活動データ
タイム
07:16
距離
7.6km
上り
532m
下り
532m
活動詳細
すべて見る天正10(1582)年6月2日、織田信長が本能寺で殉死してのち、後継者を巡り同年6月27日に清州会議が行われた。織田氏の後継者選びとは言うものの、実質は羽柴秀吉と柴田勝家の勢力争いで、この結果が両者の覇権を争う戦争に発展する。 金森長近(かなもりながちか)は柴田勝家の側についていた。しかし、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、秀吉の巧みな調略により前田利家と共に柴田軍の援軍を放棄し自国へ撤退した。後ろ盾の無くなった柴田勝家はこれにより滅び、長近は前田と共に秀吉の傘下に入った。🏯 その後、秀吉の鉾先が勝家と北陸で同盟を結んでいた佐々成政(さっさなりまさ)に向けられると、秀吉は金森長近に飛騨白川郷からの侵攻を命じる。しかし飛騨には当時、佐々氏と同盟関係の有った姉小路(三木)自綱(よりつな)・秀綱親子がその勢力を誇っていた。金森長近は姉小路氏に遺恨の有る飛騨の旧勢力を率いて攻め、先ず自綱を降伏させるとその子秀綱の松倉城へと進軍。秀綱は難攻不落と言われた松倉城での籠城を決め、徹底抗戦を続けるが最後は落城し敗走することになる。🎠🎠🎶 https://yamap.com/activities/7490483 https://yamap.com/activities/7518054 金森氏は美濃の清和源氏流土岐氏の出身で、織田信長の時代に金森長近が加賀一向一揆を鎮圧した褒美に越前大野を領地として与えられた。その後、豊臣秀吉の時代に飛騨を平定し領地を増やしていった。秀吉没後は徳川家康に仕え、はじめは領地を安堵されるも飛騨の森林資源と神岡鉱山の権利を幕府が剥奪したことから、飛騨は幕府の直轄地となった。これにより金森氏は出羽上山藩(現在の山形県上山市)に移封となる。ところが三年後、美濃の郡上八幡藩に再移封された。🃏 金森氏は凡そ5万石ほどの大名で、規模としては然程大きくない。江戸時代の大名の最低石高は1万石とされ、城持ち大名に至っては3万石以上であったようだ。もともと織田信長に仕えるも柴田勝家を裏切り秀吉に付き、さらには徳川に仕えるなど主従を転々とした経緯を考えると当然のように思えるが、一方で同様の道を辿った前田氏は加賀100万石と言われる出世大名となる。同じ外様でも金森氏には出世街道から外れた現代のサラリーマンの悲哀が感じられるのは私だけか…。😵💫 出世と言えば、「梲(うだつ)が上がらない」という表現は地位・生活などがよくならないとか、 パッとしない場合に用いられるが、この「うだつ」には諸説あるようだ。一般的なのは大工用語の「卯建(うだて)」説で、隣り合う長屋を仕切る防火壁のことを「卯建」と呼び、この「卯建」を高く上げることが出世を意味しているというもの。岐阜県美濃市には「うだつの上がる町並み」がある。ここは江戸時代にその領主、金森長近によって造られたというから、何とも皮肉な巡り合わせになっている。😱 さて、再び話を本題に戻すと、度重なる国替えの影響で金森氏の郡上藩の財政はひっ迫していた。そのため、年貢米やその他の物品に掛る増税で農民の暮らしも苦しくなり、農民たちは一揆を起こした。郡上宝暦騒動いわゆる「郡上一揆」で、幕府よりその責任を追及された金森家は宝暦8年(1758)に改易となり、所領没収となった。🤬 その後、金森家が信長以来の名家であることから、お家断絶は免れたものの分家である金森左京家に名跡を継がせ、3,000石を残す旗本に降格となる。 戦国の勇であった金森氏も、徳川幕府の政策と土民の反抗に翻弄され、寂しい終末を迎えたようだ。😭🏁 今回は戦国期から江戸の安定期に、金森氏の命運を掛けたこの地の歴史探訪の山行とした。
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