”c”「街道を行く 西国街道」木戸ケ池緑地→西宿北向地蔵→柳谷観音→勝尾寺大鳥居→楠水竜王→春日神社御旅所→清水春日神社→ぼろ塚→郡山宿本陣→中川清秀由緒地→白井河原→郡山城跡→宿川原バス停

2017.10.23(月) 日帰り

活動データ

タイム

04:22

距離

12.2km

のぼり

105m

くだり

156m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 22
休憩時間
38
距離
12.2 km
のぼり / くだり
105 / 156 m
4 22

活動詳細

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台風一過 時々風が強く吹いていたが街道歩きには最適な日和であった。 今回は西国街道を東へ東へ歩いた。 新御堂筋と西国街道が交差する木戸ケ池から出発して国道171号線から旧西国街道に入り、西宿の地蔵、庚申塔、柳谷観音碑、勝尾寺大鳥居から小野原を通り楠水竜王へ。家人にお願いして名水の井戸を見学して更に竜王堂内を拝観した。 そこからは西国街道を離れ国道171号の北へ行き”月の清水 ”で有名な清水の春日神社を訪れた。昨日の台風の被害で参道は倒木が溢れていた。 西国街道に戻り東へ進み”徒然草”に書かれた”ぼろ塚”の碑を見た後郡山宿本陣へ。内部を見学する予約方法を確認した。更に西国街道を東へ行き亀岡街道との交差点にある中川清秀由緒地の碑を見て白井河原に出て、戦いの跡を見た。最後に郡山に登り郡山城跡地を訪問して宿川原バス停に到着した。

