棚倉構造線巡礼・福島編⑨ 吾妻山神社・奥の院

2022.07.06(水) 日帰り

谷地平に行った翌週の7月6日に吾妻山神社・奥の院まで行って来ました。 前日に台風4号が熱帯低気圧に変わり、その影響が残る不安材料もありましたが、今回のコースは、吾妻山神社まで展望がない往復10時間コースなので、テンション的には、なるべく谷地平の翌週に行くことが望ましいと思い結構した次第です。 今回訪れた奥の院までのルートが開拓されたのは9世紀半ばで、猪苗代・成就院の開祖である藤原義円によって南斜面を一直線に奥の院を目指す奥の院駈が設定されました。 安達太良山からの吾妻山への「岳駈」と磐梯山から吾妻山への「イワノカケハシ駈」に対する中央突破コースが「奥の院駈」と呼ばれていました。 役行者を起源とする世界遺産でもある大峯奥駈道には遠く及びませんが、吾妻山神社 奥の院駈も千年以上も前に作られた歴史ある修験の道であることが、このルートの唯一の存在価値かも知れません。 吾妻山神社までのルートは、YAMAPのアプリでは赤のガイドラインが入っていないので、コースの下調べ等はヤマレコの活動記録を参考にしました。ヤマレコでは毎年9月にこのコースの刈り払いが行われているようで、おそらく歴史的な背景を知った上での活動だと思います。出来れば紅葉の時期に奥の院に訪れたかったのですが、何分、歩きが遅いので、日が長い夏場の時期を選びましたが、思った以上にヤブが深かくてめげそうになりました。 奥の院までは、時期的にも体力的にも、いつでも行けるコースではないので、今回、奥の院に参拝して、何か一区切りがついたような気がする山行でした。

夜明け前の志田浜から磐梯山のシルエット。

夜明け前の志田浜から磐梯山のシルエット。

夜明け前の志田浜から磐梯山のシルエット。

本日は時間厳守。
中津川レストハウスを5時に出発。

今回は長丁場に備えて、所持した水は2450ml。日の入りの時刻は19時05分。
念のためヘッドライトも持参しました。

本日は時間厳守。 中津川レストハウスを5時に出発。 今回は長丁場に備えて、所持した水は2450ml。日の入りの時刻は19時05分。 念のためヘッドライトも持参しました。

本日は時間厳守。 中津川レストハウスを5時に出発。 今回は長丁場に備えて、所持した水は2450ml。日の入りの時刻は19時05分。 念のためヘッドライトも持参しました。

レストハウスの左から遊歩道を進み、中津川渓谷へ降ります。

レストハウスの左から遊歩道を進み、中津川渓谷へ降ります。

レストハウスの左から遊歩道を進み、中津川渓谷へ降ります。

中津川に出たら、河原を右に進みます。

中津川に出たら、河原を右に進みます。

中津川に出たら、河原を右に進みます。

林道の橋のところまで来ました。
登山口は上の林道を右に進まなければ行けないのですが、この場所から林道に取り次ぐ道がありません。
辺りを見渡すと橋の下に足跡が多数残っていたので、多分、橋の先に林道への取り次ぎ口があるとは思いましたが、よく分からないので、適当に薮漕ぎして林道に取り次ぎました。

林道の橋のところまで来ました。 登山口は上の林道を右に進まなければ行けないのですが、この場所から林道に取り次ぐ道がありません。 辺りを見渡すと橋の下に足跡が多数残っていたので、多分、橋の先に林道への取り次ぎ口があるとは思いましたが、よく分からないので、適当に薮漕ぎして林道に取り次ぎました。

林道の橋のところまで来ました。 登山口は上の林道を右に進まなければ行けないのですが、この場所から林道に取り次ぐ道がありません。 辺りを見渡すと橋の下に足跡が多数残っていたので、多分、橋の先に林道への取り次ぎ口があるとは思いましたが、よく分からないので、適当に薮漕ぎして林道に取り次ぎました。

林道に出て少し進むと左側に取り次ぎ口がありました。

林道に出て少し進むと左側に取り次ぎ口がありました。

林道に出て少し進むと左側に取り次ぎ口がありました。

帰りはここから降りるとします。

帰りはここから降りるとします。

帰りはここから降りるとします。

中津川に沿って林道を進みます。
登山口までは1時間の林道歩きとなります。

中津川に沿って林道を進みます。 登山口までは1時間の林道歩きとなります。

中津川に沿って林道を進みます。 登山口までは1時間の林道歩きとなります。

今回は念のためにガーミンも所持しています。

今回は念のためにガーミンも所持しています。

今回は念のためにガーミンも所持しています。

林道から中津川に降りる場所は幾つかあるようですが、先を急ぎます。

林道から中津川に降りる場所は幾つかあるようですが、先を急ぎます。

林道から中津川に降りる場所は幾つかあるようですが、先を急ぎます。

分岐を右に進みます。

分岐を右に進みます。

分岐を右に進みます。

時折、熊対策でホイッスルを鳴らしながら進みました。

時折、熊対策でホイッスルを鳴らしながら進みました。

時折、熊対策でホイッスルを鳴らしながら進みました。

ちょっと暇潰し。

ちょっと暇潰し。

ちょっと暇潰し。

左の沢に給水ポイントがあります。

左の沢に給水ポイントがあります。

左の沢に給水ポイントがあります。

唐松川に架かる橋を渡ります。

唐松川に架かる橋を渡ります。

唐松川に架かる橋を渡ります。

林道の分岐に来ました。
登山口は、ここを左に入ります。

昭文社 山と高原地図では、この地点から吾妻山神社までのコースタイムが登り3時間20分。下りは3時間。
これに林道の往復を2時間含め、休憩時間も入れると約10時間コースと見込んでいます。

