長崎街道part1 常盤橋〜木屋瀬宿

2022.07.03(日) 日帰り

活動データ

タイム

04:26

距離

25.5km

のぼり

276m

くだり

273m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 26
休憩時間
10
距離
25.5 km
のぼり / くだり
276 / 273 m
4 26

活動詳細

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※山行記録ではありません。 今日は200座記念登山は台風の影響でお預け。 無理して登ってガスってても嫌だしね。どの道来週はほぼ雨っぽいし、お外の活動はなさそうなんで。 山は逃げないからのんびり行きましょ。 とは言っても、今日はまだ登山出来るけど新規ピークは増やせない… それならば前からやってみたかった長崎街道を歩もう!を実行に。7km/hで歩けないかなぁとか思ったけど甘かった。暑い🥵それに苦手なロード。 無理せずこんな時用のイベントと思って負けず嫌い出さないようにのんびりと。 歩く為にわざわざ始発JR乗って常盤橋まで行って、最後は歩いて家に帰るという変態っぷり。誰にもご理解頂けないでしょうねぇ笑 ま、元々ピンポイントで各地は歩いていましたが、改めて繋げてみて色々感じることありました。 ちょいちょいルート間違ってますので悪しからず。 この調子で進むと10回ぐらいに分けないといけないので、どこかで気候が良くなったらもっとロングトレイルにする予定です。 今回の写真の詳しい記録に知り得る限りのガイドを詰め込みました。写真も合わせて読んでいただけと泣いて喜びます😂 ※個人的な備忘録でもあるので、写真やコメント追記します。 春日神社、乱橋、西構口追加

