旧柳生街道本道探検〜狭川から加茂へ抜ける道探検

2022.03.08(火) 日帰り

活動データ

タイム

08:32

距離

35.9km

のぼり

1737m

くだり

1794m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
8 時間 32
休憩時間
0
距離
35.9 km
のぼり / くだり
1737 / 1794 m
2
3
28
17
2 31
1 48
56

活動詳細

すべて見る

*旧柳生街道探検 太田古朴「石仏柳生街道」綜芸舎, 1968, p3に、次のように書かれています。 「さて、柳生路、奈良道と言うが、それがどこを通り、どれからどこまでをいうのか定説がなかった。本書では、興福寺を起点として、春日大社、滝坂、石切峠、誓多林、忍辱山、大柳生、柳生を経過して、笠置寺に達するまでの街道を「旧柳生街道」と呼ぶ。しかし忍辱山円成寺の南辺には三筋の道路があり、最短路線を中央道、円成寺墓地を通るのを北道、柳生から奈良へは少々遠回りになるが坂道のない誓多林を通る道を南道という。」 太田古朴氏は、上出阿弥陀磨崖仏が「旧柳生街道」の道標の役割も果たしていたとして、上出阿弥陀磨崖仏の前の道が「旧柳生街道」と特定できたとしました。そこで今回実際に、太田古朴氏の言う「中央道」を歩いて、そこがどんな道なのか体感してきました。 太田古朴氏のいう「北道」である東海自然歩道から離れ、尾根を斜めに降りていくと、放棄田の谷に出ました。そして谷の北側を東に少し進み、その谷が別の谷と合わさるあたりで、谷の南側に渡ると、谷の南側の山林には、幅2〜3mほどの道がずっと続いていて、途中、谷が狭まり道と小川が接するところに、大きな石で石畳が作られていました。ちょうど滝坂の道とよく似た石畳です。その後、農道に出ますが、そこからは整備された歩きやすい道でした。 農道を東へ歩いていくとやがて谷が狭まり、放棄田がなくなりました。そのあたりで、農道から古い道が分岐していました。倒木が多く荒れてはいるものの、その古い道も、やはり2〜3mほどの幅が保たれていました。 古い道は尾根の南側を巻いて、尾根の反対側(東側)に出られるようになっており、尾根の反対側には、上出阿弥陀磨崖仏へ下る道の分岐がありました。その分岐のあるあたりには、棚田の跡が広がっていて、分岐から少し下ったところに石がたくさん散らばった平坦地もありました。石が多いということはそこが田畑だったとはあまり思われせん。かつてはそこに人家があった可能性もあります。また、分岐があるあたりは、柳生側から来た場合、ちょうど登り坂を上り切った場所に当たります。あるいはその平坦地のあたりで茶店が営まれていたかもしれません。 東海自然歩道から分かれ、尾根を斜めに降って谷底に出てから、上出阿弥陀磨崖仏への分岐まで、道は谷に沿って緩やかに降るだけで、ほとんど起伏がなく、ぐねぐねと曲がるところもありませんでした。こちらの道の方が、「北道」すなわち東海自然歩道よりも起伏がなく、経路としても最短で、旧笠置街道の本道にふさわしいように感じました。 そこから先、上出阿弥陀磨崖仏へ下る道は、幅が3mほどもある山道で、長い年月人や牛馬が歩いたからでしょうか、堀のように道が深く窪んでいました。一箇所地滑りにより谷筋で道が寸断されていましたが、谷筋の向こう側に渡る獣道があり、さほど危険はありませんでした。 山を下るとその先は、笹藪と化した放棄田でした。しかし誰かが草刈りして道のようなものが作られていました。そこを少し入っていくと、水路のようなところに降りていきました。その地面には石畳のように石が散らばっていました。もしかすると、そこは水路ではなく、そここそが旧柳生街道だったかもしれません。篠竹をかき分け、白砂川の川べりまで辿り着くと、篠竹越しに、対岸にある上出阿弥陀磨崖仏が正面に見えました。かつてはここに橋があり、川を渡れたのだろうと思います。上出阿弥陀磨崖仏は橋のたもとにあって、旧柳生街道を行く旅人を見守っていたことでしょう。 *狭川から加茂町山田へ抜ける道探検 どうも地理院地図と違うところに道があるように思ったので、地理院地図と比較しながら歩きました。 前回は放棄田沿いに山を登りましたが、高圧電線の鉄塔がある尾根筋にも道がありました。しかしそこから先は、前回の道以外に道はありませんでした。地理院地図にある道は、狭い谷に作られた棚田沿いにあったのではないかと思います。 現在は棚田が放棄され、谷川の水によってあちこち崩落しているため、道が完全になくなっていました。それにしてもこんな山奥の狭い谷にまで棚田になっていたとは、昔の人の努力には驚かされますね😅。 ブログ記事 https://mirokunomichi.org/voyages/2022030800/1.shtml

