横浜・鎌倉さんぽ④〜建長寺・円覚寺・明月院 2022-08-29

2022.08.29(月) 日帰り

活動データ

タイム

12:43

距離

21.6km

のぼり

486m

くだり

501m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
12 時間 43
休憩時間
3 時間 37
距離
21.6 km
のぼり / くだり
486 / 501 m
21
3 42
9
12
41
57
25
1
1
1 32

活動詳細

すべて見る

 神奈川には原始から相模原台地を中心に人々が住み始め、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた鎌倉時代に日本の中心地となった。この時に鎌倉では鶴岡八幡宮を中心に若宮大路などの道が整えられ、多くの寺社が建てられた。  一方、横浜は幕末期に開港場となり、関内地区に外国人居留地が設けられ、公園や並木道が整備された。その後、横浜は関東大震災、横浜大空襲と2度にわたる大過に見舞われたが、その都度復興を果たし、現在の大都市としての地位を固めた。  本稿では、筆者の愛車・プロンプトンとともに横浜・鎌倉を巡り、鎌倉武士が残した中世の遺構や横浜開港によってもたらされた近代化遺産を辿る旅へと出掛けた。 横浜・鎌倉さんぽ③→https://yamap.com/activities/19296309

横浜市 南エリア 源氏山公園
 鎌倉3日間の宿泊地。快適度⭐️⭐️⭐️⭐️
坂道の上にあり、やや体力を要するものの、鎌倉駅から自転車で10分程度の好立地にある。近くにトイレや自動販売機なども完備。
源氏山公園  鎌倉3日間の宿泊地。快適度⭐️⭐️⭐️⭐️ 坂道の上にあり、やや体力を要するものの、鎌倉駅から自転車で10分程度の好立地にある。近くにトイレや自動販売機なども完備。
横浜市 南エリア 日野俊基墓
 後醍醐天皇の側近として、倒幕計画を先導した。正中の変で倒幕計画が漏れ、同族の日野資朝とともに捕らえられ、鎌倉に連行された。資朝は佐渡に流刑となったが、俊基は証拠不十分で許された。元弘の乱で再び捕らえられ、鎌倉の葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基墓  後醍醐天皇の側近として、倒幕計画を先導した。正中の変で倒幕計画が漏れ、同族の日野資朝とともに捕らえられ、鎌倉に連行された。資朝は佐渡に流刑となったが、俊基は証拠不十分で許された。元弘の乱で再び捕らえられ、鎌倉の葛原ヶ岡で処刑された。
横浜市 南エリア 源頼朝像
 平治の乱に敗れて伊豆に流されたが、以仁王の命を受けて平氏追討の兵を挙げた。石橋山で大敗するが安房に逃れて勢力を拡大し、鎌倉を本拠として東国を支配した。さらに源義仲、平氏、奥州藤原氏を滅亡させ、建久3(1192)年、征夷大将軍となり、我が国初の武家政権を樹立した。
源頼朝像  平治の乱に敗れて伊豆に流されたが、以仁王の命を受けて平氏追討の兵を挙げた。石橋山で大敗するが安房に逃れて勢力を拡大し、鎌倉を本拠として東国を支配した。さらに源義仲、平氏、奥州藤原氏を滅亡させ、建久3(1192)年、征夷大将軍となり、我が国初の武家政権を樹立した。
横浜市 南エリア 大田道灌墓
 扇谷上杉家の家老・太田道真の嫡男として生まれた。父の跡を継いだ道灌は、巧みな戦略を用いて関東の安定に尽くした。また、築城家として優れ、江戸繁栄の基となる江戸城を築城した。しかし、道灌の軍功と高潔な人柄は、かえって主君・扇谷定正の不興を買い、文明18(1486)年、定正の館で暗殺された。
大田道灌墓  扇谷上杉家の家老・太田道真の嫡男として生まれた。父の跡を継いだ道灌は、巧みな戦略を用いて関東の安定に尽くした。また、築城家として優れ、江戸繁栄の基となる江戸城を築城した。しかし、道灌の軍功と高潔な人柄は、かえって主君・扇谷定正の不興を買い、文明18(1486)年、定正の館で暗殺された。
横浜市 南エリア 源実朝墓
 建仁3(1203)年、2代将軍・源頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉されると、兄の跡を継いで征夷大将軍に任ぜられた。しかし、幕政の実権はすでに北条氏の手にあり、政治に意欲をなくした実朝は、官位の昇進のみを望み、右大臣の位を得た。その拝賀のため、鶴岡八幡宮に参ったとき、頼家の子・公暁 に暗殺された。
源実朝墓  建仁3(1203)年、2代将軍・源頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉されると、兄の跡を継いで征夷大将軍に任ぜられた。しかし、幕政の実権はすでに北条氏の手にあり、政治に意欲をなくした実朝は、官位の昇進のみを望み、右大臣の位を得た。その拝賀のため、鶴岡八幡宮に参ったとき、頼家の子・公暁 に暗殺された。
横浜市 南エリア 寿福寺
 鎌倉五山の第三位で、正治2(1200)年、北条政子が源頼朝の父・義朝の旧邸跡に栄西を招いて創建した。義朝は保元の乱で後白河天皇方につき勝利した後、父など一族を処刑した。平治の乱では、藤原信頼とともに信西、平清盛を排除しようとしたが敗退し、東国に向かう途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
