活動データ
タイム
08:32
距離
35.9km
のぼり
1737m
くだり
1794m
活動詳細
すべて見る*旧柳生街道探検 太田古朴「石仏柳生街道」綜芸舎, 1968, p3に、次のように書かれています。 「さて、柳生路、奈良道と言うが、それがどこを通り、どれからどこまでをいうのか定説がなかった。本書では、興福寺を起点として、春日大社、滝坂、石切峠、誓多林、忍辱山、大柳生、柳生を経過して、笠置寺に達するまでの街道を「旧柳生街道」と呼ぶ。しかし忍辱山円成寺の南辺には三筋の道路があり、最短路線を中央道、円成寺墓地を通るのを北道、柳生から奈良へは少々遠回りになるが坂道のない誓多林を通る道を南道という。」 太田古朴氏は、上出阿弥陀磨崖仏が「旧柳生街道」の道標の役割も果たしていたとして、上出阿弥陀磨崖仏の前の道が「旧柳生街道」と特定できたとしました。そこで今回実際に、太田古朴氏の言う「中央道」を歩いて、そこがどんな道なのか体感してきました。 太田古朴氏のいう「北道」である東海自然歩道から離れ、尾根を斜めに降りていくと、放棄田の谷に出ました。そして谷の北側を東に少し進み、その谷が別の谷と合わさるあたりで、谷の南側に渡ると、谷の南側の山林には、幅2〜3mほどの道がずっと続いていて、途中、谷が狭まり道と小川が接するところに、大きな石で石畳が作られていました。ちょうど滝坂の道とよく似た石畳です。その後、農道に出ますが、そこからは整備された歩きやすい道でした。 農道を東へ歩いていくとやがて谷が狭まり、放棄田がなくなりました。そのあたりで、農道から古い道が分岐していました。倒木が多く荒れてはいるものの、その古い道も、やはり2〜3mほどの幅が保たれていました。 古い道は尾根の南側を巻いて、尾根の反対側(東側)に出られるようになっており、尾根の反対側には、上出阿弥陀磨崖仏へ下る道の分岐がありました。その分岐のあるあたりには、棚田の跡が広がっていて、分岐から少し下ったところに石がたくさん散らばった平坦地もありました。石が多いということはそこが田畑だったとはあまり思われせん。かつてはそこに人家があった可能性もあります。また、分岐があるあたりは、柳生側から来た場合、ちょうど登り坂を上り切った場所に当たります。あるいはその平坦地のあたりで茶店が営まれていたかもしれません。 東海自然歩道から分かれ、尾根を斜めに降って谷底に出てから、上出阿弥陀磨崖仏への分岐まで、道は谷に沿って緩やかに降るだけで、ほとんど起伏がなく、ぐねぐねと曲がるところもありませんでした。こちらの道の方が、「北道」すなわち東海自然歩道よりも起伏がなく、経路としても最短で、旧笠置街道の本道にふさわしいように感じました。 そこから先、上出阿弥陀磨崖仏へ下る道は、幅が3mほどもある山道で、長い年月人や牛馬が歩いたからでしょうか、堀のように道が深く窪んでいました。一箇所地滑りにより谷筋で道が寸断されていましたが、谷筋の向こう側に渡る獣道があり、さほど危険はありませんでした。 山を下るとその先は、笹藪と化した放棄田でした。しかし誰かが草刈りして道のようなものが作られていました。そこを少し入っていくと、水路のようなところに降りていきました。その地面には石畳のように石が散らばっていました。もしかすると、そこは水路ではなく、そここそが旧柳生街道だったかもしれません。篠竹をかき分け、白砂川の川べりまで辿り着くと、篠竹越しに、対岸にある上出阿弥陀磨崖仏が正面に見えました。かつてはここに橋があり、川を渡れたのだろうと思います。上出阿弥陀磨崖仏は橋のたもとにあって、旧柳生街道を行く旅人を見守っていたことでしょう。 *狭川から加茂町山田へ抜ける道探検 どうも地理院地図と違うところに道があるように思ったので、地理院地図と比較しながら歩きました。 前回は放棄田沿いに山を登りましたが、高圧電線の鉄塔がある尾根筋にも道がありました。しかしそこから先は、前回の道以外に道はありませんでした。地理院地図にある道は、狭い谷に作られた棚田沿いにあったのではないかと思います。 現在は棚田が放棄され、谷川の水によってあちこち崩落しているため、道が完全になくなっていました。それにしてもこんな山奥の狭い谷にまで棚田になっていたとは、昔の人の努力には驚かされますね😅。 ブログ記事 https://mirokunomichi.org/voyages/2022030800/1.shtml
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