浄瑠璃寺〜芳山〜滝坂の道・仏像岩

2022.11.19(土) 日帰り

活動データ

タイム

06:54

距離

17.6km

のぼり

867m

くだり

954m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
6 時間 54
休憩時間
52
距離
17.6 km
のぼり / くだり
867 / 954 m
3
4
18
2 47

活動詳細

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夕日観音のある岩塊に四体石仏が刻まれているのですが、それがどこにあるのか教えていただけた( https://twitter.com/heijo_tourism/status/1592930737753579520 )ので見てきました。

奈良市(東エリア) 午前中の浄瑠璃寺さん。浄瑠璃寺さんの紅葉は三重塔側にたくさんあるので、午後の方が紅葉に日の光が当たって写真を撮りやすいかもしれないと思いました。ご住職から最近は夏の酷暑で木が弱ってしまって、紅葉が今一つと聞いた覚えがあるのですが、確かに色づいた端から縮れている気が。残念😢。
午前中の浄瑠璃寺さん。浄瑠璃寺さんの紅葉は三重塔側にたくさんあるので、午後の方が紅葉に日の光が当たって写真を撮りやすいかもしれないと思いました。ご住職から最近は夏の酷暑で木が弱ってしまって、紅葉が今一つと聞いた覚えがあるのですが、確かに色づいた端から縮れている気が。残念😢。
奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺の池の南西に沈んでいる和舟。
浄瑠璃寺の池の南西に沈んでいる和舟。
奈良市(東エリア) 長尾の阿弥陀から少し浄瑠璃寺方面に登ったところの山際にあるこのお像は、史迹と美術[21](7)(215)、村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)p260-261によると右から定印、合掌印、錫杖宝珠の三尊で全員お地蔵様だそうです。確かに肉髻表現がないように見えます。あまりお見かけしない形式ですね。元は磨崖仏で、道路の拡幅工事でこのお像の右手にあった岩から剥ぎ取られましたが、少し失敗して右側が欠けたのだそうです。
長尾の阿弥陀から少し浄瑠璃寺方面に登ったところの山際にあるこのお像は、史迹と美術[21](7)(215)、村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)p260-261によると右から定印、合掌印、錫杖宝珠の三尊で全員お地蔵様だそうです。確かに肉髻表現がないように見えます。あまりお見かけしない形式ですね。元は磨崖仏で、道路の拡幅工事でこのお像の右手にあった岩から剥ぎ取られましたが、少し失敗して右側が欠けたのだそうです。
奈良市(東エリア) 長尾の阿弥陀。「徳治二年(1307)丁未四月廿九日 造立之 願主僧行乗」
長尾の阿弥陀。「徳治二年(1307)丁未四月廿九日 造立之 願主僧行乗」
奈良市(東エリア) 長尾の阿弥陀の笠石は後ろ半分は割と手抜きと聞いて、上から見てきました。確かに後ろ半分はあやふやです。(史迹と美術[21][(7)](215)-村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)-p262-263)
長尾の阿弥陀の笠石は後ろ半分は割と手抜きと聞いて、上から見てきました。確かに後ろ半分はあやふやです。(史迹と美術[21][(7)](215)-村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)-p262-263)
奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏。剥落した上半身部分。
浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏。剥落した上半身部分。
奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏下半身部分。「永仁四年(1296)丙申二月四日願主僧祐乗」
浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏下半身部分。「永仁四年(1296)丙申二月四日願主僧祐乗」
奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏は明治か大正の頃に造立された丸彫り不動三尊石仏の後ろ、滝の中段にあります。
浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏は明治か大正の頃に造立された丸彫り不動三尊石仏の後ろ、滝の中段にあります。