寿福寺  鎌倉五山の第三位で、正治2(1200)年、北条政子が源頼朝の父・義朝の旧邸跡に栄西を招いて創建した。義朝は保元の乱で後白河天皇方につき勝利した後、父など一族を処刑した。平治の乱では、藤原信頼とともに信西、平清盛を排除しようとしたが敗退し、東国に向かう途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
横浜市 南エリア 太田道灌邸舊蹟
 道灌が江戸城を築く前に住んでいた邸宅跡。道灌は軍略と文才を兼ね備えた人物で、当時の後土御門天皇からの信頼も厚かった。道灌が一人で馬に乗り、雨の中を駈け、 萱葺きの人家の前で雨具を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出した、という故事は、この場所に住んでいた頃の逸話である。
太田道灌邸舊蹟  道灌が江戸城を築く前に住んでいた邸宅跡。道灌は軍略と文才を兼ね備えた人物で、当時の後土御門天皇からの信頼も厚かった。道灌が一人で馬に乗り、雨の中を駈け、 萱葺きの人家の前で雨具を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出した、という故事は、この場所に住んでいた頃の逸話である。
横浜市 南エリア 岩船地蔵堂
 源頼朝の娘・大姫を供養する地蔵堂。6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の子・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴って義高が処刑されたことに衝撃を受け、心を病んだ。その後、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現することなく、20歳で早世した。
岩船地蔵堂  源頼朝の娘・大姫を供養する地蔵堂。6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の子・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴って義高が処刑されたことに衝撃を受け、心を病んだ。その後、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現することなく、20歳で早世した。
横浜市 南エリア 薬王寺
 もともとは真言宗に属し、梅嶺山夜光寺と称していたが、日像が当寺に逗留した際、住職と数日にわたって論争し、日蓮宗に改宗した。江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも三葉葵が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺であった。境内に3代将軍徳川家光の弟・忠長の供養塔がある。
薬王寺  もともとは真言宗に属し、梅嶺山夜光寺と称していたが、日像が当寺に逗留した際、住職と数日にわたって論争し、日蓮宗に改宗した。江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも三葉葵が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺であった。境内に3代将軍徳川家光の弟・忠長の供養塔がある。
横浜市 南エリア 亀ヶ谷坂
 鎌倉七口の一つで、扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ切通。昔、建長寺の大覚寺にいた亀が「たまにはこの世を見てみたい。」とこの坂道を上ったが、坂が急なため、上ることができずに引き返してきたことから、「亀返坂」といわれるようになり、いつからから「亀ヶ谷坂」となったと伝えられている。
亀ヶ谷坂  鎌倉七口の一つで、扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ切通。昔、建長寺の大覚寺にいた亀が「たまにはこの世を見てみたい。」とこの坂道を上ったが、坂が急なため、上ることができずに引き返してきたことから、「亀返坂」といわれるようになり、いつからから「亀ヶ谷坂」となったと伝えられている。
横浜市 南エリア 建長寺
 鎌倉五山の第一位で、建長5(1253)年、5代執権・北条時頼が蘭渓道隆を招いて建立した我が国最初の禅寺。厳格な修行が行われたことから、境内は塵一つなく掃き清められていたため、その様子を形容する言葉として、「建長寺の庭を竹箒で掃いたようだ」という俗語が生まれた。
建長寺  鎌倉五山の第一位で、建長5(1253)年、5代執権・北条時頼が蘭渓道隆を招いて建立した我が国最初の禅寺。厳格な修行が行われたことから、境内は塵一つなく掃き清められていたため、その様子を形容する言葉として、「建長寺の庭を竹箒で掃いたようだ」という俗語が生まれた。
横浜市 南エリア 梵鐘
