大畑〜福智西山城〜下狭川行者堂〜歯痛地蔵〜国境の弁財天〜前椚古墳群

2022.12.15(木) 日帰り

活動データ

タイム

07:54

距離

28.2km

のぼり

1223m

くだり

1356m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
7 時間 54
休憩時間
21
距離
28.2 km
のぼり / くだり
1223 / 1356 m

活動詳細

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先日狭川両町の光明寺でお寺の方に「狭川・歴史マップ」を見せていただきました。 https://yamap.com/activities/21300950/article#image-289693466 今回は、「狭川・歴史マップ」の気になる場所を回ってきました。

奈良市(東エリア) 大畑から狭川に降っていく道の入り口。
大畑から狭川に降っていく道の入り口。
奈良市(東エリア) 倒木が多くすっかり荒れていますが、深いくぼみが長い年月ここが道だったことを教えてくれます。
倒木が多くすっかり荒れていますが、深いくぼみが長い年月ここが道だったことを教えてくれます。
奈良市(東エリア) 明治22年に作成された西狭川村実測全図に「大坂」という地名が記載されています。今回歩いた道の周囲には「道ノ前」と言った道に因んだ地名もあり、この道が主要な道だったことがわかります。明治に作成された旧東里村各村の実測全図は、奈良市東部出張所で複製を閲覧・撮影できます(要閲覧手数料)。
明治22年に作成された西狭川村実測全図に「大坂」という地名が記載されています。今回歩いた道の周囲には「道ノ前」と言った道に因んだ地名もあり、この道が主要な道だったことがわかります。明治に作成された旧東里村各村の実測全図は、奈良市東部出張所で複製を閲覧・撮影できます(要閲覧手数料)。
奈良市(東エリア) もうすぐ谷底です。
もうすぐ谷底です。
奈良市(東エリア) 谷底にたどり着くと、笹藪と化した放棄田を突っ切らなければなりません。
谷底にたどり着くと、笹藪と化した放棄田を突っ切らなければなりません。
奈良市(東エリア) イノシシかシカがこじ開けた獣道に飛び込んで、藪を漕ぎ漕ぎなんとか向こう側へ渡りました。小川の向こうに、獣道が見えます。ここから藪をかき分けて進みました。意外にもほぼ元の道に沿って獣道があるようでした。
イノシシかシカがこじ開けた獣道に飛び込んで、藪を漕ぎ漕ぎなんとか向こう側へ渡りました。小川の向こうに、獣道が見えます。ここから藪をかき分けて進みました。意外にもほぼ元の道に沿って獣道があるようでした。
奈良市(東エリア) 1975年に撮影された航空写真では、上空からも道がはっきりと見えています。
1975年に撮影された航空写真では、上空からも道がはっきりと見えています。
奈良市(東エリア) 2021年に撮影された航空写真では、上空から見ても道の位置が全くわかりません。
2021年に撮影された航空写真では、上空から見ても道の位置が全くわかりません。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)によると、「不動橋そばに不動の滝と不動尊石仏があって参拝人が多く、茶屋もあったという」ことです。確かに小さな滝はありましたが、茶屋の痕跡については何も見つかりませんでした。
「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)によると、「不動橋そばに不動の滝と不動尊石仏があって参拝人が多く、茶屋もあったという」ことです。確かに小さな滝はありましたが、茶屋の痕跡については何も見つかりませんでした。
奈良市(東エリア) 川の南岸に小さな平坦地があり、不動橋から平坦地まで石垣が築かれていました。
川の南岸に小さな平坦地があり、不動橋から平坦地まで石垣が築かれていました。
奈良市(東エリア) もし安郷川に不動石仏が落ちていたとしても、彫られている面が上を向いていない限り、とても見つけられそうにありません。
もし安郷川に不動石仏が落ちていたとしても、彫られている面が上を向いていない限り、とても見つけられそうにありません。
奈良市(東エリア) 小滝の南岸に小さな平坦地がありました。もしかするとこれが茶屋跡でしょうか。
小滝の南岸に小さな平坦地がありました。もしかするとこれが茶屋跡でしょうか。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)に「福智西山城跡」が「室町時代の佐野氏の城跡、現在は畑」と紹介されています。また、明治22年に作成された西狭川村実測全図でも、「福智西山城跡」とされる付近に「城山」という地名が記載されています。
「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)に「福智西山城跡」が「室町時代の佐野氏の城跡、現在は畑」と紹介されています。また、明治22年に作成された西狭川村実測全図でも、「福智西山城跡」とされる付近に「城山」という地名が記載されています。
奈良市(東エリア) しかし「福智西山城跡」は、奈良県遺跡地図には記載がなく、奈良県「奈良県中近世城館跡調査報告書」(2020)でも調査対象とされていません。専門的な調査が見当たらないことから、「福智西山城跡」を城跡と評価して良いのか不明ですが、実際に現地を訪れてみたところ、切岸や土塁らしき地形を確認することができました。

