活動データ
タイム
06:11
距離
12.5km
のぼり
1218m
くだり
1216m
活動詳細
すべて見るお盆休み、暴風雨の中、みなかみ町側から上州武尊山を辿った(*´-`)濡れた岩場鎖場を超えて稜線に立ち山頂に至ってみたが吹き付ける雨風が容赦なく、山頂に至ったという達成感もたいして感じられなかった( ω-、) あれから毎日のように天気予報とにらめっこ、やっと晴れる日曜日が訪れる(*´ω`*) 花咲から辿る上州武尊山を舞台に、ヤマップ、スタートですヽ( ・∀・)ノ さて、前回の武尊山山行日記の際に北アルプスの穂高と武尊山との繋がりのことを語った(* ̄ー ̄)今回は木曽御嶽山と上州武尊山を開山した行者『普寛』について語ろう(*´ー`*) 普寛は江戸中期の修験者だ(*´-`)生まれは埼玉県秩父の大滝で死去は埼玉県本庄市となる(* ̄ー ̄) 普寛が修験道に入ったのは30歳になってからだそうな(*´-`)三峰観音寺で修行を納めた普寛は後々に木曽御嶽山、越後八海山(他に秩父御岳山、群馬県三笠山など)を開山する(*´ー`*)遍歴には鹿児島の桜島まで行き着いたそうな(* ̄ー ̄) さて、木曽御嶽山は御嶽教の信仰深い山である(*´ー`*)普寛もまた御嶽教の修験者として木曽御嶽山の王滝口からの道を開いた(*´ω`*)それから全国を行脚した普寛によって御嶽教が広がりあらゆる土地に講社が結成されるようになる(*´-`) 普寛が最後に開山したのが上州武尊山だろう(*´ー`*)山麓の花咲を地元とする直弟子と共に武尊山を目指し開山したという(´ω`*) さて、普寛が開山したとされる山頂は前武尊だ(*´-`)現在の最高地点の沖武尊はまた違う行者、群馬県伊勢崎市の深沢心明によって川場村から開かれる(* ̄ー ̄)明治時代の話だ( *゚A゚)そうすると武尊山を開いたのは心明では?となるのだが、当時の武尊山は前武尊山のことを言っていたそうな(´ω`*)そして、前武尊を開かねばその先の峰に行き着くことは叶わないものだろう(*´-`)山麓の花咲から歩いたとなれば前武尊もまた困難な道のりだったに違いない( ω-、)ちなみに、花咲から前武尊への道途中に普寛行者の像が鎮座している(*´-`)眺める先は花咲の集落だ(*´ー`*) 普寛が武尊山を開いたのは1795年で齢64の頃か(*´-`)それまでに木曽御嶽山、越後八海山などを開き関東一円に御嶽教を布教した(*´ー`*)そして御嶽教は見るまに派生しあらゆる講社が結成されたのだ(´ω`*)今でも普寛が開いたとして白ハチマキ、白法被の行者が御嶽山、八海山などと共に霊山として武尊山を登拝する(* ̄ー ̄) 御嶽の教義として、人間の霊魂は聖なる山である御嶽山から生を受けてこの世に誕生するが、死後には再び御嶽山の神のもとに帰るとある(*´-`)普寛もまた死後の安住の地として御嶽に帰すると残しその遺骨は木曽御嶽山、本庄市の普寛神社、武尊山に分骨されたという(´ω`*) 御嶽教は宗教?と仰々しく思わせるかもしれないが宗教とはまた違うのだ(*´-`)広く信者が増えた御嶽教の教えに『朝は希望に起き 昼は努力にいきる 夜は感謝に眠る』がある(* ̄ー ̄)神道寄りの御嶽教は、例えていえば秩父の里に残る狼信仰と同じ民間信仰だ( *゚A゚) とまぁ、武尊山開山の祖、普寛と御嶽教について語ってみたが、こんなことに興味を持つものは百人の登山者がいてその中に一人いるかどうかだろう( ´_ゝ`)が、今現在の登山道のほとんどが、かつての山岳信仰の信者が切り開いた道であるのだと知ってもらいたいと思うのだ(*´ω`*) さて、花咲からの登山道はオグナほたかスキー場からだ(* ̄ー ̄)ペンション、ロッジの立ち並ぶ山麓は別荘地だろう、その先のオグナほたかスキー場から登る道はまずは樹林帯の中を歩くが途中から天狗尾根(川場登山口)との分岐までゲレンデの中をひたすら歩く(*´-`)眼前には前武尊山が見え振り向けば皇海山や赤城山が望めるのだが、このゲレンデ歩きが正直辛かった(。