奈良市(東エリア) 今年(2022)5月に、ボランティアの皆さんで、倒壊していた物置小屋を撤去したところ、小屋の下から「身変不動」と彫られた石が出てきました。不動三尊は瑠璃不動の身代わりとして造立されたようです。瑠璃不動磨崖仏の剥落した上半身部分の岩は、戦後になるまで磨崖仏を下にして倒れていたので、当時は下半身しか見ることができなかったことと思います。(史迹と美術[21][(7)](215)-村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)-p262-265)
今年(2022)5月に、ボランティアの皆さんで、倒壊していた物置小屋を撤去したところ、小屋の下から「身変不動」と彫られた石が出てきました。不動三尊は瑠璃不動の身代わりとして造立されたようです。瑠璃不動磨崖仏の剥落した上半身部分の岩は、戦後になるまで磨崖仏を下にして倒れていたので、当時は下半身しか見ることができなかったことと思います。(史迹と美術[21][(7)](215)-村山修一「南山城當尾の石造遺物(中)」(1951)-p262-265)
奈良市(東エリア) 浄瑠璃寺奥之院の滝の上にある善如竜王祠跡。
浄瑠璃寺奥之院の滝の上にある善如竜王祠跡。
奈良市(東エリア) 善如竜王の祠の川下側に四角い池が作られていたようです。
善如竜王の祠の川下側に四角い池が作られていたようです。
奈良市(東エリア) 実範上人御廟塔への道。
実範上人御廟塔への道。
奈良市(東エリア) 実範上人御廟塔。御廟塔脇に生えているもみじは毎年見事に黄色く色づいて、その様はまるで御廟塔を荘厳する瓔珞のようです。でもまだ色づいてませんでした。例年11月末ごろに色づきます☺️。
実範上人御廟塔。御廟塔脇に生えているもみじは毎年見事に黄色く色づいて、その様はまるで御廟塔を荘厳する瓔珞のようです。でもまだ色づいてませんでした。例年11月末ごろに色づきます☺️。
奈良市(東エリア) 京都府と奈良県の府県境(山城国と大和国の国境)となっている道。
京都府と奈良県の府県境(山城国と大和国の国境)となっている道。
奈良市(東エリア) 中川寺跡から流れ下る小川。谷間の放棄田の土留めに石垣が築かれていますが、その石垣には中川寺にあったものと思われる石塔の一部などが転用されたようです。大雨などで石垣が崩れ、小川の中に石塔の一部が散らばっています。
中川寺跡から流れ下る小川。谷間の放棄田の土留めに石垣が築かれていますが、その石垣には中川寺にあったものと思われる石塔の一部などが転用されたようです。大雨などで石垣が崩れ、小川の中に石塔の一部が散らばっています。
奈良市(東エリア) 小川の中に転がり落ちた宝篋印塔の笠石。
小川の中に転がり落ちた宝篋印塔の笠石。
奈良市(東エリア) 三社神社。本殿傍らの石灯籠に「奉寄進 十所権現」とあります。十所権現は、伊勢両宮・八幡四所と春日四所の大神を奉祀したものだそうです。
三社神社。本殿傍らの石灯籠に「奉寄進 十所権現」とあります。十所権現は、伊勢両宮・八幡四所と春日四所の大神を奉祀したものだそうです。
奈良市(東エリア) 中ノ川町辻堂地蔵石仏。明治の廃仏毀釈以前は中川寺地蔵堂にあったとされます。光背の左右に「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓」「永正十四年丁丑六月廿四日」と刻まれています。永正14(1517)年に、慶円という人が、死後の幸福を願い、遡って生前に奉納した石仏です。
中ノ川町辻堂地蔵石仏。明治の廃仏毀釈以前は中川寺地蔵堂にあったとされます。光背の左右に「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓」「永正十四年丁丑六月廿四日」と刻まれています。永正14(1517)年に、慶円という人が、死後の幸福を願い、遡って生前に奉納した石仏です。
奈良市(東エリア) ここにはかつて墓地があったそうです。そのため中ノ川墓地の石仏と紹介されることがありますが、周囲に墓地の面影はもはや残っていません。「大永四稔(1524)観實観圓識春圓観」「甲申三月廿四日慶圓識賢圓禅三郎四郎」
ここにはかつて墓地があったそうです。そのため中ノ川墓地の石仏と紹介されることがありますが、周囲に墓地の面影はもはや残っていません。「大永四稔(1524)観實観圓識春圓観」「甲申三月廿四日慶圓識賢圓禅三郎四郎」
奈良市(東エリア) 車道を避けて通れる旧道。
車道を避けて通れる旧道。
奈良市(東エリア) ひっそりとお祭りされている役行者像残欠(江戸後期?)
ひっそりとお祭りされている役行者像残欠(江戸後期?)
奈良市(東エリア) 無理やり崖を降りるとここに出てきます。
無理やり崖を降りるとここに出てきます。
奈良市(東エリア) 芳山へは白い看板の向こうの山道を登ります。
芳山へは白い看板の向こうの山道を登ります。
奈良市(東エリア) 芳山への道。鹿さんが道に生えた笹をきれいに刈ってくれています😅。
芳山への道。鹿さんが道に生えた笹をきれいに刈ってくれています😅。
奈良市(東エリア) 阿弥陀如来を意味する梵字(キリーク)が刻まれた岩。左の方に小さく「大」とも刻まれています。
