北花内大塚古墳全景です。
墳丘長90mの前方後円墳。画像では右が後円部となります。
くびれ部が浅く、前方部の裾幅が広い、後期古墳の特徴をよく備えている古墳です。 戻る 次へ

大雨緊急企画☆古代史の謎に迫る!④「飯豊青皇女〜The first woman Emperor in Japan〜」の写真

2021.08.15(日) 10:38

北花内大塚古墳全景です。 墳丘長90mの前方後円墳。画像では右が後円部となります。 くびれ部が浅く、前方部の裾幅が広い、後期古墳の特徴をよく備えている古墳です。

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大雨緊急企画☆古代史の謎に迫る!④「飯豊青皇女〜The first woman Emperor in Japan〜」

国見山・貝吹山 (奈良)

2021.08.15(日) 日帰り

まずは今般の大雨により被害を受けられた方々へ、心よりお見舞い申し上げます。 いやー、しかしなんですね。雨、雨、雨!スゴい雨続きで参ってしまいます(~_~;) ユーザーさんの活動日記を眺めていても、近々の日記は北海道と東北ばかり(^_^;)ということは、それ以外の地域の皆さんは、雨でお盆休みを棒に振った…ということなんでしょうね。かく言う私もその一人。 普段から連休というものが劇的に少ない私にとって、GWとお盆は数少ない遠征のチャンス!…あー、それなのに、それなのに…(T-T) そこで!長らくご無沙汰をしておりました、大雨&コロナで巣篭もり生活の皆様向け緊急企画!帰ってきた「古代史の謎に迫る!」シリーズ第4弾!です(^^) 今回のテーマはズバリ、飯豊青皇女! …え?知らない?…そりゃそーです。よっぽど古代史好きでないと、彼女の名前を知っている人は少ないでしょう。また随分とマニアックな人をテーマにしたもんだ…(^_^;) しかしこの人物、私にとっては以前から興味のあった人物で、いつか必ずきちんと調べよう!と思っていたのです。なぜなら彼女は…日本で初めての女帝かもしれない! いや、日本初の女帝は推古女帝でしょ?なんていう、皆さんの声が聞こえてきます(^^) そう、一般的には日本初の女帝は推古女帝だと伝わります。しかしそれ以前に王位についた女性がいた!それが飯豊青皇女なのです。 しかも彼女はその生い立ちも人物像もまるで見えてこない、ミステリアスな謎だらけの女性。これはもう調べるしかありません! 今までの小論文は、書き溜めていたものに加筆・修正を加えて発表していましたが、今回はお盆の巣篭もり中に文献を読み返し、さらには雨を突いてフィールドワークにも出掛け書き上げた、全編書き下ろしの新作となっています!(^-^)v 少々…いや、いつもながらかなり長い文章となっています(^_^;)充分時間が有り余っている時の暇つぶしにご覧いただけると幸いです。 また歴史好きな方だけではなく、そうでない方も、これを古代史への入り口(入り口にしてはかなりマニアックですが)と捉え、ご覧いただけると大変嬉しく思います。 それでは飯豊青皇女…彼女は一体何者なのか?その謎を追って行くことにしましょう☆ *-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----* 「飯豊青皇女〜The first woman Emperor in Japan〜」 飯豊青皇女と聞いて、あー、なるほど、と思われる方は、相当な古代史マニアでしょう。ほとんどの方はその名前すら聞いたことがない、というのが普通だと思います。 ただ私はこの飯豊青皇女という女性を、日本の歴史上とても重要で画期的な人物だと考えているのです。 では飯豊青皇女という人がどのような人物なのか、その系譜から追ってみましょう。 彼女の生年は429年(允恭29年)、没年は484年(清寧5年)とされています。5世紀後半の人物ということになりますが、実はその実在性もあやふやなんですね。 『日本書紀』を紐解くと、彼女には二つの系譜が記されていることがわかります。 まず一つは履中王の皇女というものです。母親は葛城葦田宿禰の娘、黒媛。