奈良市(東エリア) 明治25年(1892)測量の柳生村2万分の1地図。上出阿弥陀磨崖仏の南、白砂川の上流500mほどのところにある橋が描かれていません。一方、上出阿弥陀磨崖仏の前に、現在は存在しない橋が描かれています。太田古朴氏は、現在存在している白砂川上流の橋を渡る道筋が旧柳生街道だと考えていたようですが、上出阿弥陀磨崖仏の前にあった橋を渡るのが旧柳生街道だろうと思います。
明治25年(1892)測量の柳生村2万分の1地図。上出阿弥陀磨崖仏の南、白砂川の上流500mほどのところにある橋が描かれていません。一方、上出阿弥陀磨崖仏の前に、現在は存在しない橋が描かれています。太田古朴氏は、現在存在している白砂川上流の橋を渡る道筋が旧柳生街道だと考えていたようですが、上出阿弥陀磨崖仏の前にあった橋を渡るのが旧柳生街道だろうと思います。
奈良市(東エリア) こちらは昭和24年(1949)に製図された忍辱山町の地図です。ただ製図当時の現地と整合しないため、明治期に作られた地図を写したものである可能性が高いように思います。

この地図でははっきりと、上出阿弥陀磨崖仏の前に橋が描かれています。一方、現在存在している白砂川上流の橋はなく、上出阿弥陀磨崖仏から南の白砂川東岸には道が続いていません。
こちらは昭和24年(1949)に製図された忍辱山町の地図です。ただ製図当時の現地と整合しないため、明治期に作られた地図を写したものである可能性が高いように思います。 この地図でははっきりと、上出阿弥陀磨崖仏の前に橋が描かれています。一方、現在存在している白砂川上流の橋はなく、上出阿弥陀磨崖仏から南の白砂川東岸には道が続いていません。
奈良市(東エリア) 国土地理院の1970年代の上出阿弥陀磨崖仏付近の航空写真。旧柳生街道が山から下るあたりに棚田のような草地が写っています。
国土地理院の1970年代の上出阿弥陀磨崖仏付近の航空写真。旧柳生街道が山から下るあたりに棚田のような草地が写っています。
奈良市(東エリア) ここからは今回歩いた途中で撮った写真です。

中ノ川町辻堂地蔵石仏(永正十四年(1517))。「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓/永正十四年丁丑六月廿四日」とあり、慶円という人が、生前に死後の幸福を願って、遡って修めた石仏です。
ここからは今回歩いた途中で撮った写真です。 中ノ川町辻堂地蔵石仏(永正十四年(1517))。「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓/永正十四年丁丑六月廿四日」とあり、慶円という人が、生前に死後の幸福を願って、遡って修めた石仏です。
奈良市(東エリア) 中ノ川南墓地、地蔵石仏(大永四年(1524))。ここには石仏の他供養碑などがあります。墓地とのことですが、今は墓地として使われていないように思います。