 日本百名橋の常盤橋。長崎街道、中津街道、秋月街道、門司往環の起・終点。どんより空模様でスタート。
日本百名橋の常盤橋。長崎街道、中津街道、秋月街道、門司往環の起・終点。どんより空模様でスタート。
 見えにくいな
見えにくいな
 1度は行ってみて
1度は行ってみて
 復元前の橋脚
復元前の橋脚
 これが長崎街道の道標。全部撮ろうかと思ったけど、おびただしい数で5枚ぐらいで飽きる
「常盤橋〜小倉城下」
これが長崎街道の道標。全部撮ろうかと思ったけど、おびただしい数で5枚ぐらいで飽きる 「常盤橋〜小倉城下」
 道標「小倉城下〜黒崎宿」
道標「小倉城下〜黒崎宿」
 裁判所
裁判所
 清水まで外塀あったのね。ちなみに「きよみず」
清水まで外塀あったのね。ちなみに「きよみず」
 善龍寺
善龍寺
 道標色違い
道標色違い
 長崎街道よりずっと後の遺産だけど。
「九州鉄道茶屋町橋梁跡」
長崎街道よりずっと後の遺産だけど。 「九州鉄道茶屋町橋梁跡」
 説明撮ってた笑
説明撮ってた笑
 折尾の赤レンガ橋梁もしかり、芸術だよねー
折尾の赤レンガ橋梁もしかり、芸術だよねー
 結構一里塚見逃してることに気付く。うん、テキトーに行きましょー
結構一里塚見逃してることに気付く。うん、テキトーに行きましょー
 皿倉山ガスっとる
皿倉山ガスっとる
 すぐにガス晴れた🤣
すぐにガス晴れた🤣
 東田の新しく(新しくはないか)整備された遊歩道
東田の新しく(新しくはないか)整備された遊歩道
 現在が過去になっとるやんw
ちなみに長崎街道筋(筑前六宿以外は知らぬ)には細川忠興の命令により、(確かw)全て松が植林されていました。戦後の高度経済成長時に立派な地松は全て切り倒され、小倉城庭園に数本と曲里の松並木に1本を残すのみになってしまい、あとは昭和に植林された松です。
現在が過去になっとるやんw ちなみに長崎街道筋(筑前六宿以外は知らぬ)には細川忠興の命令により、(確かw)全て松が植林されていました。戦後の高度経済成長時に立派な地松は全て切り倒され、小倉城庭園に数本と曲里の松並木に1本を残すのみになってしまい、あとは昭和に植林された松です。
 この当時を歩んでみたい
この当時を歩んでみたい
 説明要らずの溶鉱炉
説明要らずの溶鉱炉
 黒崎宿に着いた!田町!
ここでY字路を右(何度も来たことある)なのに何故か左に行くバカw
黒崎宿に着いた!田町! ここでY字路を右(何度も来たことある)なのに何故か左に行くバカw
 常夜灯
常夜灯
 構口ですなー。横の城山も改めて登らないとね。
今日は勝手にピーク拾わないようにマップ切ってますw
構口ですなー。横の城山も改めて登らないとね。 今日は勝手にピーク拾わないようにマップ切ってますw
 鉤の手にするのは筑前六宿だけ?木屋瀬も内野もなっていた様な。他の街道筋どうなんだろ
鉤の手にするのは筑前六宿だけ?木屋瀬も内野もなっていた様な。他の街道筋どうなんだろ
 構口(宿場の入口)ここら一体全部遠賀郡だったのよねー。余談だけど、東区の半分から企救郡だから北九州の文化圏は真っ二つに割れます。そもそも方言が違う。みんなが知ってる北九州弁は企救郡、豊前弁。
私の住む西区や若松は遠賀郡、筑前で筑豊弁流れ。
西区はかなり北九弁と混在してるけどね。見分け方は「でたん」を使う人が東区半分から直方までの人。
直方超える筑豊では飯塚、嘉麻では使いません。
ちなみに田川は筑豊分類ですが、秋月街道流れなので、豊前の喋りのニュアンス強いです。
構口(宿場の入口)ここら一体全部遠賀郡だったのよねー。余談だけど、東区の半分から企救郡だから北九州の文化圏は真っ二つに割れます。そもそも方言が違う。みんなが知ってる北九州弁は企救郡、豊前弁。 私の住む西区や若松は遠賀郡、筑前で筑豊弁流れ。 西区はかなり北九弁と混在してるけどね。見分け方は「でたん」を使う人が東区半分から直方までの人。 直方超える筑豊では飯塚、嘉麻では使いません。 ちなみに田川は筑豊分類ですが、秋月街道流れなので、豊前の喋りのニュアンス強いです。
 引き返して構口跡
引き返して構口跡
 綺麗に整備はされているが地元の人はそんなに興味無いのが現実
綺麗に整備はされているが地元の人はそんなに興味無いのが現実
 鹿児島本線渡ってからの小さな公園。櫻屋は黒崎宿の有名な旅籠。長くなるので説明は割愛。ここに書いてあるから興味のある人は是非に
鹿児島本線渡ってからの小さな公園。櫻屋は黒崎宿の有名な旅籠。長くなるので説明は割愛。ここに書いてあるから興味のある人は是非に
 歌碑1(説明は案内板に)
歌碑1(説明は案内板に)
 歌碑2
歌碑2
 ライオンズマンション建ってる所に櫻屋あったのです。八幡西図書館が新築される時に櫻屋の当時の造りを復元した部屋があります。
ライオンズマンション建ってる所に櫻屋あったのです。八幡西図書館が新築される時に櫻屋の当時の造りを復元した部屋があります。
 人馬継所。頼むから鉢は見えるよう置いてくれよw
奥に見えるのが春日神社。黒崎祇園の宿舎が作られてる。黒崎祇園山笠は400年の歴史があり、福岡県無形民俗文化財として登録されている。あまりの荒々しさから「喧嘩山笠」の異名を持つ。私も一時期「三番」に参加させられてた笑