ただ、主郭に当たる頂上の平坦地は、既に畑が放棄され一面の笹藪となっており、外側を回ることしかできませんでした。試みに縄張り図を作成しましたが、見通しが利かなかった頂上部分をはじめ、あまり正確ではありません。

以下は現地の様子です。

北東側には1.5mほどの土塁のような地形がありました。また北西側から北東側にかけて、明瞭に切岸らしき地形があり、南西側にも切岸の痕跡らしき段差が山裾を巻いていました。北西側には土塁状地形が全くなく、南西側でも0.5mほどの低い土塁状地形しかありませんでした。もしこの場所が城跡であるなら、後世耕作地とされたときに、北西側と南西側の土塁は崩されたのかもしれません。

現存する地形からは南西側の防御が手薄なように思えますが、南西側の土塁を崩した時に切岸が埋められたとすると、元は南西側にも北東側に近い規模の切岸があった可能性もあります。

一方南側には土塁や切岸などの防御設備らしきものは見当たりませんでした。現在車道となっている安郷川沿いの道は近代以降に作られました。つまりこの城跡(?)が作られた頃、城跡の南側には安郷川の渓谷しかありませんでした。そのため南側には防御設備が必要なかったとも考えられます。

この場所が城跡かどうかは定かではありませんが、この場所が古くからある古道を押さえるのに適した場所であることは確かで、城が築かれても全くおかしくないと思います。
しかし「福智西山城跡」は、奈良県遺跡地図には記載がなく、奈良県「奈良県中近世城館跡調査報告書」(2020)でも調査対象とされていません。専門的な調査が見当たらないことから、「福智西山城跡」を城跡と評価して良いのか不明ですが、実際に現地を訪れてみたところ、切岸や土塁らしき地形を確認することができました。 ただ、主郭に当たる頂上の平坦地は、既に畑が放棄され一面の笹藪となっており、外側を回ることしかできませんでした。試みに縄張り図を作成しましたが、見通しが利かなかった頂上部分をはじめ、あまり正確ではありません。 以下は現地の様子です。 北東側には1.5mほどの土塁のような地形がありました。また北西側から北東側にかけて、明瞭に切岸らしき地形があり、南西側にも切岸の痕跡らしき段差が山裾を巻いていました。北西側には土塁状地形が全くなく、南西側でも0.5mほどの低い土塁状地形しかありませんでした。もしこの場所が城跡であるなら、後世耕作地とされたときに、北西側と南西側の土塁は崩されたのかもしれません。 現存する地形からは南西側の防御が手薄なように思えますが、南西側の土塁を崩した時に切岸が埋められたとすると、元は南西側にも北東側に近い規模の切岸があった可能性もあります。 一方南側には土塁や切岸などの防御設備らしきものは見当たりませんでした。現在車道となっている安郷川沿いの道は近代以降に作られました。つまりこの城跡(?)が作られた頃、城跡の南側には安郷川の渓谷しかありませんでした。そのため南側には防御設備が必要なかったとも考えられます。 この場所が城跡かどうかは定かではありませんが、この場所が古くからある古道を押さえるのに適した場所であることは確かで、城が築かれても全くおかしくないと思います。
奈良市(東エリア) 頂上部一面の笹藪。少し入り込んでみたものの引き返すのも一苦労でした。
頂上部一面の笹藪。少し入り込んでみたものの引き返すのも一苦労でした。
奈良市(東エリア) 北東側の土塁らしき地形。
北東側の土塁らしき地形。
奈良市(東エリア) 北東側の切岸。
北東側の切岸。
奈良市(東エリア) 福智西山城跡に登っていく道の左側に、安郷川へ下る道があります。写真は、安郷川近くまで降りてきたところで曲がり角を曲がると、眼下に現在の車道が見えました。
福智西山城跡に登っていく道の左側に、安郷川へ下る道があります。写真は、安郷川近くまで降りてきたところで曲がり角を曲がると、眼下に現在の車道が見えました。
奈良市(東エリア) 旧道はここで車道と合流します。右側の斜めに降りてくる道が旧道です。出口あたりは笹に覆われていました。
旧道はここで車道と合流します。右側の斜めに降りてくる道が旧道です。出口あたりは笹に覆われていました。
奈良市(東エリア) 九頭神社にある長享三年(1489)の石灯籠。完全な室町中期の石灯籠として貴重だそうです。
九頭神社にある長享三年(1489)の石灯籠。完全な室町中期の石灯籠として貴重だそうです。
奈良市(東エリア) 自動車でやってきて、九頭神社の清掃をしているおじいさんがおられました。地域から大切にされているのがわかります。
自動車でやってきて、九頭神社の清掃をしているおじいさんがおられました。地域から大切にされているのがわかります。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」に「行者堂の下の大井手淵で(下狭川)奥町の人が毎年土用の日に淵を清め禊をしている」と書かれていますが、ここが大井手淵でしょうか。