右手の小指を立ててらっしゃいます。

「大永四稔甲申三月廿四日観実観圓議春圓観慶圓識賢圓禅三郎四郎」とあり、辻堂地蔵石仏の慶円の名前も見えます。
中ノ川南墓地、地蔵石仏(大永四年(1524))。ここには石仏の他供養碑などがあります。墓地とのことですが、今は墓地として使われていないように思います。 右手の小指を立ててらっしゃいます。 「大永四稔甲申三月廿四日観実観圓議春圓観慶圓識賢圓禅三郎四郎」とあり、辻堂地蔵石仏の慶円の名前も見えます。
奈良市(東エリア) 中ノ川町役行者像残欠。
中ノ川町役行者像残欠。
奈良市(東エリア) 梵字石。道の岩の道に面した側の中央付近に、阿弥陀如来を意味するキリークが刻まれています。
梵字石。道の岩の道に面した側の中央付近に、阿弥陀如来を意味するキリークが刻まれています。
奈良市(東エリア) 梵字石から茶畑に登っていく道。広葉樹の森が気持ちいいです。
梵字石から茶畑に登っていく道。広葉樹の森が気持ちいいです。
奈良市(東エリア) 茶畑の北西隅に出てきます。
茶畑の北西隅に出てきます。
奈良市(東エリア) 茶畑を少し入ると生駒山方向の眺望がひらけました。
茶畑を少し入ると生駒山方向の眺望がひらけました。
奈良市(東エリア) 鹿害防護柵沿いの人工林を進みます。
鹿害防護柵沿いの人工林を進みます。
奈良市(東エリア) ここにも芳山への登山口があるのですが、意外と知られていませんね。一応リボンなどがあります。
ここにも芳山への登山口があるのですが、意外と知られていませんね。一応リボンなどがあります。
奈良市(東エリア) 見落としがちな笠石仏(南北朝時代)。左上の斜面の上にいらっしゃいます。
見落としがちな笠石仏(南北朝時代)。左上の斜面の上にいらっしゃいます。
奈良市(東エリア) 今はしっかり立っておられますが、10年前は後ろに倒れていたそうです。

https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/ba7b5ff46768d909d0c2a993e33e58fb
今はしっかり立っておられますが、10年前は後ろに倒れていたそうです。 https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/ba7b5ff46768d909d0c2a993e33e58fb
奈良市(東エリア) ここから東海自然歩道を離れ、右の道を歩きました。
ここから東海自然歩道を離れ、右の道を歩きました。
奈良市(東エリア) 荒れてはいるものの、道幅が広く、道は明瞭でした。
荒れてはいるものの、道幅が広く、道は明瞭でした。
奈良市(東エリア) しかし谷への出口が笹藪に覆われていました。
しかし谷への出口が笹藪に覆われていました。
奈良市(東エリア) 笹藪をかき分けると、放棄田沿いの道に出ました。放棄田沿いの道は草刈りされていました。林業か何かで道を使う必要があり、草刈りをされたものと思います。もし草刈りされていないと、なかなかハードな藪漕ぎが必要となりそうです。
笹藪をかき分けると、放棄田沿いの道に出ました。放棄田沿いの道は草刈りされていました。林業か何かで道を使う必要があり、草刈りをされたものと思います。もし草刈りされていないと、なかなかハードな藪漕ぎが必要となりそうです。
奈良市(東エリア) 谷底は放棄田が連なっていました。
谷底は放棄田が連なっていました。
奈良市(東エリア) ここを谷の向こう(南側)に渡ると道があります。
ここを谷の向こう(南側)に渡ると道があります。
奈良市(東エリア) 小川を渡ります。
小川を渡ります。
奈良市(東エリア) 谷の南側には幅2-3mの道がずっと続いていました。
谷の南側には幅2-3mの道がずっと続いていました。
奈良市(東エリア) 谷が狭まり小川と道が接するところに大きな石を使った石畳がありました。
谷が狭まり小川と道が接するところに大きな石を使った石畳がありました。
奈良市(東エリア) 滝坂の道とよく似た石畳です。この石畳は、この道が旧柳生街道本道であったことを示していると思います。
滝坂の道とよく似た石畳です。この石畳は、この道が旧柳生街道本道であったことを示していると思います。
奈良市(東エリア) 農道・林道から先も2-3mの道幅が保たれていました。
農道・林道から先も2-3mの道幅が保たれていました。
奈良市(東エリア) 路上に、見るからに怪しい石が落ちていたので、ひっくり返してみると。。。