林道の分岐に来ました。 登山口は、ここを左に入ります。 昭文社 山と高原地図では、この地点から吾妻山神社までのコースタイムが登り3時間20分。下りは3時間。 これに林道の往復を2時間含め、休憩時間も入れると約10時間コースと見込んでいます。

林道の分岐に来ました。 登山口は、ここを左に入ります。 昭文社 山と高原地図では、この地点から吾妻山神社までのコースタイムが登り3時間20分。下りは3時間。 これに林道の往復を2時間含め、休憩時間も入れると約10時間コースと見込んでいます。

左の林道を進むと何か建物が見えます。

左の林道を進むと何か建物が見えます。

左の林道を進むと何か建物が見えます。

「隠婆菩薩」とあります。

「東北霊山と修験道」には隠婆菩薩の記載はないので、おそらくこの付近に唐松沢の遥拝所があったと思われます。
明治の廃仏毀釈の時代、吾妻信仰の管理者であった成就院の最後の当主が若くして逝ったことにより、吾妻信仰は幻の信仰として消し去ろうとしていました。この間に会津若松の長岡氏によって古文書が保存され、また米沢出身の画家・計(け)見東山氏によって遥拝所の修理・復興、さらに旧吾妻修験の三井氏による吾妻信仰復興の提唱があり、更に昭和40年代に至っては、吾妻山神社第7代神職の伊藤氏によって古文書の捜索が行われ、かろうじて吾妻信仰は滅却を免れて今日に至っています。

本日の無事を祈って合掌しました。

「隠婆菩薩」とあります。 「東北霊山と修験道」には隠婆菩薩の記載はないので、おそらくこの付近に唐松沢の遥拝所があったと思われます。 明治の廃仏毀釈の時代、吾妻信仰の管理者であった成就院の最後の当主が若くして逝ったことにより、吾妻信仰は幻の信仰として消し去ろうとしていました。この間に会津若松の長岡氏によって古文書が保存され、また米沢出身の画家・計(け)見東山氏によって遥拝所の修理・復興、さらに旧吾妻修験の三井氏による吾妻信仰復興の提唱があり、更に昭和40年代に至っては、吾妻山神社第7代神職の伊藤氏によって古文書の捜索が行われ、かろうじて吾妻信仰は滅却を免れて今日に至っています。 本日の無事を祈って合掌しました。

「隠婆菩薩」とあります。 「東北霊山と修験道」には隠婆菩薩の記載はないので、おそらくこの付近に唐松沢の遥拝所があったと思われます。 明治の廃仏毀釈の時代、吾妻信仰の管理者であった成就院の最後の当主が若くして逝ったことにより、吾妻信仰は幻の信仰として消し去ろうとしていました。この間に会津若松の長岡氏によって古文書が保存され、また米沢出身の画家・計(け)見東山氏によって遥拝所の修理・復興、さらに旧吾妻修験の三井氏による吾妻信仰復興の提唱があり、更に昭和40年代に至っては、吾妻山神社第7代神職の伊藤氏によって古文書の捜索が行われ、かろうじて吾妻信仰は滅却を免れて今日に至っています。 本日の無事を祈って合掌しました。

ぬかるんだ車の轍を進みます。

ぬかるんだ車の轍を進みます。

ぬかるんだ車の轍を進みます。

林道の通行止めの標識の後ろが登山口になります。

林道の通行止めの標識の後ろが登山口になります。

林道の通行止めの標識の後ろが登山口になります。

唐松川を渡渉した先が登山口です。

この場所が唐松沢と呼ばれ、東吾妻駈のルートと西吾妻駈のルートと磐梯修験の妙見口、木地小屋(熊野口)からの合流地点になります。奥の院に峯入りする行者は唐松川の幾多の滝で身を清めて奥の院に向かったようです。

唐松川を渡渉した先が登山口です。 この場所が唐松沢と呼ばれ、東吾妻駈のルートと西吾妻駈のルートと磐梯修験の妙見口、木地小屋(熊野口)からの合流地点になります。奥の院に峯入りする行者は唐松川の幾多の滝で身を清めて奥の院に向かったようです。

唐松川を渡渉した先が登山口です。 この場所が唐松沢と呼ばれ、東吾妻駈のルートと西吾妻駈のルートと磐梯修験の妙見口、木地小屋(熊野口)からの合流地点になります。奥の院に峯入りする行者は唐松川の幾多の滝で身を清めて奥の院に向かったようです。

傍らにはミズナラの御神木があります。

傍らにはミズナラの御神木があります。

傍らにはミズナラの御神木があります。

湧き水が流れている斜面を縫って登ります。

湧き水が流れている斜面を縫って登ります。

湧き水が流れている斜面を縫って登ります。

吾妻山神社登山口に来ました。

吾妻山神社登山口に来ました。

吾妻山神社登山口に来ました。

登山口から急な登りが始まります。
この先に等高線が狭い箇所が2ヶ所あるので、そこが最初の山場です。

登山口から急な登りが始まります。 この先に等高線が狭い箇所が2ヶ所あるので、そこが最初の山場です。

登山口から急な登りが始まります。 この先に等高線が狭い箇所が2ヶ所あるので、そこが最初の山場です。

一つ目の登り。

一つ目の登り。

一つ目の登り。

すでに汗だくです。

すでに汗だくです。

すでに汗だくです。

この付近はカラマツ林です。

この付近はカラマツ林です。

この付近はカラマツ林です。

最初の斜面を登り切り、次の急登に向かいます。

最初の斜面を登り切り、次の急登に向かいます。

最初の斜面を登り切り、次の急登に向かいます。

標高1200m付近。

標高1200m付近。

標高1200m付近。

まだまだ登ります。

まだまだ登ります。

まだまだ登ります。

ザックの水が重い。

ザックの水が重い。

ザックの水が重い。

カラマツ林とブナ林の間にある笹藪地帯を進みます。

カラマツ林とブナ林の間にある笹藪地帯を進みます。

カラマツ林とブナ林の間にある笹藪地帯を進みます。

森の巨人も多数おられます。

森の巨人も多数おられます。

森の巨人も多数おられます。

標高1350m付近。
やっと鬼のような坂を登りきりブナ林になります。
付近から水の流れる音がするので、水場は近いと思います。

この辺が中間地点で、奥の院までの道のりは長いです。

標高1350m付近。 やっと鬼のような坂を登りきりブナ林になります。 付近から水の流れる音がするので、水場は近いと思います。 この辺が中間地点で、奥の院までの道のりは長いです。