この祭事を「ふじごえとり」といい、「節越えとり」がなまったものと言われ、季節の変わり目に行う禊とのことです。
「狭川・歴史マップ」に「行者堂の下の大井手淵で(下狭川)奥町の人が毎年土用の日に淵を清め禊をしている」と書かれていますが、ここが大井手淵でしょうか。 この祭事を「ふじごえとり」といい、「節越えとり」がなまったものと言われ、季節の変わり目に行う禊とのことです。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)によると、行者堂のあるあたりは山岳信仰の行場だったといいます。行者堂を拝むと、自分のすぐ後ろは崖で、足がすくむようでした。行者堂には役行者像が祀られています。この辺りでは珍しく、役行者像に全く破壊痕がありません。しかもまさかりを持った前鬼と水瓶を持った後鬼を従えています。残念ながら、前鬼の首が失われていますが、それ以外は非常に状態が良く、明治の神仏分離・廃仏毀釈による修験道の迫害を乗り越え、大切に守られてきたことを窺わせます。
「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)によると、行者堂のあるあたりは山岳信仰の行場だったといいます。行者堂を拝むと、自分のすぐ後ろは崖で、足がすくむようでした。行者堂には役行者像が祀られています。この辺りでは珍しく、役行者像に全く破壊痕がありません。しかもまさかりを持った前鬼と水瓶を持った後鬼を従えています。残念ながら、前鬼の首が失われていますが、それ以外は非常に状態が良く、明治の神仏分離・廃仏毀釈による修験道の迫害を乗り越え、大切に守られてきたことを窺わせます。
奈良市(東エリア) 水瓶を持った後鬼。
水瓶を持った後鬼。
奈良市(東エリア) まさかりを持った前鬼。首が失われています。
まさかりを持った前鬼。首が失われています。
奈良市(東エリア) 大岩の上に行者堂があります。
大岩の上に行者堂があります。
奈良市(東エリア) 下狭川城西側の土塁。
下狭川城西側の土塁。
奈良市(東エリア) 下狭川城北側の横堀。道のように見えますが下狭川城を守る空堀です。
下狭川城北側の横堀。道のように見えますが下狭川城を守る空堀です。
奈良市(東エリア) 主郭北側の土塁。
主郭北側の土塁。
奈良市(東エリア) 主郭の上から横堀の北東角あたりを見たところ。幅が広く深い横堀です。
主郭の上から横堀の北東角あたりを見たところ。幅が広く深い横堀です。
奈良市(東エリア) 下狭川磨崖仏。
下狭川磨崖仏。
奈良市(東エリア) 歯痛地蔵。白砂川発電所の対岸に三尊磨崖仏があり、歯痛地蔵と呼ばれています。