春日神社…寄り忘れw
人馬継所。頼むから鉢は見えるよう置いてくれよw 奥に見えるのが春日神社。黒崎祇園の宿舎が作られてる。黒崎祇園山笠は400年の歴史があり、福岡県無形民俗文化財として登録されている。あまりの荒々しさから「喧嘩山笠」の異名を持つ。私も一時期「三番」に参加させられてた笑 春日神社…寄り忘れw
 春日神社追加
春日神社追加
 長崎街道。20年前ぐらいは藤田銀天街としてアーケードもあったが、老朽化に伴い撤去。人通りも無くなった
長崎街道。20年前ぐらいは藤田銀天街としてアーケードもあったが、老朽化に伴い撤去。人通りも無くなった
 正覚寺 右にお立ちになられるは親鸞聖人
正覚寺 右にお立ちになられるは親鸞聖人
 言い忘れたが、常盤橋、小倉城下はもちろん豊前の国。黒崎宿から筑前となる。
言い忘れたが、常盤橋、小倉城下はもちろん豊前の国。黒崎宿から筑前となる。
 お代官様ぁ〜
お代官様ぁ〜
 昔を知ってるが故に、雰囲気全く変わりました
昔を知ってるが故に、雰囲気全く変わりました
 案内板
案内板
 ここはアーケードの残る熊手通り。日曜日というのもあるんだがかなり寂しくなったなぁ
ここはアーケードの残る熊手通り。日曜日というのもあるんだがかなり寂しくなったなぁ
 道標「黒崎宿」
道標「黒崎宿」
 興玉神(伊勢神宮所管)
興玉神(伊勢神宮所管)
 撮り忘れた西構口を追加
撮り忘れた西構口を追加
 乱橋追加
乱橋追加
 案内板。ここ見て乱橋と西構口撮り忘れた事に気付く笑
案内板。ここ見て乱橋と西構口撮り忘れた事に気付く笑
 私の大好きな曲里(まがり)の松並木
昔はヤンキーの溜まり場で通るとカツアゲされっぞ!とか言われてたなぁ
私の大好きな曲里(まがり)の松並木 昔はヤンキーの溜まり場で通るとカツアゲされっぞ!とか言われてたなぁ
 古街道
古街道
 案内板
案内板
 プリンスホテルがこの裏に出来た頃を思い出す。
スケートリンクがあったり、テニスコートあったり。
皇太子陛下(今の天皇陛下)がお泊まりになられ、西区の西部障がい者福祉センターにご視察に来られた事が思い出される。沿道で旗持って振ったなぁ…
プリンスホテルがこの裏に出来た頃を思い出す。 スケートリンクがあったり、テニスコートあったり。 皇太子陛下(今の天皇陛下)がお泊まりになられ、西区の西部障がい者福祉センターにご視察に来られた事が思い出される。沿道で旗持って振ったなぁ…
 さぁ、かなり飛びますがw
曲里以降は国道200号沿いをひたすら下るので特筆すべき点がないのです…
写真撮り忘れたけど、この一里塚の反対側に元そごうの会長のお家がありまして、その昔これから難所と呼ばれる石坂の急坂に向かう人や越えられた人を持て成したという立派な家屋があったのです。
国道200号の拡張工事に伴い用地され、(老朽化も進んでいた)去年かな?取り壊されました。1度は中見てみたかったなぁ。何とも残念です。
さぁ、かなり飛びますがw 曲里以降は国道200号沿いをひたすら下るので特筆すべき点がないのです… 写真撮り忘れたけど、この一里塚の反対側に元そごうの会長のお家がありまして、その昔これから難所と呼ばれる石坂の急坂に向かう人や越えられた人を持て成したという立派な家屋があったのです。 国道200号の拡張工事に伴い用地され、(老朽化も進んでいた)去年かな?取り壊されました。1度は中見てみたかったなぁ。何とも残念です。
 さ、その石坂を登って行きます
さ、その石坂を登って行きます
 峠にある立場銀杏茶屋。ここで位の上の大名行列は休息を取られたそうな。茶屋なのに中には殿様が座るような上座があり、この建物の歴史が伺える。
一般の人はここは使えなかった模様。これ以外にもここら辺には茶屋が乱立していたとのこと。