阿弥陀如来を意味する梵字(キリーク)が刻まれた岩。左の方に小さく「大」とも刻まれています。
奈良市(東エリア) 今回のルート唯一の眺望ポイント。今年放棄されたらしい茶畑がだんだん荒れてきました。お茶の木が大きくなったらここの眺望も見られなくなるかもしれません。
今回のルート唯一の眺望ポイント。今年放棄されたらしい茶畑がだんだん荒れてきました。お茶の木が大きくなったらここの眺望も見られなくなるかもしれません。
奈良市(東エリア) ここから鹿害防護柵の門扉を開けて、尾根線にある防護柵沿いの道に入ります。
ここから鹿害防護柵の門扉を開けて、尾根線にある防護柵沿いの道に入ります。
奈良市(東エリア) 芳山二尊石仏。奈良時代造立の説があります。新薬師寺にはこちらとそっくりな石仏がいらっしゃいます。
芳山二尊石仏。奈良時代造立の説があります。新薬師寺にはこちらとそっくりな石仏がいらっしゃいます。
奈良市(東エリア) 芳山南峰の南の尾根の突端に、山の持ち主を示す標石がたくさんある場所があります。写真の窪んだところが本来の道ですが、倒木やネットなどで通れなくなっているため、今年の春までは写真の左側から蛇行しつつ下る道がよく使われていました。しかし、今年の春に間伐が行われ、伐採された木がこの代替道を塞いでしまったため、現在は写真右側から尾根筋をまっすぐ下る(逆側からは急登)道ができていました。
芳山南峰の南の尾根の突端に、山の持ち主を示す標石がたくさんある場所があります。写真の窪んだところが本来の道ですが、倒木やネットなどで通れなくなっているため、今年の春までは写真の左側から蛇行しつつ下る道がよく使われていました。しかし、今年の春に間伐が行われ、伐採された木がこの代替道を塞いでしまったため、現在は写真右側から尾根筋をまっすぐ下る(逆側からは急登)道ができていました。
奈良市(東エリア) 「松園家持山」松園家は明治の廃寺で還俗した興福寺大乗院の最後の門跡でいわゆる奈良華族です。
「松園家持山」松園家は明治の廃寺で還俗した興福寺大乗院の最後の門跡でいわゆる奈良華族です。
奈良市(東エリア) 「大乗院殿御領山」
「大乗院殿御領山」
奈良市(東エリア) 「大乗院殿御領山」
「大乗院殿御領山」
奈良市(東エリア) 岩に小さな仏様が刻まれていました。大日如来さんでしょうか🤔。石切の合間の手遊びに彫られた仏様は山の中にたくさんありそうですね。
岩に小さな仏様が刻まれていました。大日如来さんでしょうか🤔。石切の合間の手遊びに彫られた仏様は山の中にたくさんありそうですね。
奈良市(東エリア) ここから尾根線をまっすぐ降りて行きます。
ここから尾根線をまっすぐ降りて行きます。
奈良市(東エリア) 石切峠、峠の茶屋の東側にある旧道への入り口。旧道は、奈良奥山ドライブウェイの分岐から、峠の茶屋の裏側を通り、峠の茶屋の数十メートル東側で現在の車道に合流します。明治の初めごろ土砂崩れか何かで道が付け替えられたそうです。峠の茶屋はその後建てられたとか。
石切峠、峠の茶屋の東側にある旧道への入り口。旧道は、奈良奥山ドライブウェイの分岐から、峠の茶屋の裏側を通り、峠の茶屋の数十メートル東側で現在の車道に合流します。明治の初めごろ土砂崩れか何かで道が付け替えられたそうです。峠の茶屋はその後建てられたとか。
奈良市(東エリア) 旧道を見下ろす室町時代ごろの十一面観音石仏と地蔵石仏(右上)。
旧道を見下ろす室町時代ごろの十一面観音石仏と地蔵石仏(右上)。
奈良市(東エリア) 室町時代ごろの十一面観音石仏と地蔵石仏。
室町時代ごろの十一面観音石仏と地蔵石仏。
奈良市(東エリア) 十一面観音石仏西側の道の北側に平坦地があり、その奥にも江戸時代の地蔵石仏があります。かつてはお堂か何かがあったのかもしれないと思います。
十一面観音石仏西側の道の北側に平坦地があり、その奥にも江戸時代の地蔵石仏があります。かつてはお堂か何かがあったのかもしれないと思います。
奈良市(東エリア) 最近通る人が多い、旧道への入り口。ここから西の旧道は倒木が多く歩きにくいので、ここから旧道に入って東(右)に進むと芳山まで歩きやすいです(今回と逆コースの場合)。
最近通る人が多い、旧道への入り口。ここから西の旧道は倒木が多く歩きにくいので、ここから旧道に入って東(右)に進むと芳山まで歩きやすいです(今回と逆コースの場合)。
奈良市(東エリア) 奈良奥山ドライブウェイから分岐する旧道の痕跡。
奈良奥山ドライブウェイから分岐する旧道の痕跡。
奈良市(東エリア) 荒木又右衛門試し斬りの首切り地蔵。昭和43年正月に、観光客によって首が落とされたことがあるとか。
荒木又右衛門試し斬りの首切り地蔵。昭和43年正月に、観光客によって首が落とされたことがあるとか。
奈良市(東エリア) 朝日観音(文永二(1265)年)。観音と呼ばれていますが、弥勒如来像です。左右とも地蔵菩薩で、右側は追補と考えられています。「願以此力悲母尊霊離苦得楽発菩提心/及以□□上生内院普□四生平等利益/文永貮年乙丑十二月大施主性勘 敬白」。朝日が当たる東を向いています。