 高さ2mの鐘は北条時頼の発願で、鎌倉大仏を造営した物部重光が鋳造したもの。創建当時の数少ない遺構で、円覚寺、常楽寺の鐘と併せて鎌倉三名鐘と称されている。夏目漱石の作句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を模して、親友・正岡子規は「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を作句した。
梵鐘  高さ2mの鐘は北条時頼の発願で、鎌倉大仏を造営した物部重光が鋳造したもの。創建当時の数少ない遺構で、円覚寺、常楽寺の鐘と併せて鎌倉三名鐘と称されている。夏目漱石の作句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を模して、親友・正岡子規は「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を作句した。
横浜市 南エリア 建長寺の柏槇(ビャクシン)
 蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際に植えたといわれている。東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられ、禅寺を象徴する樹木となっている。
建長寺の柏槇(ビャクシン)  蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際に植えたといわれている。東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられ、禅寺を象徴する樹木となっている。
横浜市 南エリア 仏殿
 もとは寛永3(1626)年に建立された芝増上寺の崇源院霊廟の霊屋。徳川秀忠夫人・江の死後、崇源院霊廟が建立されたが、秀忠の死後、台徳院霊廟が建立された。江も一緒に祀られたことから、崇源院霊廟が使われなくなったため、正保4(1647)年、建長寺に移築された。
仏殿  もとは寛永3(1626)年に建立された芝増上寺の崇源院霊廟の霊屋。徳川秀忠夫人・江の死後、崇源院霊廟が建立されたが、秀忠の死後、台徳院霊廟が建立された。江も一緒に祀られたことから、崇源院霊廟が使われなくなったため、正保4(1647)年、建長寺に移築された。
横浜市 南エリア 本尊地蔵菩薩坐像
 建長寺が建てられる前の寺域は、地獄谷と呼ばれる罪人の処刑場になっていた。この谷に地蔵菩薩を本尊とする心平寺という仏堂が建っていたが、建長寺を開創するに際し、北条時頼によって堂は巨福呂坂に移され、現在は三渓園に移設されている。その本尊と伝わる地蔵菩薩坐像が、千体地蔵に囲まれて仏殿内に安置されている。
本尊地蔵菩薩坐像  建長寺が建てられる前の寺域は、地獄谷と呼ばれる罪人の処刑場になっていた。この谷に地蔵菩薩を本尊とする心平寺という仏堂が建っていたが、建長寺を開創するに際し、北条時頼によって堂は巨福呂坂に移され、現在は三渓園に移設されている。その本尊と伝わる地蔵菩薩坐像が、千体地蔵に囲まれて仏殿内に安置されている。
横浜市 南エリア 法堂
 建治元(1275)年、北条時頼十三回忌の時に創建された。方三間、禅宗様を基調とする裳階(風雨から外壁などを守るために付けられた二重となる下屋根)付の法堂で、関東一大きい木造建築である。建長寺が修行道場だった時代には、全山の僧侶が住職の説法を聞くためにこの法堂に集まった。
法堂  建治元(1275)年、北条時頼十三回忌の時に創建された。方三間、禅宗様を基調とする裳階(風雨から外壁などを守るために付けられた二重となる下屋根)付の法堂で、関東一大きい木造建築である。建長寺が修行道場だった時代には、全山の僧侶が住職の説法を聞くためにこの法堂に集まった。
横浜市 南エリア 雲龍図
 天井の「雲龍図」は、建長寺の創建750年を記念して、平成12(2000)年から3年を費やして、小泉淳作が描いた。龍は仏法を守護する天龍八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)の一つで、大衆に法(仏教の教え)の雨を降らせるといわれており、禅寺の天井画として雲龍図が数多く描かれている。
雲龍図  天井の「雲龍図」は、建長寺の創建750年を記念して、平成12(2000)年から3年を費やして、小泉淳作が描いた。龍は仏法を守護する天龍八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)の一つで、大衆に法(仏教の教え)の雨を降らせるといわれており、禅寺の天井画として雲龍図が数多く描かれている。
横浜市 南エリア 唐門
 方丈の正門で、仏殿と同じく、芝増上寺の崇源院霊屋から移築した中門。上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風を唐破風といい、この唐破風が付けられた門を総称して唐門という。唐門には正面に唐破風を見せる向唐門と、妻に唐破風をつける平唐門があり、建長寺の唐門は前者に当たる。
唐門  方丈の正門で、仏殿と同じく、芝増上寺の崇源院霊屋から移築した中門。上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風を唐破風といい、この唐破風が付けられた門を総称して唐門という。唐門には正面に唐破風を見せる向唐門と、妻に唐破風をつける平唐門があり、建長寺の唐門は前者に当たる。