標高1350m付近。 やっと鬼のような坂を登りきりブナ林になります。 付近から水の流れる音がするので、水場は近いと思います。 この辺が中間地点で、奥の院までの道のりは長いです。

モンスターエナジー。

モンスターエナジー。

モンスターエナジー。

古いプレートに吾妻山神社、1952?と見えます。

古いプレートに吾妻山神社、1952?と見えます。

古いプレートに吾妻山神社、1952?と見えます。

標高1500m付近まで登り、針葉樹林帯に入って小休止にしたいのですが、腰を下ろせる場所もなく、虫もやたらにいるのでやむ無く進みます。
さっきのブナ林で小休止しなかったことを悔やみます。

標高1500m付近まで登り、針葉樹林帯に入って小休止にしたいのですが、腰を下ろせる場所もなく、虫もやたらにいるのでやむ無く進みます。 さっきのブナ林で小休止しなかったことを悔やみます。

標高1500m付近まで登り、針葉樹林帯に入って小休止にしたいのですが、腰を下ろせる場所もなく、虫もやたらにいるのでやむ無く進みます。 さっきのブナ林で小休止しなかったことを悔やみます。

だいぶ標高も稼いで安心したのも束の間、この先も一苦労する道が続きます。

だいぶ標高も稼いで安心したのも束の間、この先も一苦労する道が続きます。

だいぶ標高も稼いで安心したのも束の間、この先も一苦労する道が続きます。

薮の中に倒木があったりして脛をぶつけました。

薮の中に倒木があったりして脛をぶつけました。

薮の中に倒木があったりして脛をぶつけました。

ビミョーに登り下りがあるのでペースも上がらず、視界も無く、時間ばかり過ぎていきます。

ビミョーに登り下りがあるのでペースも上がらず、視界も無く、時間ばかり過ぎていきます。

ビミョーに登り下りがあるのでペースも上がらず、視界も無く、時間ばかり過ぎていきます。

目印が無ければ遭難しそうです。

目印が無ければ遭難しそうです。

目印が無ければ遭難しそうです。

途中でヒカリゴケを発見。

途中でヒカリゴケを発見。

途中でヒカリゴケを発見。

最後の登りに向かいます。

最後の登りに向かいます。

最後の登りに向かいます。

歴史の生き証木。

歴史の生き証木。

歴史の生き証木。

標高1530m付近。
やっと奥姥神様に辿り着きました。

標高1530m付近。 やっと奥姥神様に辿り着きました。

標高1530m付近。 やっと奥姥神様に辿り着きました。

ここは浄土口をともいわれた結界の場所で、ここで草鞋を改めて心身を正し、「聞かば語るな語らば聞くなの耳塞ぎ」といわれ、無言の行で奥の院へ向かったようです。

ここは浄土口をともいわれた結界の場所で、ここで草鞋を改めて心身を正し、「聞かば語るな語らば聞くなの耳塞ぎ」といわれ、無言の行で奥の院へ向かったようです。

ここは浄土口をともいわれた結界の場所で、ここで草鞋を改めて心身を正し、「聞かば語るな語らば聞くなの耳塞ぎ」といわれ、無言の行で奥の院へ向かったようです。

しかし太い倒木が進路を塞ぎ、無言で立ち尽くす。

しかし太い倒木が進路を塞ぎ、無言で立ち尽くす。

しかし太い倒木が進路を塞ぎ、無言で立ち尽くす。

この辺から奥の院まで苔むした岩場の難所が続きます。

この辺から奥の院まで苔むした岩場の難所が続きます。

この辺から奥の院まで苔むした岩場の難所が続きます。

右の斜面には、かつて中吾妻山の北斜面を越えて谷地平に抜けるルートがあったようです。

右の斜面には、かつて中吾妻山の北斜面を越えて谷地平に抜けるルートがあったようです。

右の斜面には、かつて中吾妻山の北斜面を越えて谷地平に抜けるルートがあったようです。

ほとんど読めないプレートがある場所から奥の院までは鬼下りとなります。

ほとんど読めないプレートがある場所から奥の院までは鬼下りとなります。

ほとんど読めないプレートがある場所から奥の院までは鬼下りとなります。

何の花でしょうか?

何の花でしょうか?

何の花でしょうか?

下から水の流れる音が聞こえて来ました。

下から水の流れる音が聞こえて来ました。

下から水の流れる音が聞こえて来ました。

急に蒸してきてカメラのレンズが曇ります。薮の先に大きな岩が見えるので吾妻山神社に来た模様です。

急に蒸してきてカメラのレンズが曇ります。薮の先に大きな岩が見えるので吾妻山神社に来た模様です。

急に蒸してきてカメラのレンズが曇ります。薮の先に大きな岩が見えるので吾妻山神社に来た模様です。

やっと奥の院に到着です。
スタートからすでに5時間も経過しています。

こんなに展望がない長丁場のルートは初めてですが、滅多に見ることが出来ない注連縄が張られた吾妻大権現の御神体にひれ伏します。

吾妻信仰の全盛期は、たくさんの人たちがこの御神体に手を合わせたであろうと思います。

やっと奥の院に到着です。 スタートからすでに5時間も経過しています。 こんなに展望がない長丁場のルートは初めてですが、滅多に見ることが出来ない注連縄が張られた吾妻大権現の御神体にひれ伏します。 吾妻信仰の全盛期は、たくさんの人たちがこの御神体に手を合わせたであろうと思います。