白砂川発電所の対岸付近に大きな岩が積み重なって車道に迫り出している場所がありますが、その西の端にある大きな岩の上の方、車道から5mほどの高さに三体の磨崖仏が彫られています。おそらく白砂川沿いの道を拡幅する際、元の道が掘り下げられ、磨崖仏が高いところに取り残されたものと思います。

高いところにある上、地衣類や植物に覆われ像容がよくわかりませんが、三体それぞれに舟形の光背が彫りくぼめられており、中央の光背が左右に比べやや大きいようにも見えます。阿弥陀三尊像という可能性もありそうです。
歯痛地蔵。白砂川発電所の対岸に三尊磨崖仏があり、歯痛地蔵と呼ばれています。 白砂川発電所の対岸付近に大きな岩が積み重なって車道に迫り出している場所がありますが、その西の端にある大きな岩の上の方、車道から5mほどの高さに三体の磨崖仏が彫られています。おそらく白砂川沿いの道を拡幅する際、元の道が掘り下げられ、磨崖仏が高いところに取り残されたものと思います。 高いところにある上、地衣類や植物に覆われ像容がよくわかりませんが、三体それぞれに舟形の光背が彫りくぼめられており、中央の光背が左右に比べやや大きいようにも見えます。阿弥陀三尊像という可能性もありそうです。
奈良市(東エリア) 磨崖仏の真横あたりに登って写真を撮りました。怖かったのでこの時はこれが限界。
磨崖仏の真横あたりに登って写真を撮りました。怖かったのでこの時はこれが限界。
奈良市(東エリア) 白砂川発電所のすぐ下流に「馬ばか」と呼ばれる淵があります。「狭川・歴史マップ」によると「昔の笠置街道、広岡越えの難所で、馬鹿な馬しか通らなかったからとも、馬墓とも呼ばれた」とのことです。馬がこの淵にはまることがよくあったのだとすると、大岩を越えるために歯痛地蔵のような高い場所に登ったり、淵に近い場所まで降りたり、昔は大変な道だったのかもしれません。
白砂川発電所のすぐ下流に「馬ばか」と呼ばれる淵があります。「狭川・歴史マップ」によると「昔の笠置街道、広岡越えの難所で、馬鹿な馬しか通らなかったからとも、馬墓とも呼ばれた」とのことです。馬がこの淵にはまることがよくあったのだとすると、大岩を越えるために歯痛地蔵のような高い場所に登ったり、淵に近い場所まで降りたり、昔は大変な道だったのかもしれません。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30年(2018年)11月)に、「明治41年(1908年)明治天皇行幸の時、ここから送電されて奈良に初めて電灯が灯った。狭川村に灯ったのは45年(1912年)」と書かれています。しかしこの説明は史実とは少し異なっていました。

実際には、明治27年(1894年)に既に、奈良電灯株式会社が奈良市内に設立されており、設立当初で170戸、10燭光300灯とわずかではあるものの、火力発電による電気を現在の奈良市内の一部に供給していました。ところが火力発電に必要な石炭が、日清戦争の影響を受けて値上がりし続けため、事業が伸び悩みます。

そこへ明治38年(1905年)、水力発電を計画する関西水力電気株式会社が設立され、設立と同時に同社は奈良電灯の事業を譲り受けることとなります。事業が譲渡された時点で、奈良電灯の需要戸数は250戸、供給灯数700灯という程度で、設立当初からそれほど増えていませんでした。(『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年、3〜4頁)

白砂川発電所は、関西水力電気の第一発電所として、明治40年(1907年)9月、現在の奈良市下狭川町、寺坂橋下流200mほどの白砂川南岸に建設されました。車道(県道33号線)から見える対岸の石垣がその跡地です。白砂川を2.5kmほど遡った奈良市阪原町内に発電用水の取水堰があり、そこから山肌を巻くようにして水路を引き、約50mの標高差がある、車道の向かい側の尾根の上から水を落とすことで、出力200kWの発電機を回していました。取水堰と発電所の標高差は100m強ほどあります。