横浜市 南エリア 方丈(龍王殿)
 享保17(1732)年、京都の般舟三昧院は歴代天皇の位牌を安置するために建立され、泉涌寺とともに皇室の香華院であった。その後、神仏分離令によって次第に衰退し、昭和15(1940)年、講堂は建長寺の方丈に、正門は総門にそれぞれ移築された。
方丈(龍王殿)  享保17(1732)年、京都の般舟三昧院は歴代天皇の位牌を安置するために建立され、泉涌寺とともに皇室の香華院であった。その後、神仏分離令によって次第に衰退し、昭和15(1940)年、講堂は建長寺の方丈に、正門は総門にそれぞれ移築された。
横浜市 南エリア 方丈庭園
 蘭渓道隆が作庭した池泉鑑賞式庭園で、美しい芝の中に蘸碧池(さんぺきち)を配している。通常、寺社池は寺の正面に配するのが一般的であるが、蘸碧池は寺院建築の最奥に秘仏のように置かれているため、建物の縁台に立って初めて池と相対することができ、その形は「心」の字を体現しているともいわれる。
方丈庭園  蘭渓道隆が作庭した池泉鑑賞式庭園で、美しい芝の中に蘸碧池(さんぺきち)を配している。通常、寺社池は寺の正面に配するのが一般的であるが、蘸碧池は寺院建築の最奥に秘仏のように置かれているため、建物の縁台に立って初めて池と相対することができ、その形は「心」の字を体現しているともいわれる。
横浜市 南エリア 虫塚
 平成25(2015)年、解剖学者・養老孟司が発案し、隈研吾の設計によって建立された。虫篭をイメージしてデザインしたステンレスメッシュ製のケースをスパイラル状に積み重ね、虫が天へと飛翔する姿を再現した。毎年6月4日の「虫の日」に虫供養の法要が行われている。
虫塚  平成25(2015)年、解剖学者・養老孟司が発案し、隈研吾の設計によって建立された。虫篭をイメージしてデザインしたステンレスメッシュ製のケースをスパイラル状に積み重ね、虫が天へと飛翔する姿を再現した。毎年6月4日の「虫の日」に虫供養の法要が行われている。
横浜市 南エリア 円応寺
 建長2(1250)年、蘭渓道隆の弟子・道海が開山し、閻魔大王を中心とした十王を祀っている。本尊の閻魔大王像は、笑っているように見えることから「笑い閻魔」と呼ばれ、山賊から赤ちゃんを守るために飲み込んだことから「子喰い閻魔」、その後、その赤ちゃんが無事に成長できたことから「子育て閻魔」とも呼ばれる。
円応寺  建長2(1250)年、蘭渓道隆の弟子・道海が開山し、閻魔大王を中心とした十王を祀っている。本尊の閻魔大王像は、笑っているように見えることから「笑い閻魔」と呼ばれ、山賊から赤ちゃんを守るために飲み込んだことから「子喰い閻魔」、その後、その赤ちゃんが無事に成長できたことから「子育て閻魔」とも呼ばれる。
横浜市 南エリア 光泉
 昭和26(1951)年創業のいなり寿司の老舗。甘さが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯が絶妙にマッチしており、小津安二郎や笠智衆、北大路魯山人など、北鎌倉にゆかりのある多くの著名人を魅了した。
光泉  昭和26(1951)年創業のいなり寿司の老舗。甘さが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯が絶妙にマッチしており、小津安二郎や笠智衆、北大路魯山人など、北鎌倉にゆかりのある多くの著名人を魅了した。
横浜市 南エリア いなり寿司のり巻かっぱ巻
 熊笹柄のすっきりとしたデザインの包装紙を開けると、3種類のシンプルな寿司が整然と並んでいる。細長いいなり寿司には、白ごまがかけられ、創業当時のままの味と形が守られ続けている。
いなり寿司のり巻かっぱ巻  熊笹柄のすっきりとしたデザインの包装紙を開けると、3種類のシンプルな寿司が整然と並んでいる。細長いいなり寿司には、白ごまがかけられ、創業当時のままの味と形が守られ続けている。
横浜市 南エリア 円覚寺
 鎌倉五山の第二位で、弘安5(1282)年、8代執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため、無学祖元を招いて建立した。円覚寺の伽藍は、鎌倉独特の谷戸(やと)と呼ばれる丘陵地が浸食されてできた谷に沿って建てられている。三門を入り、仏殿、方丈へと徐々に登っていく配置は、土地の高低差を生かした壮大な空間を作り出している。
円覚寺  鎌倉五山の第二位で、弘安5(1282)年、8代執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため、無学祖元を招いて建立した。円覚寺の伽藍は、鎌倉独特の谷戸(やと)と呼ばれる丘陵地が浸食されてできた谷に沿って建てられている。三門を入り、仏殿、方丈へと徐々に登っていく配置は、土地の高低差を生かした壮大な空間を作り出している。
横浜市 南エリア 仏殿(大光明宝殿)
 もとの仏殿は関東大震災で倒壊したが、昭和39(1964)年に再建された。仏殿はコンクリート造りであるが、元亀4(1573)年の仏殿指図をもとに建てられた伝統的禅宗様式の風格ある建物で、後光厳天皇窟筆「大光明宝殿」の額が掲げられ、仏殿前の両脇には、大きな柏槙(ビャクシン)が植えられている。
 