竜王山・阿武山 木戸ケ池緑地から出発 国道171号を東へ
木戸ケ池緑地から出発 国道171号を東へ
竜王山・阿武山 斜め右の西国街道に入る
斜め右の西国街道に入る
竜王山・阿武山 保護樹林クスノキ の下に西宿の北向地蔵
保護樹林クスノキ の下に西宿の北向地蔵
竜王山・阿武山 北向地蔵
北向地蔵
竜王山・阿武山 西宿の庚申塔
西宿の庚申塔
竜王山・阿武山 昭和2年(1927)に建立れたもので、自然石の庚申塔としては箕面で最も新しい。
昭和2年(1927)に建立れたもので、自然石の庚申塔としては箕面で最も新しい。
竜王山・阿武山 芋川 西へ流れる最後(東端)の川 これより東の川は東へ流れる
芋川 西へ流れる最後(東端)の川 これより東の川は東へ流れる
竜王山・阿武山 柳谷観世音菩薩の碑 京都府長岡京市にある楊谷寺の柳谷観音は、眼病の治癒に霊験があるとして信仰されていた。
柳谷観世音菩薩の碑 京都府長岡京市にある楊谷寺の柳谷観音は、眼病の治癒に霊験があるとして信仰されていた。
竜王山・阿武山 今宮交差点
今宮交差点
竜王山・阿武山 右側は箕面墓地公園
右側は箕面墓地公園
竜王山・阿武山 この辺りが 豊島郡と嶋下郡の境界 分水嶺になる
この辺りが 豊島郡と嶋下郡の境界 分水嶺になる
竜王山・阿武山 ここから東側は旧豊川村
ここから東側は旧豊川村
竜王山・阿武山 小野原西になる
小野原西になる
竜王山・阿武山 東側へ下っている
東側へ下っている
竜王山・阿武山 郷之久保川 この辺りから川は東へ流れる 豊島郡と嶋下郡の郡境からの伏流水が源流
郷之久保川 この辺りから川は東へ流れる 豊島郡と嶋下郡の郡境からの伏流水が源流
竜王山・阿武山 路面が綺麗になる
路面が綺麗になる
竜王山・阿武山 勝尾寺大鳥居
勝尾寺大鳥居
竜王山・阿武山 扁額は清和天皇のご宸筆。
扁額は清和天皇のご宸筆。
竜王山・阿武山 小野原の西の常夜灯 小野原村を東西に貫く西国街道の西の村境に建てられた石灯籠の常夜灯で、村に疫病や盗賊が侵入しないようにとの祈りを込めたものである。
小野原の西の常夜灯 小野原村を東西に貫く西国街道の西の村境に建てられた石灯籠の常夜灯で、村に疫病や盗賊が侵入しないようにとの祈りを込めたものである。
竜王山・阿武山 正念寺
笹川良一が小さいとき預けられたと云う
正念寺 笹川良一が小さいとき預けられたと云う
竜王山・阿武山 昔の風情を感じながら西国街道を東へ
昔の風情を感じながら西国街道を東へ
竜王山・阿武山 楠水竜王(なんすいりょうおう)
楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ向かう途中、ここにあつた小庵の井戸で水を汲んで飲んだと云う伝承があり、後にここに茶店が出来て旅人が名水として愛飲したと云う。
楠水竜王(なんすいりょうおう) 楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ向かう途中、ここにあつた小庵の井戸で水を汲んで飲んだと云う伝承があり、後にここに茶店が出来て旅人が名水として愛飲したと云う。
竜王山・阿武山 堂の前に「京ふしみ道」と記した道標がある。
堂の前に「京ふしみ道」と記した道標がある。
竜王山・阿武山 享和2年(1802)弥三八の寄進
享和2年(1802)弥三八の寄進
竜王山・阿武山 楠水竜王
楠水竜王
竜王山・阿武山 楠水龍王の地
楠水龍王の地
竜王山・阿武山 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
竜王山・阿武山 名水の井戸は民家の庭の中にある。
通常拝観不可であるが家の方にお願いして入らせて頂いた
名水の井戸は民家の庭の中にある。 通常拝観不可であるが家の方にお願いして入らせて頂いた
竜王山・阿武山 今は水は無いそうだ
今は水は無いそうだ
竜王山・阿武山 楠水竜王のお堂にも入った。神棚が沢山ある。
楠水竜王のお堂にも入った。神棚が沢山ある。
竜王山・阿武山 横には南無妙法蓮華経と仏像
横には南無妙法蓮華経と仏像
竜王山・阿武山 蛇神  これが龍王か
蛇神  これが龍王か
竜王山・阿武山 春日神社御旅所。
境内には春日神社の神輿を置く神輿台がある。