やっと奥の院に到着です。 スタートからすでに5時間も経過しています。 こんなに展望がない長丁場のルートは初めてですが、滅多に見ることが出来ない注連縄が張られた吾妻大権現の御神体にひれ伏します。 吾妻信仰の全盛期は、たくさんの人たちがこの御神体に手を合わせたであろうと思います。

歴代の成就院主たちは山開きの旧7月1日(2022年7月29日)から山閉じの8月8日(2022年9月3日)までの30日余り、唐松沢の遙拝所にこもって、国土の安隠・蚕養の繁栄・五穀豊穣と万民歓楽を祈願していたようです。

麓の唐松沢の遙拝所で成就院主が祈願している間に、吾妻山の最高霊場であった閼伽(あか)沢の奥ノ院では、立ち込める硫黄の噴煙と臭気をついて17日間の読経と祈祷を修めて、登拝は個人の信者と講中の代参がひっきりなしだったようです。

歴代の成就院主たちは山開きの旧7月1日(2022年7月29日)から山閉じの8月8日(2022年9月3日)までの30日余り、唐松沢の遙拝所にこもって、国土の安隠・蚕養の繁栄・五穀豊穣と万民歓楽を祈願していたようです。 麓の唐松沢の遙拝所で成就院主が祈願している間に、吾妻山の最高霊場であった閼伽(あか)沢の奥ノ院では、立ち込める硫黄の噴煙と臭気をついて17日間の読経と祈祷を修めて、登拝は個人の信者と講中の代参がひっきりなしだったようです。

歴代の成就院主たちは山開きの旧7月1日(2022年7月29日)から山閉じの8月8日(2022年9月3日)までの30日余り、唐松沢の遙拝所にこもって、国土の安隠・蚕養の繁栄・五穀豊穣と万民歓楽を祈願していたようです。 麓の唐松沢の遙拝所で成就院主が祈願している間に、吾妻山の最高霊場であった閼伽(あか)沢の奥ノ院では、立ち込める硫黄の噴煙と臭気をついて17日間の読経と祈祷を修めて、登拝は個人の信者と講中の代参がひっきりなしだったようです。

御神体の下から温泉が沸いているので、付近は湯気が立ち込めてムシムシするせいか、やたらに虫が多いので避難しました。
当時も祈祷していた時期は夏場なので、かなりの労力だったと思われます。

御神体の下から温泉が沸いているので、付近は湯気が立ち込めてムシムシするせいか、やたらに虫が多いので避難しました。 当時も祈祷していた時期は夏場なので、かなりの労力だったと思われます。

御神体の下から温泉が沸いているので、付近は湯気が立ち込めてムシムシするせいか、やたらに虫が多いので避難しました。 当時も祈祷していた時期は夏場なので、かなりの労力だったと思われます。

涌き出る温度はぬるいです。

涌き出る温度はぬるいです。

涌き出る温度はぬるいです。

奥の院から薮漕ぎして権現沢に避難しました。

ここから中津川まで下りることは自分には無理です。

奥の院から薮漕ぎして権現沢に避難しました。 ここから中津川まで下りることは自分には無理です。

奥の院から薮漕ぎして権現沢に避難しました。 ここから中津川まで下りることは自分には無理です。

ここで食事にします。(ここしかない)

本日はフリーズドライのカレーで付けパスコを頂きました。

ここで食事にします。(ここしかない) 本日はフリーズドライのカレーで付けパスコを頂きました。

ここで食事にします。(ここしかない) 本日はフリーズドライのカレーで付けパスコを頂きました。

上を見上げるとかなりの斜面を水が流れ落ちています。もし、ここで落石が起きたら地獄行きです。

上を見上げるとかなりの斜面を水が流れ落ちています。もし、ここで落石が起きたら地獄行きです。

上を見上げるとかなりの斜面を水が流れ落ちています。もし、ここで落石が起きたら地獄行きです。

私の部屋に眠っていた1996年版の昭文社 山と高原地図 磐梯・吾妻・安達太良の秘蔵の地図を見ると、当時は吾妻山神社からヤケノママまで行くルートが存在していたようです。
しかし中吾妻山に行くルートは1996年の時点ですでに通行不能になっています。またヤケノママから継森の北斜面を抜けて谷地平に行くルートもあったようです。

これらのルートが復活する日は来るのでしょうか?

私の部屋に眠っていた1996年版の昭文社 山と高原地図 磐梯・吾妻・安達太良の秘蔵の地図を見ると、当時は吾妻山神社からヤケノママまで行くルートが存在していたようです。 しかし中吾妻山に行くルートは1996年の時点ですでに通行不能になっています。またヤケノママから継森の北斜面を抜けて谷地平に行くルートもあったようです。 これらのルートが復活する日は来るのでしょうか?

私の部屋に眠っていた1996年版の昭文社 山と高原地図 磐梯・吾妻・安達太良の秘蔵の地図を見ると、当時は吾妻山神社からヤケノママまで行くルートが存在していたようです。 しかし中吾妻山に行くルートは1996年の時点ですでに通行不能になっています。またヤケノママから継森の北斜面を抜けて谷地平に行くルートもあったようです。 これらのルートが復活する日は来るのでしょうか?

一つ気になるのは「天狗の庭」と呼ばれる場所があるのですが、手元の資料にも場所までは明記されておらず、おそらく廃道になっている谷地平に抜けるルート上から見える風景っぽいです。

一つ気になるのは「天狗の庭」と呼ばれる場所があるのですが、手元の資料にも場所までは明記されておらず、おそらく廃道になっている谷地平に抜けるルート上から見える風景っぽいです。

一つ気になるのは「天狗の庭」と呼ばれる場所があるのですが、手元の資料にも場所までは明記されておらず、おそらく廃道になっている谷地平に抜けるルート上から見える風景っぽいです。

木々の隙間から西大巓(だいてん)?西吾妻山?

