北村戸隠神社〜三角点山古墳群〜競馬道古墳群〜須川城跡〜北村城跡

2022.04.08(金) 日帰り

活動データ

タイム

08:49

距離

29.7km

のぼり

1318m

くだり

1342m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
8 時間 49
休憩時間
19
距離
29.7 km
のぼり / くだり
1318 / 1342 m

活動詳細

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奈良市(東エリア) 唐臼の壺二尊石仏(1343)。阿弥陀銘文「康永二年癸未三月十五日願主恒性」。地蔵銘文「康永二年癸未三月廿四日願主勝珍」
唐臼の壺二尊石仏(1343)。阿弥陀銘文「康永二年癸未三月十五日願主恒性」。地蔵銘文「康永二年癸未三月廿四日願主勝珍」
奈良市(東エリア) 一鍬地蔵磨崖仏(鎌倉中期)
一鍬地蔵磨崖仏(鎌倉中期)
奈良市(東エリア) 内ノ倉不動明王石仏(1334年1月4日)。「建武元年甲戌」
内ノ倉不動明王石仏(1334年1月4日)。「建武元年甲戌」
奈良市(東エリア) 内ノ倉不動明王。剣を掲げるお不動さんの姿が見えるでしょうか。
内ノ倉不動明王。剣を掲げるお不動さんの姿が見えるでしょうか。
奈良市(東エリア) 「建武元」は読めそうです。
「建武元」は読めそうです。
奈良市(東エリア) 笑い仏(1299)。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧□□/大工末行」
笑い仏(1299)。「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧□□/大工末行」
奈良市(東エリア) ミロクの辻弥勒磨崖仏(1274)。「願以此功徳/普及於一切/我等与衆生/皆共成仏道 」「文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
ミロクの辻弥勒磨崖仏(1274)。「願以此功徳/普及於一切/我等与衆生/皆共成仏道 」「文永十一年甲戌二月五日/為慈父上生永清造之大工末行」
奈良市(東エリア) 北村町戸隠神社。

下記動画では戸隠神社と神社西側の尾根にある宮山古墳との位置関係がわかりやすいです。

https://www.youtube.com/watch?v=bTsAgpFKUTg
北村町戸隠神社。 下記動画では戸隠神社と神社西側の尾根にある宮山古墳との位置関係がわかりやすいです。 https://www.youtube.com/watch?v=bTsAgpFKUTg
奈良市(東エリア) 北村町戸隠神社水船。古墳の石棺ともいわれます。
北村町戸隠神社水船。古墳の石棺ともいわれます。
奈良市(東エリア) 宮山第2号墳の頂上にはしめ縄がかかっていました。東里村史によると「橿原神宮遥拝所」とのことですが、あるいは明治より前からあった何らかの信仰の名残かもしれないと思います。
宮山第2号墳の頂上にはしめ縄がかかっていました。東里村史によると「橿原神宮遥拝所」とのことですが、あるいは明治より前からあった何らかの信仰の名残かもしれないと思います。
奈良市(東エリア) 宮山第1号墳は横穴式石室が南南西側でわずかに開口しています。宮山第1号墳は、通称「神武さん」と呼ばれているとのこと。
宮山第1号墳は横穴式石室が南南西側でわずかに開口しています。宮山第1号墳は、通称「神武さん」と呼ばれているとのこと。
奈良市(東エリア) 神宮寺。明治7(1874)年に旧須川村の丸尾寺、薬師寺、妙蓮寺、羽林寺、神宮寺を廃し、もと羽林寺の合った現在地に統合して、神宮寺とされました。元の神宮寺は須川町戸隠神社の隣、現在須川町公民館がある場所にあり、僧侶が戸隠神社の守護を兼ねていたと言います。山門は忍辱山円成寺の横門を移したもの。
神宮寺。明治7(1874)年に旧須川村の丸尾寺、薬師寺、妙蓮寺、羽林寺、神宮寺を廃し、もと羽林寺の合った現在地に統合して、神宮寺とされました。元の神宮寺は須川町戸隠神社の隣、現在須川町公民館がある場所にあり、僧侶が戸隠神社の守護を兼ねていたと言います。山門は忍辱山円成寺の横門を移したもの。
奈良市(東エリア) 神宮寺の石造物。阿弥陀如来像「天文十年(1541)辛虎/十月十五日」。焼辻(ヤケンツジ)から移したものだそうですが、焼辻がどこかわかりません😅。
神宮寺の石造物。阿弥陀如来像「天文十年(1541)辛虎/十月十五日」。焼辻(ヤケンツジ)から移したものだそうですが、焼辻がどこかわかりません😅。
奈良市(東エリア) 宝篋印塔(鎌倉)。笠上部に屋根型を作る形式の塔は、奈良県でのみ四例確認されており、そのうち吉野町薬師寺塔に建治四年(1278)の銘があることから、この頃大和国に限りこの形式の宝篋印塔が造立されたようです。(「奈良県史 第七巻 石造美術」1984、293頁)