峠にある立場銀杏茶屋。ここで位の上の大名行列は休息を取られたそうな。茶屋なのに中には殿様が座るような上座があり、この建物の歴史が伺える。 一般の人はここは使えなかった模様。これ以外にもここら辺には茶屋が乱立していたとのこと。
 今でも常にボランティアの方によって解放されています
今でも常にボランティアの方によって解放されています
 見て!この圧巻の地松の梁!ヨダレが出そうです…
手前の色の違う梁と束は多分雨漏りによる腐食によって入れ換えられてます。曲った地松は希少で元口から弓なりに大きく曲がった材を使って欲しいものだが、なにぶん物がない。今では宮崎の方から地松は仕入れないといけない。しかし良い曲がりの松は今では需要がないため間伐されてもチップに加工されてしまいます。
色がマチマチなのは、右の梁の列は手前の入れ換えた塗装の梁は問題外だが、奥の梁はある程度竈の煙燻されて煤けている。左の部屋の大梁が黒光りしているのは燻されては米の磨汁で磨いたから艶が出ている。
座の上だったから手が届いたんでしょうね。
見て!この圧巻の地松の梁!ヨダレが出そうです… 手前の色の違う梁と束は多分雨漏りによる腐食によって入れ換えられてます。曲った地松は希少で元口から弓なりに大きく曲がった材を使って欲しいものだが、なにぶん物がない。今では宮崎の方から地松は仕入れないといけない。しかし良い曲がりの松は今では需要がないため間伐されてもチップに加工されてしまいます。 色がマチマチなのは、右の梁の列は手前の入れ換えた塗装の梁は問題外だが、奥の梁はある程度竈の煙燻されて煤けている。左の部屋の大梁が黒光りしているのは燻されては米の磨汁で磨いたから艶が出ている。 座の上だったから手が届いたんでしょうね。
 銀杏屋と呼ばれる所以。大きな銀杏の木があり、それは見事な大木でシンボルとされてましたが、火災に見舞われ、焼失しました。写真の右側の薄呆けた色の幹が焼けた方。左の生きてる方はその後育った幹。
銀杏屋と呼ばれる所以。大きな銀杏の木があり、それは見事な大木でシンボルとされてましたが、火災に見舞われ、焼失しました。写真の右側の薄呆けた色の幹が焼けた方。左の生きてる方はその後育った幹。
 難所と呼ばれる急登…整備され過ぎてて雰囲気もクソもないwww当時を知りたいよねぇ
難所と呼ばれる急登…整備され過ぎてて雰囲気もクソもないwww当時を知りたいよねぇ
 説明書きあり。この説明によると先程の一里塚ぐらい(小嶺インター)から登山口でかなり険しい山だったようだ。
いまではその様相を変え、当時を伺い知るのは難しい。
説明書きあり。この説明によると先程の一里塚ぐらい(小嶺インター)から登山口でかなり険しい山だったようだ。 いまではその様相を変え、当時を伺い知るのは難しい。
 書いてあるw
書いてあるw
 一里塚。そろそろ木屋瀬宿
一里塚。そろそろ木屋瀬宿
 とうちゃこ!構口撮り忘れw戻る元気なしw
とうちゃこ!構口撮り忘れw戻る元気なしw
 宿場祭の時は当時の建物解放してるので、中が見れます。かなり貴重です。
宿場祭の時は当時の建物解放してるので、中が見れます。かなり貴重です。
 郡屋 (宿場の役人や藩の役人の会合の場)
郡屋 (宿場の役人や藩の役人の会合の場)
 問屋場(荷物や馬などの預かり所)
基本宿場町は通りに面している面積で税金が定められていたので、うなぎの寝床という間口狭く奥に深い造りになってる。
問屋場(荷物や馬などの預かり所) 基本宿場町は通りに面している面積で税金が定められていたので、うなぎの寝床という間口狭く奥に深い造りになってる。
 木屋瀬座と歴史民俗資料館。ここが鉤の手。
木屋瀬座と歴史民俗資料館。ここが鉤の手。
 船庄屋(梅本家)年貢米を運ぶ権利を持つ川船を管理していた。当時の遠賀川はよく氾濫し、浸水するのは日常茶飯事だったと。中の仕組みが凄くて吹き抜けの2階に司令部みたいな所があって、氾濫した時は滑車で重要書類を吊り上げるというギミックがあるw