木々の隙間から西大巓(だいてん)?西吾妻山?

木々の隙間から西大巓(だいてん)?西吾妻山?

11時に下山開始。
下山ですが、鬼登りのスタートとなります。

11時に下山開始。 下山ですが、鬼登りのスタートとなります。

11時に下山開始。 下山ですが、鬼登りのスタートとなります。

プレートの場所まで戻って来ました。

プレートの場所まで戻って来ました。

プレートの場所まで戻って来ました。

途中で目印を見落してしまいタイムロス。

途中で目印を見落してしまいタイムロス。

途中で目印を見落してしまいタイムロス。

ほとんど登山道には見えない光景。

ほとんど登山道には見えない光景。

ほとんど登山道には見えない光景。

再び奥姥神様に一礼。

再び奥姥神様に一礼。

再び奥姥神様に一礼。

標高1470m付近。もうすぐブナ林。

標高1470m付近。もうすぐブナ林。

標高1470m付近。もうすぐブナ林。

ブナ林に戻って来たところでキウイタイム。

ブナ林に戻って来たところでキウイタイム。

ブナ林に戻って来たところでキウイタイム。

ギンリョウソウ。

ギンリョウソウ。

ギンリョウソウ。

ブナ林の中は心地いい風が吹いていました。

ブナ林の中は心地いい風が吹いていました。

ブナ林の中は心地いい風が吹いていました。

8本の幹からなるヤマタノオロチブナ?

8本の幹からなるヤマタノオロチブナ?

8本の幹からなるヤマタノオロチブナ?

ふと青空を見上げると、何故ここにいるのか分からなくなりそうでした。

ふと青空を見上げると、何故ここにいるのか分からなくなりそうでした。

ふと青空を見上げると、何故ここにいるのか分からなくなりそうでした。

トンボはやたらにいました。

トンボはやたらにいました。

トンボはやたらにいました。

再びカラマツゾーン。

再びカラマツゾーン。

再びカラマツゾーン。

あとは下るだけなので一安心。

あとは下るだけなので一安心。

あとは下るだけなので一安心。

やっと唐松沢に戻って来ました。

やっと唐松沢に戻って来ました。

やっと唐松沢に戻って来ました。

一目散に唐松川の冷たい水で顔を洗い甦りました。

一目散に唐松川の冷たい水で顔を洗い甦りました。

一目散に唐松川の冷たい水で顔を洗い甦りました。

今となっては場所の特定出来ませんが、参考までに奥ノ院駈のコースを載せておきます。

①唐松沢
②ザラメキ滝
③子安滝
④胎内潜り
⑤中唐沢
⑥牛石
⑦三重滝(懺悔)
⑧成就院小屋
⑨弘法清水
⑩独鈷清水
⑪三足鳥石
⑫金鳥影向石
⑬梵字石(大日如来の梵字が刻まれているらしい)
⑭閼伽井
⑮稲荷森
⑯姥神
⑰奥ノ院

駈所には胎内潜りや三重滝のノゾキの責め・大日の影向などといわれる修験道の本義に通じた内容で吾妻信仰の枠を集めたものとされ、吾妻峯入りの本命として別に「本駈」と呼ばれる由縁であったとされています。

今となっては場所の特定出来ませんが、参考までに奥ノ院駈のコースを載せておきます。 ①唐松沢 ②ザラメキ滝 ③子安滝 ④胎内潜り ⑤中唐沢 ⑥牛石 ⑦三重滝(懺悔) ⑧成就院小屋 ⑨弘法清水 ⑩独鈷清水 ⑪三足鳥石 ⑫金鳥影向石 ⑬梵字石(大日如来の梵字が刻まれているらしい) ⑭閼伽井 ⑮稲荷森 ⑯姥神 ⑰奥ノ院 駈所には胎内潜りや三重滝のノゾキの責め・大日の影向などといわれる修験道の本義に通じた内容で吾妻信仰の枠を集めたものとされ、吾妻峯入りの本命として別に「本駈」と呼ばれる由縁であったとされています。

今となっては場所の特定出来ませんが、参考までに奥ノ院駈のコースを載せておきます。 ①唐松沢 ②ザラメキ滝 ③子安滝 ④胎内潜り ⑤中唐沢 ⑥牛石 ⑦三重滝(懺悔) ⑧成就院小屋 ⑨弘法清水 ⑩独鈷清水 ⑪三足鳥石 ⑫金鳥影向石 ⑬梵字石(大日如来の梵字が刻まれているらしい) ⑭閼伽井 ⑮稲荷森 ⑯姥神 ⑰奥ノ院 駈所には胎内潜りや三重滝のノゾキの責め・大日の影向などといわれる修験道の本義に通じた内容で吾妻信仰の枠を集めたものとされ、吾妻峯入りの本命として別に「本駈」と呼ばれる由縁であったとされています。

吾妻修験道において吾妻の「妻」とは「西方浄土」を意味していたとみられています。
一切経山の「一切経」とは一切の仏説を網羅した仏教界最高の経典を意味して、一切経山の一切の諸仏諸尊をこの聖域に招請して金剛界と胎蔵界の浄土を観念させたものが吾妻修験道になるようです。今では山名を変えてしまった薬師岳、先達山、経典ヶ森などの山名が、かつてはあったようです。

吾妻修験道において吾妻の「妻」とは「西方浄土」を意味していたとみられています。 一切経山の「一切経」とは一切の仏説を網羅した仏教界最高の経典を意味して、一切経山の一切の諸仏諸尊をこの聖域に招請して金剛界と胎蔵界の浄土を観念させたものが吾妻修験道になるようです。今では山名を変えてしまった薬師岳、先達山、経典ヶ森などの山名が、かつてはあったようです。