春日神社御旅所。 境内には春日神社の神輿を置く神輿台がある。
竜王山・阿武山 須賀神社
明治末頃の神社統合にあたつて、小野原村内の他の神社と同様に春日神社に合祀された。
須賀神社は祇園の神で行疫神の牛頭天王(スサノオ)を祀っている
須賀神社 明治末頃の神社統合にあたつて、小野原村内の他の神社と同様に春日神社に合祀された。 須賀神社は祇園の神で行疫神の牛頭天王(スサノオ)を祀っている
竜王山・阿武山 小野原東公園
小野原東公園
竜王山・阿武山 箕川を渡り北へ
箕川を渡り北へ
竜王山・阿武山 国道171号西豊川町の交差点を北へ
国道171号西豊川町の交差点を北へ
竜王山・阿武山 関電学園へ上っていく
関電学園へ上っていく
竜王山・阿武山 清水 春日神社 元須久久神社
天平12年(740年)中臣清麻呂(鎌足の甥の子)が当地に祖神を祀り
須久久神社(すくくじんじゃ)を二つ創建した。その内の一つである。
清水 春日神社 元須久久神社 天平12年(740年)中臣清麻呂(鎌足の甥の子)が当地に祖神を祀り 須久久神社(すくくじんじゃ)を二つ創建した。その内の一つである。
竜王山・阿武山 二つは共に宿久庄村だったが明暦元年(1655年)に清水村が独立し、須久久神社を春日神社と称した。
二つは共に宿久庄村だったが明暦元年(1655年)に清水村が独立し、須久久神社を春日神社と称した。
竜王山・阿武山 月の清水
貞観 13 年(871 年)清和天皇が勝尾寺に行幸された時、清水で一段高い丘陵地である山ノ井に清和天皇が立寄られ一泊された。天皇のお越しを村人は喜び、「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。
月の清水 貞観 13 年(871 年)清和天皇が勝尾寺に行幸された時、清水で一段高い丘陵地である山ノ井に清和天皇が立寄られ一泊された。天皇のお越しを村人は喜び、「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。
竜王山・阿武山 天皇は大いに喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。
後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。
天皇は大いに喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。 後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。
竜王山・阿武山 昨夜の台風の風雨で倒れた燈籠
昨夜の台風の風雨で倒れた燈籠
竜王山・阿武山 参道にも倒木が散乱
参道にも倒木が散乱
竜王山・阿武山 登るのが大変だ。
小学校時代の笹川良一と川端康成が陽が落ち、夕闇迫る晩秋の宵まで遊んでいた神社が”月の清水”の春日神社である。
登るのが大変だ。 小学校時代の笹川良一と川端康成が陽が落ち、夕闇迫る晩秋の宵まで遊んでいた神社が”月の清水”の春日神社である。
竜王山・阿武山 平成24年(2012年再建された 拝殿及び本殿
平成24年(2012年再建された 拝殿及び本殿
竜王山・阿武山 本殿は拝殿と一体になっている。覆い屋の様だ
千木外削ぎ 鰹木3本  春日造りなら鰹木2本のはずだが・・・
本殿は拝殿と一体になっている。覆い屋の様だ 千木外削ぎ 鰹木3本  春日造りなら鰹木2本のはずだが・・・
竜王山・阿武山 モノレール彩都線を潜って東へ
モノレール彩都線を潜って東へ
竜王山・阿武山 豊川小学校 笹川良一と川端康成が通った。
豊川小学校 笹川良一と川端康成が通った。
竜王山・阿武山 西国街道を東へ
西国街道を東へ
竜王山・阿武山 箕川と勝尾寺川の合流点 
箕川と勝尾寺川の合流点 
竜王山・阿武山 この先 茨木川に合流する。
この先 茨木川に合流する。
竜王山・阿武山 勝尾寺の上流へ行くと ”ぼろ塚”
勝尾寺の上流へ行くと ”ぼろ塚”
竜王山・阿武山 昨日来の台風の影響で勝尾寺も水量が多い
昨日来の台風の影響で勝尾寺も水量が多い
竜王山・阿武山 『徒然草』第百十五段に「宿河原といふところにて、・・」で始まるぼろ(虚無僧(こむそう))奇談の話がありる。
 