関西水力電気は、白砂川発電所が完成するとすぐに、それまでの火力発電所を廃止して、奈良市と郡山町(大和郡山市)に水力発電による電灯を灯し、点灯料金を大幅に値下げしました。そのため需要が急激に増加、さらに翌明治41年(1908年)秋に明治天皇を迎えての特別大演習を奈良で挙行するにあたり、多数の電灯設備が必要となる旨、その筋より内命があったことから、第二発電所である布目川発電所(出力300kW)の建設を急ぎ、同発電所は明治41年(1908年)11月に完成しました。(山下孝二編『大和大観』大正4(1915)、33〜35頁)

明治天皇を迎えての特別大演習に合わせ完成を急いだのは、白砂川発電所ではなく、木津川と布目川の合流点付近に現在もある布目川発電所の方だったようです。

白砂川発電所はその後、1922年(大正11年)ごろに、約800m下流に移設されて、出力が480kWに増強されます(『電気事業要覧』第13回、逓信協会、1922年、148頁)が、1967年(昭和42年)には廃止されたとのことです。ちなみに、白砂川発電所の移設先は、現在鉄工所となっています。
https://goo.gl/maps/6VrC7CdVjADAydsZ9

こちらの記事( https://sakoda-water.c-co.jp/pages/70.html )によると、鉄工所の方に思い切って声をかけてみたところ、「知ってるで!ここの地下に発電所があったんや!出口は見えるで」ということで、親切な鉄工所の方に放水路跡を見せてもらえたそうです。
「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30年(2018年)11月)に、「明治41年(1908年)明治天皇行幸の時、ここから送電されて奈良に初めて電灯が灯った。狭川村に灯ったのは45年(1912年)」と書かれています。しかしこの説明は史実とは少し異なっていました。 実際には、明治27年(1894年)に既に、奈良電灯株式会社が奈良市内に設立されており、設立当初で170戸、10燭光300灯とわずかではあるものの、火力発電による電気を現在の奈良市内の一部に供給していました。ところが火力発電に必要な石炭が、日清戦争の影響を受けて値上がりし続けため、事業が伸び悩みます。 そこへ明治38年(1905年)、水力発電を計画する関西水力電気株式会社が設立され、設立と同時に同社は奈良電灯の事業を譲り受けることとなります。事業が譲渡された時点で、奈良電灯の需要戸数は250戸、供給灯数700灯という程度で、設立当初からそれほど増えていませんでした。(『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年、3〜4頁) 白砂川発電所は、関西水力電気の第一発電所として、明治40年(1907年)9月、現在の奈良市下狭川町、寺坂橋下流200mほどの白砂川南岸に建設されました。車道(県道33号線)から見える対岸の石垣がその跡地です。白砂川を2.5kmほど遡った奈良市阪原町内に発電用水の取水堰があり、そこから山肌を巻くようにして水路を引き、約50mの標高差がある、車道の向かい側の尾根の上から水を落とすことで、出力200kWの発電機を回していました。取水堰と発電所の標高差は100m強ほどあります。 関西水力電気は、白砂川発電所が完成するとすぐに、それまでの火力発電所を廃止して、奈良市と郡山町(大和郡山市)に水力発電による電灯を灯し、点灯料金を大幅に値下げしました。そのため需要が急激に増加、さらに翌明治41年(1908年)秋に明治天皇を迎えての特別大演習を奈良で挙行するにあたり、多数の電灯設備が必要となる旨、その筋より内命があったことから、第二発電所である布目川発電所(出力300kW)の建設を急ぎ、同発電所は明治41年(1908年)11月に完成しました。(山下孝二編『大和大観』大正4(1915)、33〜35頁) 明治天皇を迎えての特別大演習に合わせ完成を急いだのは、白砂川発電所ではなく、木津川と布目川の合流点付近に現在もある布目川発電所の方だったようです。 白砂川発電所はその後、1922年(大正11年)ごろに、約800m下流に移設されて、出力が480kWに増強されます(『電気事業要覧』第13回、逓信協会、1922年、148頁)が、1967年(昭和42年)には廃止されたとのことです。ちなみに、白砂川発電所の移設先は、現在鉄工所となっています。 https://goo.gl/maps/6VrC7CdVjADAydsZ9 こちらの記事( https://sakoda-water.c-co.jp/pages/70.html )によると、鉄工所の方に思い切って声をかけてみたところ、「知ってるで!ここの地下に発電所があったんや!出口は見えるで」ということで、親切な鉄工所の方に放水路跡を見せてもらえたそうです。
奈良市(東エリア) 広岡町九頭神社脇公民館(善光寺跡)の石造物。右端の六字名号碑に「南無阿弥陀佛(法名多数)/天正廿年壬辰/五月廿四日」。
広岡町九頭神社脇公民館(善光寺跡)の石造物。右端の六字名号碑に「南無阿弥陀佛(法名多数)/天正廿年壬辰/五月廿四日」。
奈良市(東エリア) 「狭川・歴史マップ」に、「光仁天皇陵跡」とある場所。6年後に田原に改葬されたといいます。
「狭川・歴史マップ」に、「光仁天皇陵跡」とある場所。6年後に田原に改葬されたといいます。
奈良市(東エリア) 奈良市と笠置町の境(数メートル笠置町側)にある弁財天社(?)。Googleマップでは「境の神」と紹介されていますが、お社左にある石灯籠には「辨財天」の文字が見えます。