吾妻修験道において吾妻の「妻」とは「西方浄土」を意味していたとみられています。 一切経山の「一切経」とは一切の仏説を網羅した仏教界最高の経典を意味して、一切経山の一切の諸仏諸尊をこの聖域に招請して金剛界と胎蔵界の浄土を観念させたものが吾妻修験道になるようです。今では山名を変えてしまった薬師岳、先達山、経典ヶ森などの山名が、かつてはあったようです。

民衆が山伏の先達のもとに信仰登山が出来るようになったのは江戸時代の中期頃のようで、山開きから1ケ月の間だけ信仰登山が許されていたようです。

唐松沢はけっこう開けた場所で、気持ちよく涼むことが出来ました。

民衆が山伏の先達のもとに信仰登山が出来るようになったのは江戸時代の中期頃のようで、山開きから1ケ月の間だけ信仰登山が許されていたようです。 唐松沢はけっこう開けた場所で、気持ちよく涼むことが出来ました。

民衆が山伏の先達のもとに信仰登山が出来るようになったのは江戸時代の中期頃のようで、山開きから1ケ月の間だけ信仰登山が許されていたようです。 唐松沢はけっこう開けた場所で、気持ちよく涼むことが出来ました。

最後に隠婆菩薩様に合掌。

よく見れば奥姥神様より顔の作りは新しい感じです。

最後に隠婆菩薩様に合掌。 よく見れば奥姥神様より顔の作りは新しい感じです。

最後に隠婆菩薩様に合掌。 よく見れば奥姥神様より顔の作りは新しい感じです。

朝通った林道の橋の手間から中津川に降ります。

朝通った林道の橋の手間から中津川に降ります。

朝通った林道の橋の手間から中津川に降ります。

容易に林道の橋の下まで来ることが出来ました。

容易に林道の橋の下まで来ることが出来ました。

容易に林道の橋の下まで来ることが出来ました。

この中津川を上流まで遡り、「ヤケノママ」を経由して奥の院に至るルートが旧イワノカケハシ(磐梯)駈で、通称「地獄駈」と呼ばれていたようです。

江戸時代から修験者も定住することを義務付けられ、「山伏」と呼ばれるようになる訳ですが、吾妻信仰は平安末期の焼打ちで衰えてしまい、江戸時代に入ってから再興されました。修験者がより修験者らしかった時代は定住していなかった戦国時代までのようで、「地獄駈」は古い時代の修験道を彷彿させるルートになると思います。

この中津川を上流まで遡り、「ヤケノママ」を経由して奥の院に至るルートが旧イワノカケハシ(磐梯)駈で、通称「地獄駈」と呼ばれていたようです。 江戸時代から修験者も定住することを義務付けられ、「山伏」と呼ばれるようになる訳ですが、吾妻信仰は平安末期の焼打ちで衰えてしまい、江戸時代に入ってから再興されました。修験者がより修験者らしかった時代は定住していなかった戦国時代までのようで、「地獄駈」は古い時代の修験道を彷彿させるルートになると思います。

この中津川を上流まで遡り、「ヤケノママ」を経由して奥の院に至るルートが旧イワノカケハシ(磐梯)駈で、通称「地獄駈」と呼ばれていたようです。 江戸時代から修験者も定住することを義務付けられ、「山伏」と呼ばれるようになる訳ですが、吾妻信仰は平安末期の焼打ちで衰えてしまい、江戸時代に入ってから再興されました。修験者がより修験者らしかった時代は定住していなかった戦国時代までのようで、「地獄駈」は古い時代の修験道を彷彿させるルートになると思います。

千年前は超人的な修験者が遡った中津川に、何も感じとることも出来ずに引き上げました。

千年前は超人的な修験者が遡った中津川に、何も感じとることも出来ずに引き上げました。

千年前は超人的な修験者が遡った中津川に、何も感じとることも出来ずに引き上げました。

何とかレストハウスの営業時間中に戻って来ました。
ブヨに五ケ所も刺されてあちこちかゆいです。

持参した温度計では標高1000~1500mくらいの温度は22~24度ぐらいで、現在は27度あります。
使用した水は1400ml(食事に使用した分も含む)で約1㍑あまりました。

やはり猛暑の時期は標高1500mくらいで活動したいものです。

何とかレストハウスの営業時間中に戻って来ました。 ブヨに五ケ所も刺されてあちこちかゆいです。 持参した温度計では標高1000~1500mくらいの温度は22~24度ぐらいで、現在は27度あります。 使用した水は1400ml(食事に使用した分も含む)で約1㍑あまりました。 やはり猛暑の時期は標高1500mくらいで活動したいものです。

何とかレストハウスの営業時間中に戻って来ました。 ブヨに五ケ所も刺されてあちこちかゆいです。 持参した温度計では標高1000~1500mくらいの温度は22~24度ぐらいで、現在は27度あります。 使用した水は1400ml(食事に使用した分も含む)で約1㍑あまりました。 やはり猛暑の時期は標高1500mくらいで活動したいものです。

最後にレストハウスで胡麻ソフトを頂きました。
けっこう濃厚な味だったので全種類制覇したくなりました。

最後にレストハウスで胡麻ソフトを頂きました。 けっこう濃厚な味だったので全種類制覇したくなりました。

最後にレストハウスで胡麻ソフトを頂きました。 けっこう濃厚な味だったので全種類制覇したくなりました。

吾妻大権現も今回で完了となります。1996年版の地図を見た当時から吾妻山神社の存在は知っていましたが、実際に行くことになるとは思ってもいませんでした。

「本駈」とも呼ばれた奥の院コースは登山口までの不便さや、終始展望がないことが入山者が少ない理由になると思いますが、歴史に埋もれたこのコースに自分の足跡を残せたことは良かったと感じました。

吾妻大権現も今回で完了となります。1996年版の地図を見た当時から吾妻山神社の存在は知っていましたが、実際に行くことになるとは思ってもいませんでした。 「本駈」とも呼ばれた奥の院コースは登山口までの不便さや、終始展望がないことが入山者が少ない理由になると思いますが、歴史に埋もれたこのコースに自分の足跡を残せたことは良かったと感じました。