『徒然草』第百十五段に「宿河原といふところにて、・・」で始まるぼろ(虚無僧(こむそう))奇談の話がありる。  
竜王山・阿武山 師の仇討ちをしようと旅をしていたぼろがこの宿河原で敵のぼろと出合い、立ち会った場所。二人のぼろは未来に遺恨を残こすまじと片方は首をつき、もう片方は腹を刺しぬいて果てたといわれている。こうした命に執着しないぼろの精神を、吉田兼好は、徒然草のなかで語っている。
師の仇討ちをしようと旅をしていたぼろがこの宿河原で敵のぼろと出合い、立ち会った場所。二人のぼろは未来に遺恨を残こすまじと片方は首をつき、もう片方は腹を刺しぬいて果てたといわれている。こうした命に執着しないぼろの精神を、吉田兼好は、徒然草のなかで語っている。
竜王山・阿武山 道祖神社
道祖神社
竜王山・阿武山 祭神;猿田彦神
祭神;猿田彦神
竜王山・阿武山 西国街道に向かって南へ歩く 良い感じの田舎道
西国街道に向かって南へ歩く 良い感じの田舎道
竜王山・阿武山 西国街道を東へ
西国街道を東へ
竜王山・阿武山 郡山宿本陣(椿の本陣)
郡山宿本陣(椿の本陣)
竜王山・阿武山 西国街道は京都から西宮までの間に、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の5つの宿場があった。郡山宿は、そのまん中にある宿駅として、重要な役割を果たしてきた。
西国街道は京都から西宮までの間に、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の5つの宿場があった。郡山宿は、そのまん中にある宿駅として、重要な役割を果たしてきた。
竜王山・阿武山 本陣は、大名や公家などが宿泊、休憩する施設で、西国大名が参勤交代の時にも利用していた。
本陣は、大名や公家などが宿泊、休憩する施設で、西国大名が参勤交代の時にも利用していた。
竜王山・阿武山 中川清秀由緒地 武将・中川清秀は天文11年(1542年)旧福井村中河原で生まれた。
山崎の合戦では清秀は、高山右近と共に秀吉軍の先鋒として活躍したが、“賤ヶ(しずが)岳(だけ)の戦い”では清秀は秀吉軍として出陣したが、そこで戦死した。清秀42歳の時であった。
中川清秀由緒地 武将・中川清秀は天文11年(1542年)旧福井村中河原で生まれた。 山崎の合戦では清秀は、高山右近と共に秀吉軍の先鋒として活躍したが、“賤ヶ(しずが)岳(だけ)の戦い”では清秀は秀吉軍として出陣したが、そこで戦死した。清秀42歳の時であった。
竜王山・阿武山 昭和39年の設置
昭和39年の設置
竜王山・阿武山 中河原の道標
亀岡街道と西国街道の交差点である
中河原の道標 亀岡街道と西国街道の交差点である
竜王山・阿武山 南北は亀岡街道
南北は亀岡街道
竜王山・阿武山 東西は西国街道
東西は西国街道
竜王山・阿武山 南 堺、住吉、大坂、吹田、茨木
南 堺、住吉、大坂、吹田、茨木
竜王山・阿武山 西 姫路、神戸、池田、岡(町)、箕面、
西 姫路、神戸、池田、岡(町)、箕面、
竜王山・阿武山 左 勝尾寺川  右 佐保川 合流して茨木川となる。
この合流地点を”白井河原”と云う。
左 勝尾寺川  右 佐保川 合流して茨木川となる。 この合流地点を”白井河原”と云う。
竜王山・阿武山 ここから茨木川として流れていく
ここから茨木川として流れていく
竜王山・阿武山 世に言う「白井河原の合戦」のあった場所である。
世に言う「白井河原の合戦」のあった場所である。
竜王山・阿武山 元亀2年(1571年)8月に、白井河原一帯で行われた戦いで、池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦い。この時、茨木・和田連合軍は約500騎、、一方の荒木・中川連合軍は約2500騎で陣取った。
元亀2年(1571年)8月に、白井河原一帯で行われた戦いで、池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦い。この時、茨木・和田連合軍は約500騎、、一方の荒木・中川連合軍は約2500騎で陣取った。
竜王山・阿武山 和田、茨木勢は戦列が整っておらず、明らかに、多勢に無勢である。和田惟政は、援軍の到着を待って攻撃してはという部下の進言を聞き入れず、息子の惟長の率いる後続援軍の到着を待たずに、無謀にも200余騎で突撃したとされている。結果、和田惟政は討死。
和田、茨木勢は戦列が整っておらず、明らかに、多勢に無勢である。和田惟政は、援軍の到着を待って攻撃してはという部下の進言を聞き入れず、息子の惟長の率いる後続援軍の到着を待たずに、無謀にも200余騎で突撃したとされている。結果、和田惟政は討死。
竜王山・阿武山 戦の死者を供養したもおか
戦の死者を供養したもおか
竜王山・阿武山 平和堂のフードコートで休憩
平和堂のフードコートで休憩
竜王山・阿武山 郡山城跡  碑の横の石は郡山城の石垣に使われていたと云う。
郡山城は、築城年代や築城者は定かではないが、高槻城主和田惟政の家臣郡平太夫が居城し、近郷七ヶ村を支配していたと云われている。
郡山城跡  碑の横の石は郡山城の石垣に使われていたと云う。 郡山城は、築城年代や築城者は定かではないが、高槻城主和田惟政の家臣郡平太夫が居城し、近郷七ヶ村を支配していたと云われている。
竜王山・阿武山 元亀2年に和田惟政と荒木村重・中川清秀らとの対立となり、白井河原を挟んで合戦した。 この合戦で郡平太夫は、主君和田惟政に従って出陣し討ち死にしている。
元亀2年に和田惟政と荒木村重・中川清秀らとの対立となり、白井河原を挟んで合戦した。 この合戦で郡平太夫は、主君和田惟政に従って出陣し討ち死にしている。
竜王山・阿武山 浪速少年院
ここに郡山城は建っていたと思われる。
浪速少年院 ここに郡山城は建っていたと思われる。
竜王山・阿武山 城の地は小高い丘の上になる
城の地は小高い丘の上になる
竜王山・阿武山 見えている小山が 白井河原の合戦で和田惟政軍の陣地である
見えている小山が 白井河原の合戦で和田惟政軍の陣地である
竜王山・阿武山 阪急バス 宿川原バス停 到着
阪急バス 宿川原バス停 到着

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