(この写真はすでにひっくり返した後です。最初は尖った方を右にしてうつ伏せ状態で倒れていました。ひっくり返して、なんとか道の端に寄せようとしたのですが、重すぎてこれ以上動かすのを断念しました。。。)
路上に、見るからに怪しい石が落ちていたので、ひっくり返してみると。。。 (この写真はすでにひっくり返した後です。最初は尖った方を右にしてうつ伏せ状態で倒れていました。ひっくり返して、なんとか道の端に寄せようとしたのですが、重すぎてこれ以上動かすのを断念しました。。。)
奈良市(東エリア) 二十三夜供養碑でした。圭頭部に勢至菩薩を意味する「サク」を刻み、中央に「奉供養廿三夜二世安楽」、右に「正徳三???」、左に「十一月廿三日 ???」とあります。

奈良市東部では十九夜供養碑はたくさん見るのですが、二十三夜供養碑はむしろ珍しいです。初めて見ました。奈良市東部としては貴重な例と言う気もします。

しかし奈良市石造遺物調査報告書には載っていなかったです。ただ、供養碑の下敷きになっていた落ち葉がまだ形を保っていたので、この供養碑がうつ伏せに倒れたのはそれほど前ではないと思います。

道端に立てられていたものが、割と最近倒れたものではないでしょうか。あるいは、斜面の上から転がり落ちてきたか。

ということで、斜面の上の山の頂上まで行ってみたのですが、棚田の跡以外、特に何も見つかりませんでした。
二十三夜供養碑でした。圭頭部に勢至菩薩を意味する「サク」を刻み、中央に「奉供養廿三夜二世安楽」、右に「正徳三???」、左に「十一月廿三日 ???」とあります。 奈良市東部では十九夜供養碑はたくさん見るのですが、二十三夜供養碑はむしろ珍しいです。初めて見ました。奈良市東部としては貴重な例と言う気もします。 しかし奈良市石造遺物調査報告書には載っていなかったです。ただ、供養碑の下敷きになっていた落ち葉がまだ形を保っていたので、この供養碑がうつ伏せに倒れたのはそれほど前ではないと思います。 道端に立てられていたものが、割と最近倒れたものではないでしょうか。あるいは、斜面の上から転がり落ちてきたか。 ということで、斜面の上の山の頂上まで行ってみたのですが、棚田の跡以外、特に何も見つかりませんでした。
奈良市(東エリア) そばには何か窪みが作られた石がありました。供養碑底面のサイズと合わないので、供養碑がこの上に立っていたわけではなさそうです。
そばには何か窪みが作られた石がありました。供養碑底面のサイズと合わないので、供養碑がこの上に立っていたわけではなさそうです。
奈良市(東エリア) まずは太田古朴氏が旧柳生街道の道筋と考えた、白砂川上流の橋へ向かう道を下りました。こちらの道もしっかりと幅がありましたが、後で歩いた上出阿弥陀磨崖仏への道ほどではありませんでした。
まずは太田古朴氏が旧柳生街道の道筋と考えた、白砂川上流の橋へ向かう道を下りました。こちらの道もしっかりと幅がありましたが、後で歩いた上出阿弥陀磨崖仏への道ほどではありませんでした。
奈良市(東エリア) 白砂川支流を渡るところには、コンクリートで作られたしっかりした橋がありました。
白砂川支流を渡るところには、コンクリートで作られたしっかりした橋がありました。
奈良市(東エリア) しかし、その先の放棄田で行き止まりでした。篠竹が密生していてとても突破できるようには思えませんでした。

ということで、元の道へ戻りました。
しかし、その先の放棄田で行き止まりでした。篠竹が密生していてとても突破できるようには思えませんでした。 ということで、元の道へ戻りました。
奈良市(東エリア) 放棄田の中を進むところは、最近でも草刈りされているようでした。地域の方が道を維持しているようです。本当は、この放棄田に差し掛かるあたりに、右に下る道があり、後で下った道とすぐ下で合流するようなのですが、藪に覆われていてどこが道なのかよくわかりませんでした。
放棄田の中を進むところは、最近でも草刈りされているようでした。地域の方が道を維持しているようです。本当は、この放棄田に差し掛かるあたりに、右に下る道があり、後で下った道とすぐ下で合流するようなのですが、藪に覆われていてどこが道なのかよくわかりませんでした。
奈良市(東エリア) 右側の道を歩いてきました。左側の下っていく道が、上出阿弥陀磨崖仏へ至る道です。