仏殿(大光明宝殿)  もとの仏殿は関東大震災で倒壊したが、昭和39(1964)年に再建された。仏殿はコンクリート造りであるが、元亀4(1573)年の仏殿指図をもとに建てられた伝統的禅宗様式の風格ある建物で、後光厳天皇窟筆「大光明宝殿」の額が掲げられ、仏殿前の両脇には、大きな柏槙(ビャクシン)が植えられている。  
横浜市 南エリア 宝冠釈迦如来坐像
 仏殿の丈六の釈迦如来坐像は、廬舎那仏ともいわれ、頭の部分だけが鎌倉時代に作られた。脇侍は、梵天立像と帝釈天立像で、南北朝期のものと考えられている。
宝冠釈迦如来坐像  仏殿の丈六の釈迦如来坐像は、廬舎那仏ともいわれ、頭の部分だけが鎌倉時代に作られた。脇侍は、梵天立像と帝釈天立像で、南北朝期のものと考えられている。
横浜市 南エリア 白龍図
 昭和35(1960)年、日本画家・前田青邨が監修し、その弟子・守屋多々志が揮毫した。中国では、五爪の龍は皇帝しか使えなかったため、伝統的な日本の龍の絵は、三爪で描かれている。三爪には、天・地・海の三界を治める意味がある。
白龍図  昭和35(1960)年、日本画家・前田青邨が監修し、その弟子・守屋多々志が揮毫した。中国では、五爪の龍は皇帝しか使えなかったため、伝統的な日本の龍の絵は、三爪で描かれている。三爪には、天・地・海の三界を治める意味がある。
横浜市 南エリア 選仏場
 元禄12(1699)年、伊勢長島城主・松平忠允から大蔵経が寄贈されたことから、経典を収蔵する蔵殿と坐禅道場を兼ねた選仏場が建立された。正面に掲げられた扁額「選佛場」の文字は、宋の禅僧・無準師範の書を東福寺の額から写したものである。
選仏場  元禄12(1699)年、伊勢長島城主・松平忠允から大蔵経が寄贈されたことから、経典を収蔵する蔵殿と坐禅道場を兼ねた選仏場が建立された。正面に掲げられた扁額「選佛場」の文字は、宋の禅僧・無準師範の書を東福寺の額から写したものである。
横浜市 南エリア 居士林
 明治時代、居士禅(在家者の座禅)が盛んになり、山岡鉄舟、夏目漱石など多くの居士が参禅した。昭和3(1928)年、東京牛込にあった柳生流の剣道場を柳生徹心が寄贈し、当寺に移築された。現在、学生坐禅会、初心者が参加できる土日坐禅会が定期的に開かれている。
居士林  明治時代、居士禅(在家者の座禅)が盛んになり、山岡鉄舟、夏目漱石など多くの居士が参禅した。昭和3(1928)年、東京牛込にあった柳生流の剣道場を柳生徹心が寄贈し、当寺に移築された。現在、学生坐禅会、初心者が参加できる土日坐禅会が定期的に開かれている。
横浜市 南エリア 方丈
 延慶元(1308)年にはすでに建立されていたが、その後何度も罹災を繰り返し、関東大震災による倒壊後、昭和4(1929)年に再建された。方丈は本来、住職が居住する場所であるが、現在は本山行事の中心的な場所になっており、日曜説教、坐禅会、宝物風入、チャリティーコンサートなどに使用されている。
方丈  延慶元(1308)年にはすでに建立されていたが、その後何度も罹災を繰り返し、関東大震災による倒壊後、昭和4(1929)年に再建された。方丈は本来、住職が居住する場所であるが、現在は本山行事の中心的な場所になっており、日曜説教、坐禅会、宝物風入、チャリティーコンサートなどに使用されている。
横浜市 南エリア 舎利殿
 円覚寺境内の奥に鎮座する舎利殿は、鎌倉時代に宋から日本に伝わった禅宗様建築によって建てられており、その典型例として県下唯一の国宝建造物に指定された。元は円覚寺の創建とともに建てられたが、現存するものは鎌倉尼五山の第一位であった太平寺の仏殿を移築したものと伝わっている。
舎利殿  円覚寺境内の奥に鎮座する舎利殿は、鎌倉時代に宋から日本に伝わった禅宗様建築によって建てられており、その典型例として県下唯一の国宝建造物に指定された。元は円覚寺の創建とともに建てられたが、現存するものは鎌倉尼五山の第一位であった太平寺の仏殿を移築したものと伝わっている。
横浜市 南エリア 開基廟