須川ダム南東の山際にある妙蓮寺跡の畑の中に半ば埋もれていたものを移したものとのこと(「東里村史」1957、380頁)。
宝篋印塔(鎌倉)。笠上部に屋根型を作る形式の塔は、奈良県でのみ四例確認されており、そのうち吉野町薬師寺塔に建治四年(1278)の銘があることから、この頃大和国に限りこの形式の宝篋印塔が造立されたようです。(「奈良県史 第七巻 石造美術」1984、293頁) 須川ダム南東の山際にある妙蓮寺跡の畑の中に半ば埋もれていたものを移したものとのこと(「東里村史」1957、380頁)。
奈良市(東エリア) 神宮寺下の地蔵磨崖仏。
神宮寺下の地蔵磨崖仏。
奈良市(東エリア) 県道から神宮寺に登っていく道の入り口付近に地蔵磨崖仏がありました。
県道から神宮寺に登っていく道の入り口付近に地蔵磨崖仏がありました。
奈良市(東エリア) 須川から大柳生に抜ける山道。途中、大柳生上脇垣内の勧請縄が設置される場所があることからわかるとおり、古くからある街道です。
須川から大柳生に抜ける山道。途中、大柳生上脇垣内の勧請縄が設置される場所があることからわかるとおり、古くからある街道です。
奈良市(東エリア) 何やら新しい風習が生まれている様子。
何やら新しい風習が生まれている様子。
奈良市(東エリア) 須川から大柳生の間には、たくさんの古墳があります。
須川から大柳生の間には、たくさんの古墳があります。
奈良市(東エリア) 三角山第8号墳。横穴式石室の入り口が見えます。
三角山第8号墳。横穴式石室の入り口が見えます。
奈良市(東エリア) 三角山第8号墳。横穴式石室の中。
三角山第8号墳。横穴式石室の中。
奈良市(東エリア) 三角山第8号墳。
三角山第8号墳。
奈良市(東エリア) 三角山第8号墳。横穴式石室の天井が崩れていました。
三角山第8号墳。横穴式石室の天井が崩れていました。
奈良市(東エリア) 三角山第3号墳。内部は崩落していますが横穴式石室の入り口が開いていました。
三角山第3号墳。内部は崩落していますが横穴式石室の入り口が開いていました。
奈良市(東エリア) 三角点山三角点。362.2m。
三角点山三角点。362.2m。
奈良市(東エリア) 三角山三角点があるところが、三角点山第1号墳です😅。
三角山三角点があるところが、三角点山第1号墳です😅。
奈良市(東エリア) 上脇垣内の勧請縄。
上脇垣内の勧請縄。
奈良市(東エリア) このところの陽気でヘビが出てきていました。
このところの陽気でヘビが出てきていました。
奈良市(東エリア) 競馬道第1号墳。