右側の道をまっすぐ行く道が気になったので、この後一周回りました。
右側の道を歩いてきました。左側の下っていく道が、上出阿弥陀磨崖仏へ至る道です。 右側の道をまっすぐ行く道が気になったので、この後一周回りました。
奈良市(東エリア) 分岐のすぐ下に石だらけの平坦地がありました。田畑の跡にしては石だらけなのが不自然なので、人家の跡という可能性もあると思います。柳生側から山を登ってきた旅人が一休みできる茶店などがあったかもしれません。
分岐のすぐ下に石だらけの平坦地がありました。田畑の跡にしては石だらけなのが不自然なので、人家の跡という可能性もあると思います。柳生側から山を登ってきた旅人が一休みできる茶店などがあったかもしれません。
奈良市(東エリア) 荒れていますが、幅が3mはあり、かつては立派な道だったとわかります。
荒れていますが、幅が3mはあり、かつては立派な道だったとわかります。
奈良市(東エリア) 途中の谷筋に地滑りがあったようで、道が寸断されていました。手前側を少し下ると、特に危険なく向こう側に渡れました。
途中の谷筋に地滑りがあったようで、道が寸断されていました。手前側を少し下ると、特に危険なく向こう側に渡れました。
奈良市(東エリア) ほぼ下り切ったところ。
ほぼ下り切ったところ。
奈良市(東エリア) 山林の出口付近に、何やら遊び場が作られていました。ここからは白砂川の西側にコンクリート敷の農道が下流(北)の橋まで続いていました。
山林の出口付近に、何やら遊び場が作られていました。ここからは白砂川の西側にコンクリート敷の農道が下流(北)の橋まで続いていました。
奈良市(東エリア) 農道から、川べりまではまたもや笹藪です。
農道から、川べりまではまたもや笹藪です。
奈良市(東エリア) なぜか草刈りして道が作られていたので、そこを少し進むと水路のようなところに出ました。地面には石が散らばっていました。石畳のようにも見えます。
なぜか草刈りして道が作られていたので、そこを少し進むと水路のようなところに出ました。地面には石が散らばっていました。石畳のようにも見えます。
奈良市(東エリア) 水路のような道を川べりまで出ると、笹藪の向こう、白砂川の対岸真正面に、上出阿弥陀磨崖仏が見えました。
水路のような道を川べりまで出ると、笹藪の向こう、白砂川の対岸真正面に、上出阿弥陀磨崖仏が見えました。
奈良市(東エリア) 川越しに見る上出阿弥陀磨崖仏。
川越しに見る上出阿弥陀磨崖仏。
奈良市(東エリア) 道端に舟形五輪塔がありました。
道端に舟形五輪塔がありました。
奈良市(東エリア) 阿弥陀磨崖仏。
阿弥陀磨崖仏。
奈良市(東エリア) 前回訪れたときは三叉路と思っていましたが、振り返ると尾根筋に登る道がありました。

尾根筋に出ると、木が伐採されていました。また山林を伐採してソーラーパネルが作られないことを願うばかりです。。。
前回訪れたときは三叉路と思っていましたが、振り返ると尾根筋に登る道がありました。 尾根筋に出ると、木が伐採されていました。また山林を伐採してソーラーパネルが作られないことを願うばかりです。。。
奈良市(東エリア) 気持ちの良い尾根道です。
気持ちの良い尾根道です。
奈良市(東エリア) 狭い谷底に棚田の痕跡がありました。古い航空写真を見ると確かにこんな山奥の狭い谷にまでみっちりと棚田があります。
狭い谷底に棚田の痕跡がありました。古い航空写真を見ると確かにこんな山奥の狭い谷にまでみっちりと棚田があります。
奈良市(東エリア) 山田へ登っていく道。目印がたくさんあり、結構人が歩いているようでした。
山田へ登っていく道。目印がたくさんあり、結構人が歩いているようでした。
奈良市(東エリア) 鉄塔近くの茶畑からの眺め。狭川や今日歩いてきたところが一望できました。
鉄塔近くの茶畑からの眺め。狭川や今日歩いてきたところが一望できました。
奈良市(東エリア) 夕日と茶畑。
夕日と茶畑。

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