 開基・北条時宗の墓所。18歳で8代執権に就任した時宗は、従属を要求する元に対して終始強硬な態度をとり、その侵攻を退けた(文永・弘安の役)。時宗には、兄・時輔を討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとするなど、専制的な面もあったが、一方禅宗に深く帰依し、元寇で亡くなった敵味方の霊を慰めるため、当寺を創建した。
開基廟  開基・北条時宗の墓所。18歳で8代執権に就任した時宗は、従属を要求する元に対して終始強硬な態度をとり、その侵攻を退けた(文永・弘安の役)。時宗には、兄・時輔を討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとするなど、専制的な面もあったが、一方禅宗に深く帰依し、元寇で亡くなった敵味方の霊を慰めるため、当寺を創建した。
横浜市 南エリア 黄梅院
 北条時宗の夫人・覚山尼が時宗の菩提を弔うために建立した華厳塔の場所に方外宏遠が文和3(1354)年に創建した夢想疎石の塔所。その後、当寺は夢窓派の活動拠点となり、応安元(1368)年、室町幕府2代将軍・足利義詮の遺骨を分骨したことで、足利家の菩提寺としての性格を帯びるようになり、さらに発展した。
黄梅院  北条時宗の夫人・覚山尼が時宗の菩提を弔うために建立した華厳塔の場所に方外宏遠が文和3(1354)年に創建した夢想疎石の塔所。その後、当寺は夢窓派の活動拠点となり、応安元(1368)年、室町幕府2代将軍・足利義詮の遺骨を分骨したことで、足利家の菩提寺としての性格を帯びるようになり、さらに発展した。
横浜市 南エリア 東慶寺
 弘安8(1285)年、北条時宗夫人・覚山尼が時宗の菩提を弔うためにその子・貞時を開基として創建した。護良親王の菩提を弔って親王の妹・用堂尼が入って以来、松岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山の第二位となった。その後、豊臣秀頼の娘・天秀尼が東慶寺に入り、縁切り寺としての特権を幕府に認められた。しかし、明治になって縁切りの寺法は廃止され、明治36(1903)年には男僧が入って尼寺としての歴史も幕を閉じた。
東慶寺  弘安8(1285)年、北条時宗夫人・覚山尼が時宗の菩提を弔うためにその子・貞時を開基として創建した。護良親王の菩提を弔って親王の妹・用堂尼が入って以来、松岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山の第二位となった。その後、豊臣秀頼の娘・天秀尼が東慶寺に入り、縁切り寺としての特権を幕府に認められた。しかし、明治になって縁切りの寺法は廃止され、明治36(1903)年には男僧が入って尼寺としての歴史も幕を閉じた。
横浜市 南エリア 明月院
 8代執権・北条時宗は父・時頼の菩提を弔うために、蘭渓道隆を開基として禅興寺を創建した。その後、康暦2(1380)年、2代鎌倉公方・足利氏満から禅興寺中興の命を受け、関東官領・上杉憲方が塔頭・明月院を建立した。室町幕府3代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となったが、明治になって廃寺となり、明月院だけが残った。
明月院  8代執権・北条時宗は父・時頼の菩提を弔うために、蘭渓道隆を開基として禅興寺を創建した。その後、康暦2(1380)年、2代鎌倉公方・足利氏満から禅興寺中興の命を受け、関東官領・上杉憲方が塔頭・明月院を建立した。室町幕府3代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となったが、明治になって廃寺となり、明月院だけが残った。
横浜市 南エリア 北条時頼墓
 寛元4(1246)年の執権就任後、名越光時がすでに引退していた4代将軍・藤原頼経を擁して執権職を狙った。時頼は直ちに光時を伊豆へ、頼経を京に追放した。また、三浦泰村一族を排除するため、三浦氏に謀反の疑いを掛けて滅ぼした(宝治合戦)。康元元(1256)年、執権職を北条長時に譲ったものの、なおも権力を保持し、幕府政治を操ったが、37歳の若さで亡くなった。
 
