活動データ
タイム
02:34
距離
5.2km
のぼり
540m
くだり
519m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る奥羽山脈という呼称はあんまり好きではありません。いかにも、中央政権の考えそうな名称だと思います。日本一長い山脈だというけれど、何本も道が行き通っていますし、北の八甲田から南の那須・帝釈まで1つと言われましても全然ピンときません。東北の脊梁山脈と言えばそうなんですが、たくさんの個性的な山々を「東北」という枠組みにかこつけて無理やり押し込んでいる感じがしてなんだか馴染めないんですよね。いや、確かに日本を地方で分けると「東北」とされるのは妥当なんですが、東北を東北とまとめられるのはちょっと悲しいと言いますか…だってこんなに個性豊かじゃないですか東北って。まぁ僕も東京にいた頃はそうだったのですが、東北ってそんなに高頻度で行くところじゃないので白河の関より北はとりあえず「東北」だったのですが、何ていうんでしょうねメジャーじゃないがゆえに「東北」としか認識されていないのが寂しいと言いますか。近畿に遊びに行くとはあんまり言いませんよね、大阪とか京都とかですよね。でも東北は「東北」とまとめられるのが許されている?感じがありますよね。それと同じ感じで、多くの名山が十把一絡げに「奥羽山脈」と総括されるのには一言申し上げたい、そんな気持ちでした。 そんな折、例によってYAMAP地図登山をしていると「奥羽山」というピークを見つけました。奥羽山脈を代表する山か、というと決してそんなことはない里山なのですが、ここに登れば奥羽山脈について新しい見識に出会えるかもしれない。そう感じて気になっていました。2月最後の週末の東北の山の天気は微妙でしたが、日曜朝だけは低気圧接近による疑似好天で晴れが望めます。疑似好天を狙う、と言うのはあまり褒められたものではありませんが笑、家からも近く登山時間も2-3時間程度と、気がかりを解消するにはちょうどいいタイミングだと、国道47号線を県境まで向かいました。 【ルート概要】 ◇おおう牧場~526ピーク◇ この山を登る記録の大半が、堺田駅から登られています。ただ、踏切のない所で線路を横断するのは個人的にかなり抵抗があったので、線路を横断する必要のないおおう牧場さんからスタートしました。でも堺田駅起点だと、登る尾根が中央分水嶺なんですよね。堺田と言えば中央分水嶺が目視できる日本でも珍しい地理マニア垂涎の地。中央分水嶺好きにとって、堺田駅起点にするかは悩ましい点かもしれません(が、鉄道好きの視点とすれば、場合によっては鉄道営業法違反に問われかねないので避けた方が無難です) おおう牧場起点だと、はじめは林道を歩くことになります。歩き始めの明神川支流の渡渉部は橋なので問題はないと言いたいのですが、木の枝が張り出しておりそれを避けるとそこそこ橋の端ギリギリを歩くことになります。細かいコントロールが苦手なスキーの場合気を付けたいところです。 林道、というかたぶんかつて牧場だった時代の連絡道なのでしょう。車道なので特段言うこともないですが、開けた斜面なので景色も良く、程よく残るかつての日陰樹(牛に日陰を提供する木々)も見ていて心地よいので落ち着きます。が、あまりに緩慢なので途中から道を逸れ尾根取付き点にダイレクトで向かいました。 尾根の取付きは、マイナールートあるあるの取付点に雪壁が発生し登りづらいなんてことのまったくない、滑らかにスタートする尾根だったので非常に入りやすかったです。 傾斜が付いて森を抜けると、早速ちょっとした雪堤地帯。西側は雪庇めいてますが、幅はそこそこあるので雪庇ぎりぎりを歩く事態は避けられます。ただ、スキーだと雪波が障害となって少し苦労します。雪面が締まっていたこともあり今日はワカンで登るべきだったかもと後悔したのもこの区間。それでも、ちょっと苦戦したのはここだけで、これ以降はスキーの方が歩きやすかったと思います。この斜面を登りきると526ピークです。 ◇526ピーク~752ピーク◇ 雪堤→樹林の急坂→雪堤という具合で登りきると稜線に上がり、少し歩くと752ピークです。雪堤については526ピーク手前よりは斜度が優しめだったので登りやすかったです。どちらかというと樹林の急坂です。