絶景の宝庫!和歌の浦! 藩主も惚れ込んだと言われている和歌の浦の絶景!

2022.05.01(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 57
休憩時間
43
距離
12.2 km
のぼり / くだり
509 / 509 m
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活動詳細

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子供の頃に釣りでよく行った和歌の浦エリアを歩いて来ました!まさか、こんなにピークが潜んでいるとは!(笑) 【順序】 ①名草山→紀三井寺→(徒歩移動)②妹背山→③鏡山→④奠供山→⑤権現山→⑥天神山→⑦章魚頭姿山(たこずしやま)→(バス移動) 標高は低いけど、眺望は抜群です! ぜひ、行ってみてください! ウィキペディアより 名草山 山の中腹には西国三十三所第2番札所である紀三井寺がある。 名水もあり、湧水である三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)は、「名水百選」に選ばれている。 海南市方面から遠望すると、漢字の山に見える。 内原側から登ると乃木希典の石碑を見ることができる。 妹背山 妹背山(いもせやま)または妹背の山(いもせのやま)は日本の山の名前。全国各地の川を挟んで相対する一対の山を男女に例え、それぞれ妹山(いもやま)と背山/兄山/勢能山(せやま・せのやま)と命名し、その総称を指すことが多い。特に紀の川(吉野川)の両岸にある妹背山は、歌枕として『万葉集』(十五首)『古今和歌集』などに歌われるため、知名度が高い 鏡山 鏡山は和歌山県和歌山市和歌浦にある小さな山。 塩竃神社の背後の山で、石の階段を上っていった先、山頂からは和歌の浦が一望できます。 奠供山 神亀元年(724年)2月4日に即位した聖武天皇は、同年10月8日に和歌浦へ行幸して14日間滞在した際、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る、故に弱浜(わかはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)と為せ、宜しくし守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ、春秋二時官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せよ」という詔を発した。聖武天皇は和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じたのである。『紀伊国名所図会』では奠供山を伽羅山とし、東に続く現在の雲蓋山を天狗山としているが、『紀伊続風土記』では「神亀元年御幸の時、登山望海此間最好と、詔し給ふは即此山なり」として、奠供山を詔が発せられた場所であるとしている。 天平神護元年(765年)10月の称徳天皇行幸の際には、南浜に「望海楼」が営まれ7日間滞在したとされているが、江戸時代後期の儒学者仁井田好古は「望海楼」を奠供山の南麓の市町にあったものとし、好古の撰文になる望海楼遺址碑(和歌山市指定文化財)にはそのことが刻まれている。望海楼遺址碑は、元は奠供山麓の市町川沿いに建てられていたが、現在は鄭供山山頂に置かれている。玉津島神社蔵の慶応3年(1867年)改刻の玉津島神社略記添付の「和歌浦玉出嶋社之圖」には、天保2年(1831年)~3年(1832年)に奠供山上に建てられたと考えられる拝所が描かれている。 章魚頭姿山 章魚頭姿山(たこずしやま)と言っても和歌山市内の地元の方でも知る方は少ない、新和歌浦にある高津子山のことです。 この山は古い地元の猟師さんに言わせるとモット頭が尖った山で尾根がハッキリしていたそうなこの山に南海電鉄株式会社がケーブルカーと回転展望台を設置して観光施設にした時に高津子山(たかつしやま)と山名を変更したのではないかと地元の方の弁、現在はその施設は廃止され展望塔が南海電鉄の手で作られている。 瀬戸内海国立公園内にありこの山頂からの景色は本当に素晴らしい この章魚頭姿山(高津子山)を含むこの半島の山域を県立和歌公園として整備されているこの公園内には3っの山がある。権現山に天神山、そして章魚頭姿山だ。 和歌の浦 古く和歌に名を残す絶景の地 神亀元年(724)、聖武天皇の行幸に従った宮廷歌人の山部赤人は、和歌の浦と玉津島の神々しい美しさを讃え、潮の満ち引きに躍動する大自然の風景をダイナミックに歌に詠み込んだ。 「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る」山部赤人(万葉集巻6 九一九) (意訳)和歌の浦に潮が満ちると、干潟が無くなるので、葦辺を目指して、鶴が鳴きながら飛んでゆくよ 以降、和歌の浦は聖地となる。玉津島には和歌の神が祀られて、歌人の憧れの地となり、多くの和歌に詠われるようになる。 江戸時代の絵師・桑山玉州は、万葉集や新古今和歌集に詠われた情景を実際の風景に融合させ、その風雅な様子をみごとに表現した。 その景色は『和歌浦十景』とよばれ、山部赤人の歌にある、和歌浦の干潟の葦辺に鶴が鳴き渡る様子は「蘆州鳴鶴(ろしゅうめいかく)」、紀三井寺の伽藍を抱く名草山が、干潟の満潮時に夕日に映える様子は「名草晩潮(なぐさばんちょう)」、和歌浦天満宮を祀る天神山から干潟を見下ろし、松林の間に釣り船が見え隠れする様子を「松間釣舟(しょうかんちょうしゅう)」。 有間皇子が悲劇の最期を遂げた藤白坂の、紅葉の峠越しに見る和歌の浦の眺めは「藤白落葉(ふじしろらくよう)」として絵になる景色を教えてくれる。 紀三井寺 寺号は金剛宝寺と称し、宗教法人としての公称は護国院であるが、古くから紀三井寺の名で知られる。楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。宗派としては真言宗山階派に属していたが、1951年(昭和26年)に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6か寺および末寺14か寺を包括する。 寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める。 山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。 これらの水槽は紀州藩主徳川頼宣の命により設けられたものである。 また、三井水は1922年(大正11年)に昭和天皇が和歌浦に投宿した際に調理用水として献上されたほか、1985年(昭和60年)3月に環境庁(現、環境省)が選定した「名水百選」に選ばれている[4]。境内は観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれている。 また、本堂向かって左の桜の木が和歌山地方気象台のソメイヨシノの標本木に指定されており、近畿地方では最も早く開花することが通例であることから、「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られている。

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