動画でもどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=gwziOKwJcl0
競馬道第1号墳。 動画でもどうぞ。 https://www.youtube.com/watch?v=gwziOKwJcl0
奈良市(東エリア) 競馬道第1号墳は前方後円墳です。後円部から前方部を眺めたところです。
競馬道第1号墳は前方後円墳です。後円部から前方部を眺めたところです。
奈良市(東エリア) 競馬道第2号墳。
競馬道第2号墳。
奈良市(東エリア) 競馬道第2号墳。横穴式石室の入り口が大きく開口していますが、玄室は崩落しており、円墳の頂上が陥没しています。
競馬道第2号墳。横穴式石室の入り口が大きく開口していますが、玄室は崩落しており、円墳の頂上が陥没しています。
奈良市(東エリア) 尾根道を辿っていくと、旧興東中学校(現在は奈良市役所東部出張所)に出ました。もしかすると、昔の大柳生の中学生はこの道を歩いて通学していたかもしれませんね。
尾根道を辿っていくと、旧興東中学校(現在は奈良市役所東部出張所)に出ました。もしかすると、昔の大柳生の中学生はこの道を歩いて通学していたかもしれませんね。
奈良市(東エリア) 須川城(高觴城)跡。須川と大柳生の境にある鉄塔のそばに、簀川内膳之助義正の城で「高觴(たかつき)城」と呼ばれていたと伝わる須川城跡があります。

城跡の北東の角は、鉄塔建設工事で一部破壊されましたが、山頂部に30〜40m四方ほどのほぼ正方形の平坦地が造成されており、四方を土塁が囲んでいます。
須川城(高觴城)跡。須川と大柳生の境にある鉄塔のそばに、簀川内膳之助義正の城で「高觴(たかつき)城」と呼ばれていたと伝わる須川城跡があります。 城跡の北東の角は、鉄塔建設工事で一部破壊されましたが、山頂部に30〜40m四方ほどのほぼ正方形の平坦地が造成されており、四方を土塁が囲んでいます。
奈良市(東エリア) 鉄塔の保守路から須川城を見上げたところ。
鉄塔の保守路から須川城を見上げたところ。
奈良市(東エリア) 須川城跡の郭をぐるりと土塁が囲んでいます。

動画でもどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=oJR0XCmu4kE
須川城跡の郭をぐるりと土塁が囲んでいます。 動画でもどうぞ。 https://www.youtube.com/watch?v=oJR0XCmu4kE
奈良市(東エリア) 須川城跡の郭をぐるりと土塁が囲んでいます。
須川城跡の郭をぐるりと土塁が囲んでいます。
奈良市(東エリア) 須川へ降りていく道が笹藪で通れなくなっていたので、道のない尾根を降り、途中から須川へ通じる道に出ました。どこまで登れるか行けるところまで行ってみましたが、やはり笹藪密生地帯に出て、道がわからなくなりました。

仕方がないので、須川へ降りていくと、途中に小さなお社がありました。大きな倒木が直撃し、鉄製の覆屋が半壊していました。倒木の根本辺りに道があり、かつてはこのお社がある谷に無数の棚田が営まれていたようです。