北条時頼墓  寛元4(1246)年の執権就任後、名越光時がすでに引退していた4代将軍・藤原頼経を擁して執権職を狙った。時頼は直ちに光時を伊豆へ、頼経を京に追放した。また、三浦泰村一族を排除するため、三浦氏に謀反の疑いを掛けて滅ぼした(宝治合戦)。康元元(1256)年、執権職を北条長時に譲ったものの、なおも権力を保持し、幕府政治を操ったが、37歳の若さで亡くなった。  
横浜市 南エリア 本堂
 昭和48(1973)年建立で、本尊聖観音菩薩を祀っている。一面二臂(顔が一つ、腕が二つ)の聖観音菩薩は人々に合わせて何通りにも姿を変え、個別に救済する観音菩薩の基本形といえるもので、そのご利益は多岐にわたっている。本堂の向かいにあるのは石と砂で山水を表現した枯山水庭園で、仏教世界において万物の中心にあると考えられている須弥山が表現されている。
本堂  昭和48(1973)年建立で、本尊聖観音菩薩を祀っている。一面二臂(顔が一つ、腕が二つ)の聖観音菩薩は人々に合わせて何通りにも姿を変え、個別に救済する観音菩薩の基本形といえるもので、そのご利益は多岐にわたっている。本堂の向かいにあるのは石と砂で山水を表現した枯山水庭園で、仏教世界において万物の中心にあると考えられている須弥山が表現されている。
横浜市 南エリア 悟りの窓
 明月院の本堂にある丸窓は、悟りの窓といわれる。禅宗において円は悟りや仏性、宇宙などを表し、円窓は、自分の心を映す窓といわれている。窓の奥には池を挟んで自然豊かな庭園が広がっており、季節ごとに違った印象を見せて参拝者を楽しませてくれる。
悟りの窓  明月院の本堂にある丸窓は、悟りの窓といわれる。禅宗において円は悟りや仏性、宇宙などを表し、円窓は、自分の心を映す窓といわれている。窓の奥には池を挟んで自然豊かな庭園が広がっており、季節ごとに違った印象を見せて参拝者を楽しませてくれる。
横浜市 南エリア あじさい寺
 明月院は別名、あじさい寺といわれる。境内には、約2500株の姫あじさいが植えられており、見頃の時期になると「明月院ブルー」と呼ばれる青色の花が咲き乱れ、辺り一面を青色に染める幻想的な光景が広がる。明月院のあじさいは戦後の物資不足で、参道の両脇に使う杭の代わりに手軽に増やせるあじさいを植えたのが始まりで、その後、挿し木で株を増やし、現在のようなあじさい寺になった。
あじさい寺  明月院は別名、あじさい寺といわれる。境内には、約2500株の姫あじさいが植えられており、見頃の時期になると「明月院ブルー」と呼ばれる青色の花が咲き乱れ、辺り一面を青色に染める幻想的な光景が広がる。明月院のあじさいは戦後の物資不足で、参道の両脇に使う杭の代わりに手軽に増やせるあじさいを植えたのが始まりで、その後、挿し木で株を増やし、現在のようなあじさい寺になった。
横浜市 南エリア 開山堂(宗猷堂)
 禅興寺の頃に宗猷堂(そうゆうどう)と呼ばれていた建物を明月院の開山堂とした。堂内には開山の密室守厳の木像と最明寺・禅興寺・明月院の歴代住持の位牌が祀られている。
開山堂(宗猷堂)  禅興寺の頃に宗猷堂(そうゆうどう)と呼ばれていた建物を明月院の開山堂とした。堂内には開山の密室守厳の木像と最明寺・禅興寺・明月院の歴代住持の位牌が祀られている。
横浜市 南エリア 明月院やぐら
 上杉憲方墓が安置されている。憲方は山内上杉家の祖であり、2代鎌倉公方・足利氏満の補佐役である執事となった人物である。関東管領職に就き、武将としても器量に優れ、康暦元(1379)年の土岐一族の反乱、翌年の小山義政の乱の鎮圧などで功を挙げ、上野、武蔵、伊豆、安房、下野の守護職を与えられた。
明月院やぐら  上杉憲方墓が安置されている。憲方は山内上杉家の祖であり、2代鎌倉公方・足利氏満の補佐役である執事となった人物である。関東管領職に就き、武将としても器量に優れ、康暦元(1379)年の土岐一族の反乱、翌年の小山義政の乱の鎮圧などで功を挙げ、上野、武蔵、伊豆、安房、下野の守護職を与えられた。
横浜市 南エリア 浄智寺
 鎌倉五山の第四位で、弘安 4(1281)年、北条時頼の子・宗政の菩提を弔うため、宗政の妻とその子・師時によって創建された。宗政は再度の蒙古襲来に備えて筑後守護に任じられ、弘安の役で元軍を退けた喜びに湧く鎌倉で、29歳という若さで没した。8代執権・時宗は、元寇という国難の中で弟の宗政を重用することで得宗権力を固めようとしていただけに、その死を嘆いたといわれる。
浄智寺  鎌倉五山の第四位で、弘安 4(1281)年、北条時頼の子・宗政の菩提を弔うため、宗政の妻とその子・師時によって創建された。宗政は再度の蒙古襲来に備えて筑後守護に任じられ、弘安の役で元軍を退けた喜びに湧く鎌倉で、29歳という若さで没した。8代執権・時宗は、元寇という国難の中で弟の宗政を重用することで得宗権力を固めようとしていただけに、その死を嘆いたといわれる。
横浜市 南エリア 布袋尊
 境内裏の洞窟に布袋尊の等身大石像が祀られている。布袋様は七福神で唯一実在の人物であり、中国の契此(かいし)という高僧だといわれている。布袋尊は大きな袋を背にして杖を持つ姿が有名であるが、浄智寺の布袋像は袋を背負わず、右手で前方を指差しており、ユニークな格好をしている。
布袋尊  境内裏の洞窟に布袋尊の等身大石像が祀られている。布袋様は七福神で唯一実在の人物であり、中国の契此(かいし)という高僧だといわれている。布袋尊は大きな袋を背にして杖を持つ姿が有名であるが、浄智寺の布袋像は袋を背負わず、右手で前方を指差しており、ユニークな格好をしている。
