しましたが、到着前に既に三増峠では山岳戦に秀でた武田軍が優勢となっており、北条軍は敗走したといいます。 また、この戦いに付随して、犬越路北麓の青根では北条氏の傘下にあった日向薬師の山伏団と武田軍の戦闘がありました。 さらに、現在 丹沢表尾根縦走の起点となっている「ヤビツ峠」付近でも激しい戦闘があったとの説があります。 一連の戦闘では双方合わせて3000人を越える死者が出たとされ、北条側の被害が甚大だった一方で武田側も侍大将の一人を失うなど手痛い打撃を受けました。 さて、この丹沢山塊に伝わる幾つもの信玄伝説の中で、今なお地名に残るものの代表格は西丹沢の異色の峠「犬越路」ではないでしょうか。 小田原攻めの際、信玄 率いる軍勢が軍犬に先導されてこの峠を越えたといいます。 犬は信玄の愛犬とも、軍勢が峠路を辿るうちにどこからともなく現れ、信玄らを案内して何処かへ消えた山犬とも伝えられています。 この伝説は甲州側の山麓民によって長らく語り継がれ、昭和に入って登山が一般化してからは多くの登山者が伝説に心惹かれてこの峠を訪れました。 しかしこの伝説を裏づける史料は皆無で、一連の戦乱における武田の別働隊もさらに西の城ヶ尾峠を越えたとされる事から、犬越路と武田信玄は直接の関係は無いと考えられます。 しかし、小田原攻めの翌月の11月にも信玄率いる武田軍は駿河・相模に侵攻し、丹沢山塊では犬越路 南麓の中川川沿いにあった中川城・湯ノ沢城・大仏城山などの山城や砦が武田勝頼らの攻撃を受けて陥落、半年近くに亘って占拠されたとの記録があります。 この辺りの山間部から甲斐に抜ける近道は二本杉峠と城ヶ尾峠を越える道ですが、犬越路からも津久井や道志に抜ける事ができます。 犬越路の北麓は当時 北条氏の配下であった津久井衆の領内に接していたものの、武田氏と北条氏が長年に亘って鬩ぎ合いを繰り広げていた地域であり、地元の土豪の中には武田側に心を寄せる者も多かったとされる事から、武田の一部の軍勢が犬越路を越えた可能性も考えられます。 一方で、信玄伝説の他にも狼や猪、犬に関する説、さらに地形語説など、犬越路の峠名由来は諸説紛々としており、大変興味深いものがあります。 今回は峠にある「犬越路避難小屋」に泊まる事を主目的に、【犬越路の伝説と地名由来の検証】と銘打って、半年ぶりに丹沢の山の空気を吸ってきました。 犬越路をめぐる諸説、避難小屋泊の様子については以下の日記に記しています。 山行日記 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967918113&owner_id=12844177 犬越路避難小屋泊 信玄伝説を訪ねて 0、半年ぶりの西丹沢へ 1、夏の風景 2、用木沢出合から犬越路へ 3、避難小屋泊 霧の夜 4、犬越路の信玄伝説と峠名考証 5、西丹沢の夏の朝
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