活動データ
タイム
07:54
距離
13.6km
のぼり
1193m
くだり
1169m
活動詳細
すべて見る昔々あるところ(京・大坂)に畠山国清がおりました。鎌倉討幕・建武の新政と南北朝の騒乱で次々と仕える先を変えながら(尊氏→直義→後醍醐帝→尊氏→基氏)勢力を伸ばし、ついには関東管領として好き勝手絶頂に権力を振り回しておったそうな。 ある時(正平14年/延文4年(1359))、将軍様(義詮)の要請(自ら提案したとも)で関西へ出陣したんじゃが、陣中で嫌な奴(仁木義長。権勢を振るって驕慢・奢侈が多かった)と喧嘩を始め、とうとう友達(細川清氏)と示し合わせて追い出してしもうた(南朝に降った)。直後に今度は友達の清やんが将軍様と喧嘩し出て行ってしまったんじゃ(南朝に降る)。おまけにその清やん率いる南朝に京を占領されてしまい、 「御敵ノ 種ヲ薪置畠山 打返スベキ 世トハ知ズヤ」(読み人知らず) 「何程ノ 豆ヲ蒔テカ畠山 日本国ヲバ 味噌ニスラナラン」(読み人知らず) と人々にバカにされ、率いてきた関東の軍も勝手に帰ってしまい(もともと関東武士達は遠征に嫌々ながら強制参加)、国清は勝手に帰った武士たちを厳しく処罰したそうな。これを恨んだ武士たちは上司(鎌倉公方足利基氏)にパワハラを訴え(国清の関東管領罷免を請願)、懲戒免職(鎌倉追放)となった国清は地元(伊豆)に帰り組合を作って(地元豪族を糾合)抵抗しようとしたが、人望無く(当たり前だ)総スカンを食らったため、弟を巻き込んで挙兵。 母さん豚(基氏)に自活しろ(無官で生きろ)と外の世界に送り出された(鎌倉追放)3匹の子豚(国清、義深、義熈)たちはそれぞれ家(三津城、神益(金山)城、立野(修禅寺))を作りました(手勢500で籠城)。 ある日(正平16年/康安元年(1361))、大きな悪いオオカミ(公方方討伐軍)が、最初の子豚の扉(三津城)を叩いて言いました。「子豚くん、おれを中に入れておくれ(追討令が出ているから降伏しろ)」 子豚(義熈)が拒否する(畠山方優勢)と、狼はわらの家(三津城)を20万の兵力で吹き飛ばし(加減しろ莫迦)、子豚は食べられてしまいました(捕縛されたか?後に安井氏の祖となる)。 そのまま次の木の枝の家(義深の神益城)へ進みこれを粉砕。1番目の子豚と同じ運命をたどります(後に赦免され能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前守護を歴任。畠山氏6代当主となる)。 最後に煉瓦の家(修禅寺城)を取り囲みますが、狼がいくら息を吹き付けても煉瓦の家を吹き飛ばすことはできません(10か月の籠城戦)。狼は煙突から忍び込もうとする…などという無様な真似はせず、水と食料補給を絶つ包囲戦を行い、国清は降伏。釜茹にした狼を食べることも無く、子豚はずっと幸せに暮らすこともできず、 降伏時に斬殺されたとも南朝に降ろうとして流浪の末に大和で行き倒れ同然に窮死したとも。めでたしめでたくなし。 …畠山の城と、後の小田原北条による城(三津新城、長浜城)を見比べてきました。同じ土城なのにここまで特徴出るのは見てて楽しいです。 葛城山の山頂からの下り(葛城山背面ルート)はかなり危険な難所(急傾斜、ルート不明瞭、滑落注意)です。山頂側は案内も無く柵を乗り越える形となりますのでお勧め出来ません。ご利用の際は十分ご注意ください。
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