また動物が覆屋の中にある小さなお社を破壊していました。多分木の中にいるアリや虫が目当てなのだろうと思います。
奈良市と笠置町の境(数メートル笠置町側)にある弁財天社(?)。Googleマップでは「境の神」と紹介されていますが、お社左にある石灯籠には「辨財天」の文字が見えます。 また動物が覆屋の中にある小さなお社を破壊していました。多分木の中にいるアリや虫が目当てなのだろうと思います。
奈良市(東エリア) 「辨財天」
「辨財天」
奈良市(東エリア) 特徴的な岩の前にお社があります。この右手に小さな滝があり、往事は行場だったような雰囲気もあります。
特徴的な岩の前にお社があります。この右手に小さな滝があり、往事は行場だったような雰囲気もあります。
奈良市(東エリア) お社のあるあたりは石垣が組まれています。
お社のあるあたりは石垣が組まれています。
奈良市(東エリア) 今は荒れていますが、かつては参詣者が多い場所だったのかもしれません。
今は荒れていますが、かつては参詣者が多い場所だったのかもしれません。
奈良市(東エリア) 道を横切るくぼみが阿蘇陣城の空堀跡です。この道の先30mほどのところにもう一つあります。
道を横切るくぼみが阿蘇陣城の空堀跡です。この道の先30mほどのところにもう一つあります。
奈良市(東エリア) 三角点への尾根道にインパクトのある目印。この、板に「道」と書いた札、最近あちこちでよく見ます😅。
三角点への尾根道にインパクトのある目印。この、板に「道」と書いた札、最近あちこちでよく見ます😅。
奈良市(東エリア) 茶畑から狭川、須川方面を望む。
茶畑から狭川、須川方面を望む。
奈良市(東エリア) 美しい山田の茶畑。
美しい山田の茶畑。
奈良市(東エリア) 山の中にカーブミラーの柱があります。拡幅される前の道はあのあたりを通っていたようです。
山の中にカーブミラーの柱があります。拡幅される前の道はあのあたりを通っていたようです。
奈良市(東エリア) 当尾北部と加茂を結ぶ「くぬぎ坂旧道」。久しぶりに通ってみたら、めちゃくちゃ綺麗に整備されていました。ナラ枯れの倒木で荒れていたように思ったのですが「ふるさと案内かも」の皆様が頑張ってくださったようです。
当尾北部と加茂を結ぶ「くぬぎ坂旧道」。久しぶりに通ってみたら、めちゃくちゃ綺麗に整備されていました。ナラ枯れの倒木で荒れていたように思ったのですが「ふるさと案内かも」の皆様が頑張ってくださったようです。
奈良市(東エリア) 石畳。
石畳。
奈良市(東エリア) 前椚古墳群も見学しやすく整備されていました。こちらは車道に面した崖の上にある2号墳。中に入れます。
前椚古墳群も見学しやすく整備されていました。こちらは車道に面した崖の上にある2号墳。中に入れます。

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