吾妻大権現も今回で完了となります。1996年版の地図を見た当時から吾妻山神社の存在は知っていましたが、実際に行くことになるとは思ってもいませんでした。 「本駈」とも呼ばれた奥の院コースは登山口までの不便さや、終始展望がないことが入山者が少ない理由になると思いますが、歴史に埋もれたこのコースに自分の足跡を残せたことは良かったと感じました。

夜明け前の志田浜から磐梯山のシルエット。

本日は時間厳守。 中津川レストハウスを5時に出発。 今回は長丁場に備えて、所持した水は2450ml。日の入りの時刻は19時05分。 念のためヘッドライトも持参しました。

レストハウスの左から遊歩道を進み、中津川渓谷へ降ります。

中津川に出たら、河原を右に進みます。

林道の橋のところまで来ました。 登山口は上の林道を右に進まなければ行けないのですが、この場所から林道に取り次ぐ道がありません。 辺りを見渡すと橋の下に足跡が多数残っていたので、多分、橋の先に林道への取り次ぎ口があるとは思いましたが、よく分からないので、適当に薮漕ぎして林道に取り次ぎました。

林道に出て少し進むと左側に取り次ぎ口がありました。

帰りはここから降りるとします。

中津川に沿って林道を進みます。 登山口までは1時間の林道歩きとなります。

今回は念のためにガーミンも所持しています。

林道から中津川に降りる場所は幾つかあるようですが、先を急ぎます。

分岐を右に進みます。

時折、熊対策でホイッスルを鳴らしながら進みました。

ちょっと暇潰し。

左の沢に給水ポイントがあります。

唐松川に架かる橋を渡ります。

林道の分岐に来ました。 登山口は、ここを左に入ります。 昭文社 山と高原地図では、この地点から吾妻山神社までのコースタイムが登り3時間20分。下りは3時間。 これに林道の往復を2時間含め、休憩時間も入れると約10時間コースと見込んでいます。

左の林道を進むと何か建物が見えます。

「隠婆菩薩」とあります。 「東北霊山と修験道」には隠婆菩薩の記載はないので、おそらくこの付近に唐松沢の遥拝所があったと思われます。 明治の廃仏毀釈の時代、吾妻信仰の管理者であった成就院の最後の当主が若くして逝ったことにより、吾妻信仰は幻の信仰として消し去ろうとしていました。この間に会津若松の長岡氏によって古文書が保存され、また米沢出身の画家・計(け)見東山氏によって遥拝所の修理・復興、さらに旧吾妻修験の三井氏による吾妻信仰復興の提唱があり、更に昭和40年代に至っては、吾妻山神社第7代神職の伊藤氏によって古文書の捜索が行われ、かろうじて吾妻信仰は滅却を免れて今日に至っています。 本日の無事を祈って合掌しました。

ぬかるんだ車の轍を進みます。

林道の通行止めの標識の後ろが登山口になります。

唐松川を渡渉した先が登山口です。 この場所が唐松沢と呼ばれ、東吾妻駈のルートと西吾妻駈のルートと磐梯修験の妙見口、木地小屋(熊野口)からの合流地点になります。奥の院に峯入りする行者は唐松川の幾多の滝で身を清めて奥の院に向かったようです。

傍らにはミズナラの御神木があります。

湧き水が流れている斜面を縫って登ります。

吾妻山神社登山口に来ました。

登山口から急な登りが始まります。 この先に等高線が狭い箇所が2ヶ所あるので、そこが最初の山場です。

一つ目の登り。

すでに汗だくです。

この付近はカラマツ林です。

最初の斜面を登り切り、次の急登に向かいます。

標高1200m付近。

まだまだ登ります。

ザックの水が重い。

カラマツ林とブナ林の間にある笹藪地帯を進みます。

森の巨人も多数おられます。

標高1350m付近。 やっと鬼のような坂を登りきりブナ林になります。 付近から水の流れる音がするので、水場は近いと思います。 この辺が中間地点で、奥の院までの道のりは長いです。

モンスターエナジー。

古いプレートに吾妻山神社、1952?と見えます。

標高1500m付近まで登り、針葉樹林帯に入って小休止にしたいのですが、腰を下ろせる場所もなく、虫もやたらにいるのでやむ無く進みます。 さっきのブナ林で小休止しなかったことを悔やみます。

だいぶ標高も稼いで安心したのも束の間、この先も一苦労する道が続きます。

薮の中に倒木があったりして脛をぶつけました。

ビミョーに登り下りがあるのでペースも上がらず、視界も無く、時間ばかり過ぎていきます。

目印が無ければ遭難しそうです。

途中でヒカリゴケを発見。

最後の登りに向かいます。

歴史の生き証木。

標高1530m付近。 やっと奥姥神様に辿り着きました。

ここは浄土口をともいわれた結界の場所で、ここで草鞋を改めて心身を正し、「聞かば語るな語らば聞くなの耳塞ぎ」といわれ、無言の行で奥の院へ向かったようです。

しかし太い倒木が進路を塞ぎ、無言で立ち尽くす。

この辺から奥の院まで苔むした岩場の難所が続きます。

右の斜面には、かつて中吾妻山の北斜面を越えて谷地平に抜けるルートがあったようです。

ほとんど読めないプレートがある場所から奥の院までは鬼下りとなります。

何の花でしょうか?