>д<)ただただ急坂を登るだけだからだ(;´-`)天狗尾根分岐に入り込みやっと山登り気分になれる( ̄∇ ̄;) 分岐から前武尊までは木の根っこ、ガレ場が続く(* ̄ー ̄)途中開かれた展望は榛名山の姿も確認できた(´ω`*) 前武尊山に辿り着けばここからが武尊山花咲からの醍醐味だろうか、まずは川場剣ヶ峰が眼前にそそり立つ( *゚A゚)今では通行止めとなった川場剣ヶ峰を巻き鞍部を過ぎれば一気に展望が開かれ今から辿る家ノ串、中ノ岳、沖武尊の峰々とその稜線を望むことができる(*゚Д゚) 家ノ串から中ノ岳までの細い岩稜帯は両端が切れ落ちている(;・ω・)慎重に、丁寧に進むことが大切だ(* ̄ー ̄)時折立ち止まっては切れ落ちた先の谷間を覗いたり、360度広がる展望を楽しんだりと、気持ちは高揚して止むことはない♪(ノ゚∀゚)ノ 中ノ岳南側分岐まで来れば熊笹生い茂る斜面を巻きながら水場、三ツ池を通り越し、最後の一登りを経て沖武尊の日本武尊像と合間見える(* ̄ー ̄)明治時代に建立された日本武尊像は立ち込めてきたガスの中に佇んでいた(*´-`) 日本武尊の先、剣ヶ峰との分岐を過ぎてすぐ、沖武尊、登頂ですヽ( ・∀・)ノ山頂にはみなかみ町から上がってきた登山者が数人、思い思いに過ごしていた(* ̄ー ̄)展望は剣ヶ峰への稜線が見えるはずだが、ここまでの道のりの途中からガスが満ち広がる展望を隠している(;´-`)飯を食いながらしばらく待つがどうも晴れる気配はない( ω-、)展望を期待していたが仕方なく、また来た道を戻ることにしたε=(ノ゚Д゚)ノ 日本武尊に挨拶、奉納されてる鉄の剣をかざしまた来ることを誓ってから中ノ岳南側、岩稜帯、家ノ串、川場剣ヶ峰を巻き前武尊まで一気に戻った(´ω`*)前武尊から不動岳へ行くか迷ったが次回の川場口からの山行に残しておこうとまた来た道を戻るε=(ノ・∀・)ツ 前武尊から下る途中、白法被姿の行者と巡り会う(*゚Д゚)八海山と書かれたハチマキをした行者二人組は普寛を尊び参ったようでしばらく御嶽教、普寛行者、武尊山、八海山のことを話し教え頂いた(´ω`*)今回もまた不思議な奇縁に恵まれた(*´-`)立ち止まり話し込むことでたくさんのことを学ぶことができたが、長く引き留めてしまいながらも終始笑顔で話を聞かせてくれた行者に、「なにか、行をされてるのですか?」と聞かれたが、何もしていない、が、山に登ること自体が行と考えてますと応えると嬉しそうに笑っていた(*´ω`*)面白い話といえば、前武尊山に鎮座する日本武尊像、江戸期に花咲の信者によって担ぎ上げられた銅像は一度修復のため下界に下ろされたとのことだ( *゚A゚)その際その二人組も手伝ったそうで、「ロープを使って、こう、、、」と楽しそうに話してくれた(*´ー`*)そうか、日本武尊像は一度下山した経歴があるのかと感心しながら聞き入った(*´ω`*) 行者にお礼を言い別れさらに下りゲレンデに戻ればまたひたすら歩く(*´ー`*)ゲレンデから最後の樹林帯に入り駐車場に戻れば今回の山行は終了、麓の花咲を通り帰路に着いた(* ̄ー ̄) 今回は車中泊をしての武尊山山行だった(*´ー`*)車は楽だが、そろそろまた避難小屋に籠って酒を飲みたいものだが、さてどこのお山のどこの避難小屋にしよう(  ̄▽ ̄)どこか一人になれる小屋で一人チビチビと飲み過ごすことこそボクにとっての『登山』の至高の楽しみ方だ( ゚д゚)クワッ!今夜もまた地図を眺めながら新しい山への渇望を芋焼酎で潤すのである( ゚Д゚)ウマー
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