お社の花立に、枯れ枝が残っていました。もう何年も人が来ていないのかもしれません。
須川へ降りていく道が笹藪で通れなくなっていたので、道のない尾根を降り、途中から須川へ通じる道に出ました。どこまで登れるか行けるところまで行ってみましたが、やはり笹藪密生地帯に出て、道がわからなくなりました。 仕方がないので、須川へ降りていくと、途中に小さなお社がありました。大きな倒木が直撃し、鉄製の覆屋が半壊していました。倒木の根本辺りに道があり、かつてはこのお社がある谷に無数の棚田が営まれていたようです。 お社の花立に、枯れ枝が残っていました。もう何年も人が来ていないのかもしれません。
奈良市(東エリア) 須川ダムのダム湖の周りにたくさんの桜が咲いていました。
須川ダムのダム湖の周りにたくさんの桜が咲いていました。
奈良市(東エリア) 五人切磨崖碑の桜並木。
五人切磨崖碑の桜並木。
奈良市(東エリア) 五人切磨崖碑。磨崖五輪塔。間外地蔵菩薩。磨崖大乗妙典供養碑(1584)「天正十二年甲/(キリーク) 奉大乗妙典三千部供養/三月廿二六日仙眼□□」。磨崖六字名号碑「天正十二年 西念 道円/西乗 西入/道味/南無阿弥陀佛(蓮台)/四月八日」(「奈良県史 第七巻 石造美術」1984、294-295頁)
五人切磨崖碑。磨崖五輪塔。間外地蔵菩薩。磨崖大乗妙典供養碑(1584)「天正十二年甲/(キリーク) 奉大乗妙典三千部供養/三月廿二六日仙眼□□」。磨崖六字名号碑「天正十二年 西念 道円/西乗 西入/道味/南無阿弥陀佛(蓮台)/四月八日」(「奈良県史 第七巻 石造美術」1984、294-295頁)
奈良市(東エリア) 古い道を辿ってみました。
古い道を辿ってみました。
奈良市(東エリア) 笹藪地帯にも道の痕跡はありましたが、ここを快適に通れるようにするのは大変そうです。
笹藪地帯にも道の痕跡はありましたが、ここを快適に通れるようにするのは大変そうです。
奈良市(東エリア) 針葉樹の林の中は、割としっかり道が残っています。
針葉樹の林の中は、割としっかり道が残っています。
奈良市(東エリア) 北村城跡・北村城西出城跡縄張り図。北村城跡縄張り図の作図にあたっては、踏査に加え、「奈良市史 通史二」520頁の縄張り図を参考にしました。北村城南東の腰曲輪については、侵入が憚られる状況だったため確認していません。
北村城跡・北村城西出城跡縄張り図。北村城跡縄張り図の作図にあたっては、踏査に加え、「奈良市史 通史二」520頁の縄張り図を参考にしました。北村城南東の腰曲輪については、侵入が憚られる状況だったため確認していません。
奈良市(東エリア) 慶應2(1866)年「和州郷士記書抜」に、狭川氏は讃岐国出身であり、初めは北村に住み、その場所を「讃岐山」というと書かれているとのことです(島津俊之「奈良東山中「新西国三十三所」と村落間結合」1990年12月 http://hist-geo.jp/img/archive/151_001.pdf )が、明治22(1889)年の北村実測全図を見ると、確かに「城山」の東に「サヌキ」という字が書かれています。

ということは北村城は、讃岐から移ってきた狭川氏が、この地で最初に築いた城館なのかもしれません。
慶應2(1866)年「和州郷士記書抜」に、狭川氏は讃岐国出身であり、初めは北村に住み、その場所を「讃岐山」というと書かれているとのことです(島津俊之「奈良東山中「新西国三十三所」と村落間結合」1990年12月 http://hist-geo.jp/img/archive/151_001.pdf )が、明治22(1889)年の北村実測全図を見ると、確かに「城山」の東に「サヌキ」という字が書かれています。 ということは北村城は、讃岐から移ってきた狭川氏が、この地で最初に築いた城館なのかもしれません。
奈良市(東エリア) 南東角の空堀が深くて見応えがありました。
南東角の空堀が深くて見応えがありました。
奈良市(東エリア) 北村城北側。
北村城北側。
奈良市(東エリア) 北村城西出城跡?の空堀。道かと思って辿ってみたところ、一周回ってしまいました。
北村城西出城跡?の空堀。道かと思って辿ってみたところ、一周回ってしまいました。
奈良市(東エリア) 空堀らしきものに囲まれた中央部は一段高くなっており、上面は平坦に造成されていました。もしかすると山城跡かもしれません。
空堀らしきものに囲まれた中央部は一段高くなっており、上面は平坦に造成されていました。もしかすると山城跡かもしれません。

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