シールでジグを切れば登れましたが、雪質によってはスノーシューとかでは浮力が足りず苦戦しそう。また、一カ所地面がほぼ露出している所があり、春の訪れを実感しました。 ◇752ピーク~奥羽山◇ 752ピークではじめて奥羽山を目の前に眺められます。そこから先はたおやかな雪原なので歩いていてとても爽快。800m以下でこんな楽しい思いができるなんてと感激しましたね。他レポでも紹介されている立派なブナの木があったり、山頂はいつまでも居たいくらい気持ちよく静かな雪原だったので後ろ髪を引かれる思いでしたが、いつの間にか見えていた神室連峰の火打岳が雲に隠れ、レーダーで確認しても1-2時間後には雨雲が襲来する見込みだったのでそそくさと下山。730mの尾根起点部ではじめてシールを外し、ドロップアウトしました。雪は滑るには少し硬かったので、横滑りも交えつつ(特に登り面倒だった526直下)滑降。なんだかんだ、スキーできて良かったと思えました。 【奥羽山脈について】 ということで、今回の目的である「奥羽山脈」について少し考えてみます。まずは「山脈」からです。 山脈とはなんでしょう。Wikipediaの言うことをそのまま持ってくると、「低地の間に挟まれる、細長く連続的に伸びる山地のこと」と言っていますが、正直定義は曖昧のようです。その後の説明にも、一般的な定義と地質学的な山脈の定義は一致しないとあります。地質学的な山脈とはプレートのぶつかり合いで形成された山の集まりということで、ヨーロッパのピレネー・アルプス・コーカサスも同じアフリカ・ユーラシアプレートの相互作用の結果ということで同じ山脈という扱いになるとか。国土地理院のページを見ても、「山脈」という単語をピンポイントで説明するものはありません。 続いて「奥羽」です。こちらは岩手大学地理学教授の米地文夫ら編著の『社会科教育と地域・地名-「奥羽」と「東北」の歴史的変遷を例に-」という面白い論文がネットに落ちていたのでそこをヒントに考えてみましょう。古くは東北地方を示す地方である「奥羽」が、歴史的変遷で「東北地方」というものに挿げ替わったことを論じているものでなかなか面白かったです。論文によると、「東北」という呼称が現れたのは比較的新しく明治時代以降であること、つまりそれ以前はずっと「奥羽」という呼称が一般的だったようです。 それが「東北」と変遷した経緯がなかなか面白いので、詳しくは論文をご覧いただきたいのですが、東北という呼称が明確に文献に現れたのが明治初頭というのが興味深いです。曰く、戊辰戦争の新政府軍VS奥羽越列藩同盟(←ここではやはり“奥羽越”と旧国名であることに注目です)にて、新政府軍側が東日本への侵攻を「東海道」「東山道」「北陸道」の略称として「東北三道」と用いたことが述べられています。これには①古来唯一の地域区分というべきものが五畿七道であった②薩長勢力は公家と結んでおり,自分たちの東日本侵攻を古代史における伝説的な四道将軍の故事になぞらえた③徳川幕府のもとでの江戸を中心とした五街道という交通網とは異なった,古典的な畿内中心の交通網の強調により,王政復古の号令との整合性を持たせたということでなるほど、と膝を叩きました。そしてその新しい東北という地名が科学的(科学論文で東北日本という括り方が散見されるようになった)・先進的なイメージが持たれるようになります。加えて、明治後期の冷害を復興するため自由民権運動家が冷害を連想しやすいよう「東北振興」を叫ぶようになったこと、そして戦後、旧国名が内包する封建的な響きを打開すべく教科書にも「奥羽地方」でなく「東北地方」の記述に一新されたことなどが契機となり、今日の「東北地方」の呼称が定着したとのことです。 奥羽→東北の詳細な説明は論文に譲ります。この論文がひも解く「奥羽」の歴史こそ、奥羽山脈を考える際の参考になります。元々旧国名を組み合わせた呼称であった「奥羽」ですが、地方名として意識されていくのは、この地方の支配勢力に影響されているようです。古くは大和王朝東征の最前線として、出羽・陸奥の両サイドから勢力拡大を図っていたようなので、この二国は別の存在でした(東:東山道の果てとしての陸奥、北:北陸道の果てとしての出羽)。が、大和王朝の勢力が東北全体に及ぶようになると、勢力図が大和VS蝦夷(えみし)から、中央政権VS地方豪族と性格を変えていきます。