左の地蔵脇に「南無当来導師梅怛隷耶仏/南無六道経法地蔵菩薩/干時文永弐年乙丑十二月日大施主性勘敬白」。「当来導師梅怛隷耶仏」というのは「未来の教主、マイトレーヤ仏」ですね。弥勒仏とせずに「梅怛隷耶仏」とするのがおもしろいです。
朝日観音(文永二(1265)年)。観音と呼ばれていますが、弥勒如来像です。左右とも地蔵菩薩で、右側は追補と考えられています。「願以此力悲母尊霊離苦得楽発菩提心/及以□□上生内院普□四生平等利益/文永貮年乙丑十二月大施主性勘 敬白」。朝日が当たる東を向いています。 左の地蔵脇に「南無当来導師梅怛隷耶仏/南無六道経法地蔵菩薩/干時文永弐年乙丑十二月日大施主性勘敬白」。「当来導師梅怛隷耶仏」というのは「未来の教主、マイトレーヤ仏」ですね。弥勒仏とせずに「梅怛隷耶仏」とするのがおもしろいです。
奈良市(東エリア) 滝坂の道にある夕日観音が刻まれた岩塊は、仏像岩とも呼ばれるそうです。夕日観音を中心に、右手上方に滝坂五尺地蔵、その岩の下に三体地蔵、夕日観音左下に四体石仏、合わせて九体。さらに元は四体石仏付近にあったものが転げ落ちたと思しき寝仏を合わせると十体。まさに石仏ひしめく岩の塊です。
滝坂の道にある夕日観音が刻まれた岩塊は、仏像岩とも呼ばれるそうです。夕日観音を中心に、右手上方に滝坂五尺地蔵、その岩の下に三体地蔵、夕日観音左下に四体石仏、合わせて九体。さらに元は四体石仏付近にあったものが転げ落ちたと思しき寝仏を合わせると十体。まさに石仏ひしめく岩の塊です。
奈良市(東エリア) 上に滝坂五尺地蔵。その下に滝坂三体地蔵。滝坂五尺地蔵は長らく所在不明であったところ昭和39(1964)年に太田古朴氏らが像を覆い尽くしていた蔦草や倒木を払い再発見したとのこと。
上に滝坂五尺地蔵。その下に滝坂三体地蔵。滝坂五尺地蔵は長らく所在不明であったところ昭和39(1964)年に太田古朴氏らが像を覆い尽くしていた蔦草や倒木を払い再発見したとのこと。
奈良市(東エリア) 四体石仏。
四体石仏。
奈良市(東エリア) 寝仏は、四体石仏付近にあったものが転がり落ちたものだという説があります。実際四体石仏のすぐしたから寝仏を見下ろすことができました。
寝仏は、四体石仏付近にあったものが転がり落ちたものだという説があります。実際四体石仏のすぐしたから寝仏を見下ろすことができました。
奈良市(東エリア) 夕日観音(鎌倉)。こちらも弥勒如来と考えられています。春日御流記に、南都焼討後の大仏殿再興にあたり、石材の多くが地獄谷の山中から切り出されたので、興福寺の璋円僧都が、霊地として路傍大小の石に諸仏を刻んで衆人に結縁せしめたとあるそうです(西村貞「奈良の石仏」昭和18 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068854/108 )。朝日・夕日観音はその諸仏だろうとのこと。
夕日観音(鎌倉)。こちらも弥勒如来と考えられています。春日御流記に、南都焼討後の大仏殿再興にあたり、石材の多くが地獄谷の山中から切り出されたので、興福寺の璋円僧都が、霊地として路傍大小の石に諸仏を刻んで衆人に結縁せしめたとあるそうです(西村貞「奈良の石仏」昭和18 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068854/108 )。朝日・夕日観音はその諸仏だろうとのこと。
奈良市(東エリア) 四体石仏が刻まれた、夕日観音下にある岩の左端。どこにあるかわかるでしょうか?
四体石仏が刻まれた、夕日観音下にある岩の左端。どこにあるかわかるでしょうか?
奈良市(東エリア) 四体石仏はここにあります。
四体石仏はここにあります。
奈良市(東エリア) 寝仏。反時計回りに横倒しになった大日如来磨崖仏です。
寝仏。反時計回りに横倒しになった大日如来磨崖仏です。

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