活動データ
タイム
05:02
距離
8.2km
のぼり
557m
くだり
528m
活動詳細
すべて見る秩父鉄道の前身の上武鉄道は、日清戦争前後の好景気を受けて、秩父の絹織物業者が設立。熊谷―秩父間の沿線の有力者から資金を募って鉄道建設を始めた。しかし、不況となったことから途中で資金が底を突き、路線は熊谷から寄居町の波久礼まででストップ。経営危機に陥った。 社長を引き継いだ柿原定吉は、渋沢が代表を務める埼玉学友会の一員で、会の仲間の諸井恒平(のちの秩父セメント社長)らに相談した。渋沢も林学博士の本多静六から武甲山の石灰岩の有用性について聞いていたことから、諸井らに現地調査をさせた。 セメント工業の可能性を評価する結果が出たことから、渋沢は第一銀行を通じて資金援助を行ったという。この資金援助がなかったら、波久礼から先へ延伸されなかった可能性が高い。そうなれば秩父にセメント産業は起こらず、工業都市としての発展はなかった。また、長瀞などの観光地もなかったかもしれない。東京だけでなく、地方も一緒に豊かになっていくことが日本の発展につながると渋沢は考えていた。
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