その興りが前九年・後三年の役であります。陸奥の豪族安倍氏と出羽の豪族清原氏を中心に繰り広げられた戦乱で、もはや一国内に留まらず”奥羽”全体を巻き込んだこの戦いは、中央政権にとって一国だけのコントロールでなく奥羽全体の統一的な支配を考えるきっかけとなりました。その後も、奥州の覇者藤原氏は奥羽両国を勢力下に置いていましたし、戦国時代になっても「奥羽仕置」がなされるなど、中世以降「奥羽」はセットとして考えられる機会が多くなりました。 そう考えると、「奥羽山脈」という呼称が出てくるのもなんとなく分かる気がします。もはや、中世以降東北地方はある種1つのまとまりとして認識されてきた抗いがたい事実があるのですね。これはもう、東北の立地的宿命と言わざるを得ません。ただ、山脈の名前でいうと、奥羽山脈と言うのは実は少しレアケースです。飛騨山脈、木曽山脈、越後山脈と、わが国の山脈名はその国境であっても1旧国名を冠せられるパターンが多いです。 それについて、執筆中もう1つ論文を見つけました。同じく岩手大学の米地教授の「地理教育の場への自然地域名「奥羽山脈」の定着過程-地理教育における自然地理用語と自然地域名の問題(3)-」という論文です。ていうかここに私の疑問の答えがほぼほぼ書いてましたね。 この論文では奥羽山脈という代表的かつ定着した地名の命名経緯を明かしつつ、その地名の持つ問題点を指摘しています。やはり詳細は論文をご覧いただきたいですが、かいつまんでみると次の通り。 ◇「山脈」という語の定義ついて◇ ・国土地理院「主要自然地域名称図」の定義(1954):とくに顕著な脈状をなす山地をいう。 →さらに教科書研究センター(1978)は上記定義とともに、代表的なものとして飛騨・奥羽・越後の三山脈を上げている。 ・山脈という概念自体は明治以降西洋からもたらされたものであり、近代日本が教育用に地理用語を整理する際、ヒマラヤやアルプスクラスの山脈像が認識された。 →いわば中央分水嶺の峰々を「日本山脈」と捉えるスケールで、明治の”山脈”概念導入時には想定された ・地理教育の場において、「山脈」の持つ視覚的イメージと多義性とが重視された。 →視覚的イメージとは、すなわち山の連続性である(上記、「顕著な脈状をなす山地」という認識 →多義性とは、(山鮪が思うに)山の連続性に由来する分断・隔たり的機能でしょう。飛騨山脈が中央分水嶺でないのは地理好きには有名?かもしれませんが、それでも代表的山脈とされるのはその分断機能でしょう。北アルプスを境に、糸魚川と朝日町では文化が違います(ポリタンクの色や物の呼び方)し、生息するモグラも変わります(アヅマモグラorコウベモクラ)。 (ここから論文の旨)奥羽山脈においては、分水嶺であることが,強調されてきた→つまり、治水の隔たりとしての”脈”である。 ◇中央分水嶺としての奥羽山脈◇ 地面に落ちた雨粒の半分が日本海に、もう半分が太平洋に流れる境目が中央分水嶺です。奥羽山の登山口、堺田駅は前述の通り中央分水嶺が目視できる稀有な土地なのですが、奥羽山脈自体綺麗に中央分水嶺です。再び論文に戻りますと ・現「奥羽山脈」に初めて固有名詞が付された事例を特定するには至っていない(つまり、地名としてはかなり歴史が浅いものである) ・奥羽山脈にあたる地名で最も古いものの1つが農商務省地質局刊行『大日本帝国地産要覧図』(1889)で、それには「分水山脈」と記されている。 ・すべての山脈が分水嶺でないからこそ、あえて「分水山脈」と呼ばれたのだろう。 ・水田耕作を基幹とする日本農業は河川に依存しており、分水嶺に強い関心が注がれてきた。 ・地理教育の場においても分水界であることは重要視され、山脈=分水嶺として「連続する山々の列」である考え方が育った。 ◇地質学的な山脈においての奥羽山脈の特異性◇ 日本における山脈等山地の5分類 Aグループ:大陸プレート衝突による隆起山脈 …最も大きな高度を呈し,急峻である。 (主な例)飛騨山脈,木曾山脈,赤石山脈,日高山脈 Bグループ:大陸プレート縁辺の隆起帯の山地 …幅広く急峻である。 (主な例)紀伊山地,四国山地,九州山地 Cグループ:隆起準平原等が破断された断層地塊 …小型であるが,その割りに急峻である。 (主な例)鈴鹿山脈,養老山地,生駒山地など Dグループ:隆起準平原的性格を有する山地 …幅広く,部分的に高原状を呈する (主な例)北上山地,阿武隈山地,中国山地 Eグループ:グリーンタフ地域の隆起帯の山地 …山を除けば比較的低く,断続しつつ長い。 (主な例)奥羽山脈,出羽山地 これらの5グループの中で,明治時代に,ナウマンや原田らに注目されたのが,A~Dであ り,Eグループについては,原田(1888)が奥羽山脈について「低卑ニシテ著シキ連山ヲナサ ス‥・」と述べたよう山脈としての形態が不明瞭なものとして,固有名詞も付けられていなかった。 ・英訳では第一級の山地・山脈よりなるmountainsに対して,第二級のそれはrangeである。地質学的な山脈はmountainsと訳されることが多かったが、地理学的な山脈(日本語での日本の山脈)は実際はrangeであるものが多く、逆転現象が起きている。 ◇奥羽山脈という呼称について◇ ・旧国名を冠した山脈・山地名は多いが「奥羽」という名は,陸奥と出羽との両国から一字ずつとったものは例外的 ・「奥羽」という命名は,奥羽地方の中心をなすという性格から名付けられたものとみるべき ・その点では,中国山地,四国山地,九州山地などと同様のタイプ ◇奥羽山脈の断続性◇ 冒頭に述べた、何本も道が分断しているのに色んな山を一緒くたに詰め込んで「奥羽山脈」としていることへの疑問についても、論文はいくつか書いてくれています。ありがとうございます米地先生…! 〈論文による奥羽山脈の分類〉 北から①八甲田・十和田火山群②八幡岱・岩手火山群③真昼山地④焼石栗駒火山群⑤船形・蔵王火山群⑥吾妻・安達太良火山群⑦帝釈(那須)火山群 そうそう、こういうことなんですよ…!次いで論文は鉄道だけでも花輪線・田沢湖線・北上線・陸羽東線・仙山線・奥羽本線・磐越西線と7本も山脈を横断していると続けます。そして奥羽山脈は山が配列をなして並び、交通的に隔絶性が強く、人文的な閉鎖性をつくるという山脈の性格が希薄で、わが国を代表的する山脈とは言い難いと指摘しています。 ということで奥羽山脈について論文の力も借りて考えてみました。米地氏は「奥羽山脈は高度もあまり高くなく、断続しており、一本の脈状の形態で はない。ところが,地理教育の立場からは,概してパターン化、単純化が図られてきたため、誇張された観念的な奥羽山脈像が形成され,そのイメージがひとり歩きしてきたといえよう。」そして分水嶺という人文学的視線に偏重、した結果、「自然地理的に扱われてきたというよりは、むしろ、より広い意味づけをも含めた「地理教育のための地名」となっていった」と結んでいます。東北自体が中央に対する地方という位置づけで歴史的に見られていたことと相まって、これまた「教育」という中央統一規格で全国に波及するジャンルと絡まった結果、当たり前に「奥羽山脈」が定着していったのだと考えられます。 【奥羽山について】 ここまで奥羽山脈について考えてみましたが、「奥羽山」となるとどうでしょう。「奥羽山」で検索するともれなく「奥羽山脈」で結果が出てきますし、そもそも里山ジャンルなので情報があまりにも少ないです。ただ、今は蕎麦屋の屋号として残っているだけですが、かつては「奥羽牧場」として麓を牛たちが闊歩していた時代もあったでしょう。その牧場の名は当然その山麓の頂である「奥羽山」から取られているでしょうし、陸奥と出羽の国のちょうど真ん中を結ぶ街道のすぐそばに聳えていることからも、それなりの由来がある気はします。最上町の図書館まで行って町誌を漁れば出てくるかもしれませんがさすがにそこまでの熱量はないのでここからは推測です。 奥羽山が、たまたま奥羽山脈の中央部に位置するのは偶然ではないでしょう。出羽・陸奥両国の結び付きが強くなった以上、その間を結ぶ街道も整備されたはずです。まして現国道47号線は県境の標高が330mとかなり低く、トンネルもない交通路としてはかなり優れた道になります。出羽仙台街道とも呼ばれますが、古くは北羽前街道と呼ばれたようです。鳴子の小黒崎なんてのは万葉集にも詠まれたくらいなので、相当昔から重要な交通路で会ったのだと思われます。松尾芭蕉も東北行脚の際、この道を通り山形に抜けています。 ちなみにそんないい道でありながら、1本南の国道347号にも「出羽峠」や「商人沼」なんて交易で使われたような地名が残っています。