横浜市 南エリア 仏殿(曇華殿)
 「曇華」は三千年に一度咲くという「優曇華」のことで、めったにない珍しい花であることから、貴重な仏堂という意味が込められている。仏殿には、室町時代に作られた三世仏坐像が安置されており、過去を表す阿弥陀如来、現在を表す釈迦如来、未来を表す弥勒如来が祀られている。
仏殿(曇華殿)  「曇華」は三千年に一度咲くという「優曇華」のことで、めったにない珍しい花であることから、貴重な仏堂という意味が込められている。仏殿には、室町時代に作られた三世仏坐像が安置されており、過去を表す阿弥陀如来、現在を表す釈迦如来、未来を表す弥勒如来が祀られている。
横浜市 南エリア 常楽寺
 嘉禎3(1237)年、3代執権・北条泰時が妻の母の供養のために建てた粟船御堂が始まりとされる。常楽寺の寺名は、泰時が没した後、その法名をとって付けられた。蘭渓道隆が、建長寺が建長寺を開く前に、ここに住んでいたことでも知られ、仏殿には、本尊の阿弥陀如来像とともに蘭渓道隆像が安置されている。
常楽寺  嘉禎3(1237)年、3代執権・北条泰時が妻の母の供養のために建てた粟船御堂が始まりとされる。常楽寺の寺名は、泰時が没した後、その法名をとって付けられた。蘭渓道隆が、建長寺が建長寺を開く前に、ここに住んでいたことでも知られ、仏殿には、本尊の阿弥陀如来像とともに蘭渓道隆像が安置されている。
横浜市 南エリア 北条泰時墓
 元仁元(1224)年、父・北条義時が没すると、継母・伊賀氏は実子・政村を執権に立てようとしたが、泰時はこの企図を阻止した(伊賀氏の変)。翌年、叔母・政子と大江広元が相次いで没すると、泰時は叔父・時房を連署に迎え、さらに評定衆を設置して合議的な政治運営を目指し、貞永元(1232)年、御成敗式目を制定した。こうして泰時の代に名実ともに執権政治が確立した。
北条泰時墓  元仁元(1224)年、父・北条義時が没すると、継母・伊賀氏は実子・政村を執権に立てようとしたが、泰時はこの企図を阻止した(伊賀氏の変)。翌年、叔母・政子と大江広元が相次いで没すると、泰時は叔父・時房を連署に迎え、さらに評定衆を設置して合議的な政治運営を目指し、貞永元(1232)年、御成敗式目を制定した。こうして泰時の代に名実ともに執権政治が確立した。
横浜市 南エリア 木曽塚
 木曽義仲の子・義高の墓と伝わる。義仲は以仁王の遺児を奉じて勢力を広げたが、頼朝に反旗を翻した源行家を庇護したことにより、頼朝と対立した。これを解消するため、寿永2(1183)年、義仲は義高を人質として差し出すことで和睦した。義高の人質は頼朝の娘・大姫の婿という名目で実施された。しかし翌年、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経が義仲を討つと、義高も誅殺した。
木曽塚  木曽義仲の子・義高の墓と伝わる。義仲は以仁王の遺児を奉じて勢力を広げたが、頼朝に反旗を翻した源行家を庇護したことにより、頼朝と対立した。これを解消するため、寿永2(1183)年、義仲は義高を人質として差し出すことで和睦した。義高の人質は頼朝の娘・大姫の婿という名目で実施された。しかし翌年、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経が義仲を討つと、義高も誅殺した。
横浜市 南エリア 姫宮塚
 北条泰時の娘の墓とされているが、源頼朝の長女・大姫の墓とも伝わる。元暦元(1184)年、大姫は追手の迫る木曽義高に女装をさせ、屋敷からの逃走させた。しかし、すぐに露見し、怒った頼朝は義高を討ち取るよう命じた。それから5日後、義高は藤内光澄によって誅殺された。それを知った大姫は、嘆き悲しみ、病床に伏した。母・北条政子は大姫が病気になったのは義高を殺した光澄に配慮が足りなかったとして斬罪に処した。
姫宮塚  北条泰時の娘の墓とされているが、源頼朝の長女・大姫の墓とも伝わる。元暦元(1184)年、大姫は追手の迫る木曽義高に女装をさせ、屋敷からの逃走させた。しかし、すぐに露見し、怒った頼朝は義高を討ち取るよう命じた。それから5日後、義高は藤内光澄によって誅殺された。それを知った大姫は、嘆き悲しみ、病床に伏した。母・北条政子は大姫が病気になったのは義高を殺した光澄に配慮が足りなかったとして斬罪に処した。
横浜市 南エリア 化粧坂
 鎌倉七口の一つ。元弘3(1333)年、新田義貞は後醍醐天皇から討幕の命を受けて挙兵し、討幕軍を3手に分けて鎌倉に乱入した。左翼は北から巨福呂坂攻め、中央は西から化粧坂攻め、右翼は南から極楽寺坂攻めを敢行し、義貞本隊は中央の化粧坂攻めを指揮した。この総攻撃によって、挙兵からわずか2週間で鎌倉は陥落し、鎌倉幕府は滅亡し た。
化粧坂  鎌倉七口の一つ。元弘3(1333)年、新田義貞は後醍醐天皇から討幕の命を受けて挙兵し、討幕軍を3手に分けて鎌倉に乱入した。左翼は北から巨福呂坂攻め、中央は西から化粧坂攻め、右翼は南から極楽寺坂攻めを敢行し、義貞本隊は中央の化粧坂攻めを指揮した。この総攻撃によって、挙兵からわずか2週間で鎌倉は陥落し、鎌倉幕府は滅亡し た。

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。