下から水の流れる音が聞こえて来ました。

急に蒸してきてカメラのレンズが曇ります。薮の先に大きな岩が見えるので吾妻山神社に来た模様です。

やっと奥の院に到着です。 スタートからすでに5時間も経過しています。 こんなに展望がない長丁場のルートは初めてですが、滅多に見ることが出来ない注連縄が張られた吾妻大権現の御神体にひれ伏します。 吾妻信仰の全盛期は、たくさんの人たちがこの御神体に手を合わせたであろうと思います。

歴代の成就院主たちは山開きの旧7月1日(2022年7月29日)から山閉じの8月8日(2022年9月3日)までの30日余り、唐松沢の遙拝所にこもって、国土の安隠・蚕養の繁栄・五穀豊穣と万民歓楽を祈願していたようです。 麓の唐松沢の遙拝所で成就院主が祈願している間に、吾妻山の最高霊場であった閼伽(あか)沢の奥ノ院では、立ち込める硫黄の噴煙と臭気をついて17日間の読経と祈祷を修めて、登拝は個人の信者と講中の代参がひっきりなしだったようです。

御神体の下から温泉が沸いているので、付近は湯気が立ち込めてムシムシするせいか、やたらに虫が多いので避難しました。 当時も祈祷していた時期は夏場なので、かなりの労力だったと思われます。

涌き出る温度はぬるいです。

奥の院から薮漕ぎして権現沢に避難しました。 ここから中津川まで下りることは自分には無理です。

ここで食事にします。(ここしかない) 本日はフリーズドライのカレーで付けパスコを頂きました。

上を見上げるとかなりの斜面を水が流れ落ちています。もし、ここで落石が起きたら地獄行きです。

私の部屋に眠っていた1996年版の昭文社 山と高原地図 磐梯・吾妻・安達太良の秘蔵の地図を見ると、当時は吾妻山神社からヤケノママまで行くルートが存在していたようです。 しかし中吾妻山に行くルートは1996年の時点ですでに通行不能になっています。またヤケノママから継森の北斜面を抜けて谷地平に行くルートもあったようです。 これらのルートが復活する日は来るのでしょうか?

一つ気になるのは「天狗の庭」と呼ばれる場所があるのですが、手元の資料にも場所までは明記されておらず、おそらく廃道になっている谷地平に抜けるルート上から見える風景っぽいです。

木々の隙間から西大巓(だいてん)?西吾妻山?

11時に下山開始。 下山ですが、鬼登りのスタートとなります。

プレートの場所まで戻って来ました。

途中で目印を見落してしまいタイムロス。

ほとんど登山道には見えない光景。

再び奥姥神様に一礼。

標高1470m付近。もうすぐブナ林。

ブナ林に戻って来たところでキウイタイム。

ギンリョウソウ。

ブナ林の中は心地いい風が吹いていました。

8本の幹からなるヤマタノオロチブナ?

ふと青空を見上げると、何故ここにいるのか分からなくなりそうでした。

トンボはやたらにいました。

再びカラマツゾーン。

あとは下るだけなので一安心。

やっと唐松沢に戻って来ました。

一目散に唐松川の冷たい水で顔を洗い甦りました。

今となっては場所の特定出来ませんが、参考までに奥ノ院駈のコースを載せておきます。 ①唐松沢 ②ザラメキ滝 ③子安滝 ④胎内潜り ⑤中唐沢 ⑥牛石 ⑦三重滝(懺悔) ⑧成就院小屋 ⑨弘法清水 ⑩独鈷清水 ⑪三足鳥石 ⑫金鳥影向石 ⑬梵字石(大日如来の梵字が刻まれているらしい) ⑭閼伽井 ⑮稲荷森 ⑯姥神 ⑰奥ノ院 駈所には胎内潜りや三重滝のノゾキの責め・大日の影向などといわれる修験道の本義に通じた内容で吾妻信仰の枠を集めたものとされ、吾妻峯入りの本命として別に「本駈」と呼ばれる由縁であったとされています。

吾妻修験道において吾妻の「妻」とは「西方浄土」を意味していたとみられています。 一切経山の「一切経」とは一切の仏説を網羅した仏教界最高の経典を意味して、一切経山の一切の諸仏諸尊をこの聖域に招請して金剛界と胎蔵界の浄土を観念させたものが吾妻修験道になるようです。今では山名を変えてしまった薬師岳、先達山、経典ヶ森などの山名が、かつてはあったようです。

民衆が山伏の先達のもとに信仰登山が出来るようになったのは江戸時代の中期頃のようで、山開きから1ケ月の間だけ信仰登山が許されていたようです。 唐松沢はけっこう開けた場所で、気持ちよく涼むことが出来ました。

最後に隠婆菩薩様に合掌。 よく見れば奥姥神様より顔の作りは新しい感じです。

朝通った林道の橋の手間から中津川に降ります。

容易に林道の橋の下まで来ることが出来ました。

この中津川を上流まで遡り、「ヤケノママ」を経由して奥の院に至るルートが旧イワノカケハシ(磐梯)駈で、通称「地獄駈」と呼ばれていたようです。 江戸時代から修験者も定住することを義務付けられ、「山伏」と呼ばれるようになる訳ですが、吾妻信仰は平安末期の焼打ちで衰えてしまい、江戸時代に入ってから再興されました。修験者がより修験者らしかった時代は定住していなかった戦国時代までのようで、「地獄駈」は古い時代の修験道を彷彿させるルートになると思います。

千年前は超人的な修験者が遡った中津川に、何も感じとることも出来ずに引き上げました。

何とかレストハウスの営業時間中に戻って来ました。 ブヨに五ケ所も刺されてあちこちかゆいです。 持参した温度計では標高1000~1500mくらいの温度は22~24度ぐらいで、現在は27度あります。 使用した水は1400ml(食事に使用した分も含む)で約1㍑あまりました。 やはり猛暑の時期は標高1500mくらいで活動したいものです。

最後にレストハウスで胡麻ソフトを頂きました。 けっこう濃厚な味だったので全種類制覇したくなりました。

吾妻大権現も今回で完了となります。1996年版の地図を見た当時から吾妻山神社の存在は知っていましたが、実際に行くことになるとは思ってもいませんでした。 「本駈」とも呼ばれた奥の院コースは登山口までの不便さや、終始展望がないことが入山者が少ない理由になると思いますが、歴史に埋もれたこのコースに自分の足跡を残せたことは良かったと感じました。