山深いのになんでだろうと思っていたのですが、もしかしたら当時は舟運が最強の運搬手段だったからかもしれませんね。交易する以上、たくさんの荷物を運ぶことになります。そうするといかに長い期間舟運で荷を運べるかが輸送を楽にする秘訣になるかと思うのです。そんな視線で国道347号(最上街道)を眺めると、なるほど大石田に出られるんですね。大石田は最上川舟運の最大の中継地として栄華を極めた町。宮城県側の鳴瀬川も、加美町中心部まで舟運が発達していたようなので、確かに国道47号沿いを進むより舟運間の距離は短くなります。北羽前街道の場合最上からもう一山超えなければいけないのもネックだったのかもしれません。松尾芭蕉が最上から山刀伐峠を越えたのも長らくの疑問だったのですが、彼ももしかすると鳴子から大石田に最短で向かいたかったのかもしれません。 北羽前街道の峠越えは中山越と呼ばれます。出羽・陸奥の境だから中山だと思っていましたが、加えて奥羽山脈の真ん中(つまり出羽・陸奥の真ん中)だから中山、という側面もあるのかもしれません。ちょっと風呂敷を広げすぎて収集が付きませんが、地名を気にしつつ山に登るのも面白くて悪くないですよ笑 【おわりに】 山の数だけ登山の楽しみが広がっていると思います。東北の山は全然知りませんでしたが、この5年で相当勉強させてもらいました。それだけ山の個性・魅力の裾野も広がりました。人気ルートも良いですが、いろんな山に登るべきだなと思います。今回の山も、前回の翁峠と合わせて、今まで未開拓エリアだった国道347号―国道47号線間を知ることができてまた山を見る楽しみが増えました。宮城に来たばかりの頃は、船形の隣の山は栗駒山だったのですが、いつの間にやら花渕山、禿岳と間が埋まっていき、荒神山なんて登山道のない山まで明確に認識できるようになりました。そして荒神山と花渕山の間も、ここ2回の山行で新しくピースが加わりました。こうして知っているものが増えていくのはすごく楽しいですよね。 奥羽山脈・東北というのもおんなじ気がします。この広大な領域を一山脈・一地方としてしか知らない方は、ぜひ一度、どこの山でもどこの県でも良いので来てほしいなと思います。私が5年間ドハマりし、それでもなお探索の足りない膨大な魅力で溢れていますよ。そのうえで、「東北はいいところ」「奥羽山脈は名山揃い」なんて思っていただければそれはそれで良いんです。それは完成したパズルを眺め悦に入っているということですから。1ピースだけでも個性を放つ東北のパズルが揃えば、きっとすっごく人生の楽しみが増えていると思います。 【シジュウカラガン】 ついでに1つ。下山後帰宅途中で、見慣れない鳥を見ました。田んぼにいる様子は、宮城がシェア9割を誇るガン類なのですが、カラーリングがどう見てもモノクロ。頭の片隅に残っていた絶滅危惧種のシジュウカラガンの記憶がブワッと巻き起こり、もしかすると!と思って車をUターンさせて観察するとやはり。昭和中期には一度絶滅したと考えられていた、絶滅危惧IA類 (CR) :ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いものでございます。が、ここ数年保護活動が功を奏し、メキメキと個体数を回復させているようです。5年前には国内飛来数が5,120羽(15年前はわずか20羽)ということで、最新のレッドデータブックからは絶滅危惧種の欄にその名前が消えていました。環境破壊はいまだに叫ばれますが、こう絶滅の危機から復活した種を見ることができたというのもなかなか良い思い出になりました。 【参考文献】 米地文夫・細井計・藤原隆男・今泉芳邦・菅野文夫編著「社会科教育と地域・地名 -「奥羽」と「東北」の歴史的変遷を例に-」『岩手大学教育学部附属教育実践研究指導センター研究紀要第5号』(1995)pp.63-80収録 https://core.ac.uk/download/pdf/144250823.pdf 米地文夫「地理教育の場への自然地域名「奥羽山脈」の定着過程-地理教育における自然地理用語と自然地域名の問題(3)-」『岩手大学教育学部研究年報第53巻第2号』(1994.2)119~138
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