昭和10年ぐらいまで醤油醸造も営んでいた。
余談ですが、遠賀川の氾濫が緩和されたのは炭鉱王の伊藤伝右衛門や麻生家などの有力者が私財を投じて曲がりくねった遠賀川をなるべく真っ直ぐになるように治水工事をしたからである。
今ではポンプ場の整備も進み、氾濫したのは昭和中期が最後ではないだろうか。今でも大雨が降ると警報や警戒令が発せられるが、この所は平和そのものである。地域の諸先輩に聞いた話では越水するのは鞍手側からなので北九州側は大丈夫だそうだwww
船庄屋(梅本家)年貢米を運ぶ権利を持つ川船を管理していた。当時の遠賀川はよく氾濫し、浸水するのは日常茶飯事だったと。中の仕組みが凄くて吹き抜けの2階に司令部みたいな所があって、氾濫した時は滑車で重要書類を吊り上げるというギミックがあるw 昭和10年ぐらいまで醤油醸造も営んでいた。 余談ですが、遠賀川の氾濫が緩和されたのは炭鉱王の伊藤伝右衛門や麻生家などの有力者が私財を投じて曲がりくねった遠賀川をなるべく真っ直ぐになるように治水工事をしたからである。 今ではポンプ場の整備も進み、氾濫したのは昭和中期が最後ではないだろうか。今でも大雨が降ると警報や警戒令が発せられるが、この所は平和そのものである。地域の諸先輩に聞いた話では越水するのは鞍手側からなので北九州側は大丈夫だそうだwww
 旧高崎家住宅(伊馬春部邸) 当時の豪商の家。
放送作家として活躍した伊馬春部(本名:高崎英雄、1908年~1984年)の生家。ここの2階の船底天井は美しい。雨戸のギミックも好き。ここでは書ききれないけど、1度は見る価値あり。
ちなみに伊馬春部の孫にあたる高崎さんとは友達。
東京在住で1度も来たことないんだとwww
旧高崎家住宅(伊馬春部邸) 当時の豪商の家。 放送作家として活躍した伊馬春部(本名:高崎英雄、1908年~1984年)の生家。ここの2階の船底天井は美しい。雨戸のギミックも好き。ここでは書ききれないけど、1度は見る価値あり。 ちなみに伊馬春部の孫にあたる高崎さんとは友達。 東京在住で1度も来たことないんだとwww
 追分道標。これ自体は新しい。左は至飯塚宿の長崎街道。右は渡し舟にて渡渉し、赤間方面に至る。唐津街道へと。
追分道標。これ自体は新しい。左は至飯塚宿の長崎街道。右は渡し舟にて渡渉し、赤間方面に至る。唐津街道へと。
 こっちに、書いてあったw
こっちに、書いてあったw
 東構口。当時の石積みらしいが、積み直したと聞いたw
東構口。当時の石積みらしいが、積み直したと聞いたw
 確か事故で突っ込んだと聞いたようなw
確か事故で突っ込んだと聞いたようなw
 庄屋跡。ここは詳しこと知らぬw
庄屋跡。ここは詳しこと知らぬw
 魅力たっぷりの長崎街道はいかがだったでしょうか?
私の記憶を基に書いているので、間違いなどあることはご了承ください。むしろ詳しい方居られればお教え頂けると幸いです。次回は木屋瀬宿〜内野宿辺りまで歩いて書けたらなぁと思ってます。
あと一緒に歩いてみたい方募集です。知り得る限りガイドします笑笑
では、今回は山行ではない記録をお読み頂きありがとうございました。しーゆー👋
魅力たっぷりの長崎街道はいかがだったでしょうか? 私の記憶を基に書いているので、間違いなどあることはご了承ください。むしろ詳しい方居られればお教え頂けると幸いです。次回は木屋瀬宿〜内野宿辺りまで歩いて書けたらなぁと思ってます。 あと一緒に歩いてみたい方募集です。知り得る限りガイドします笑笑 では、今回は山行ではない記録をお読み頂きありがとうございました。しーゆー👋

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