履中は仁徳王の子で、母は葛城襲津彦の娘、磐之媛。葦田宿禰は襲津彦の子なので、飯豊青皇女が生粋の葛城氏の女であることがわかります。 もう一つは市辺押磐皇子の娘というものです。母は葛城蟻臣の娘、荑媛。市辺押磐皇子は履中と黒媛の子なので、ここからも飯豊青皇女が葛城氏であることがうかがえます。彼女は市辺押磐皇子の実の妹か、もしくは娘ということになりますね。 では彼女がなぜ重要で画期的な人物なのか? 実は彼女は倭国王として即位した可能性があるんです! …とその前に、彼女の謎解きをするためには、少し葛城氏を知る必要があります。 葛城氏はその名の通り葛城山麓を基盤とする大和の豪族で、その歴史も古く経営基盤も強固な大和屈指の古豪でもあります。 その葛城氏が一気に勃興し栄華を極めたのは4世紀末から5世紀後半までのこと。襲津彦が娘である磐之媛を仁徳王に嫁がせたことに始まります。ただそこに王家の思惑があったことは見逃せません。 3世紀末に成立した初期ヤマト王権は順調に国内平定を進め、4世紀末になると国外への影響力を高めることを目指します。このグローバルな展開は、当時の東アジア情勢が大きく影響しています。 当時の日本は鉄を朝鮮半島南部の小国、任那に求めていたわけですが、北方の高句麗が南下政策を始めると、百済・新羅とともに任那にも高句麗の脅威が迫ってきたわけです。 鉄の入手ルートを死守するために日本がとった行動は、大陸の大国であった中国の冊封下に入ること…中国に服属することで後ろ盾になってもらい、朝鮮半島での日本の立場を保証してもらうことでした。 そのために王家は周囲を山に囲まれた大和を離れ、外交に有利な海に面する河内に進出することを決意したのです。 そうして河内に進出し、当時の中国(宋)に使者を派遣し、半島での日本の立場を確立したのが、教科書にも出てくる倭の五王ですね。『宋書倭国伝』に記載された倭王、「讃・珍・済・興・武」の5人です。私見では五王は履中・反正・允恭・安康・雄略に比定します。 しかし河内進出には大きなリスクがあった。 そもそもなぜ王権は大和に発生したのか?それはとりもなおさず大和が周囲を山に囲まれた天然の要害だったからです。さらには西には安全な内海である瀬戸内海に面した難波がある。そして文化の中心であった西国と東国を結ぶ中継地点でもあった。 しかし海に面した河内は弱点だらけである。 西の海からの攻撃には全く無防備だし、もし大和の勢力が東の山を越えて攻めてくれば防ぎようがない。河内は防御の点から見ると、全く丸裸だといえる。 そこで王家が考えた秘策が、葛城氏の重用であったのです。 葛城氏は葛城山系を牛耳っている。さらに同族の平群氏は生駒山系が基盤だ。葛城氏の女人を王妃に迎え縁戚関係を結び、葛城氏に絶大な権力を与えることにより、王家無き大和を盟主氏族として安定的に平定させる…そして生駒・葛城山系を鉄壁の防波堤として、西の海からの攻撃と東の大和からの攻撃の両面をを防ごうとしたわけです。 そうして葛城氏は王家に匹敵する権力を手中にし、大和の盟主として栄華の頂点を極めたのです。 一方、葛城氏に守られた王家は思惑通り宋の冊封下に入り、半島で一定の立場を確保することに成功しました。ところがその後状況は変わっていく… 元々ヤマト王権の王家は権威の象徴…権力無き王家であり、政治は豪族層の合議によって成り立っていたわけなんですが、東アジアでの日本の立場が確立されていくとともに、王家に権力が集中してきたのです。 権力を手中に収めた王家にとって、同じように権力を持った葛城氏は邪魔な存在でしかなくなってしまったわけです。 履中王、反正王と親葛城の王が続いたのですが、允恭王から葛城氏に対する激しい粛清が始まることになります。 葛城氏は襲津彦の後、葛上郡を基盤とする玉田宿禰と、葛下郡を基盤とする葦田宿禰の2系統に分かれていくわけですが、允恭王はまず玉田宿禰を殺害します。そして雄略大王…彼は中央集権国家成立を強力に押し進めた非常にアクティブな大王だったわけですが、とにかく政敵は徹底的に排除する…非情な大王でもあったのです。 雄略によって反雄略勢力…つまり葛城氏は徹底的に潰されました。玉田宿禰系統の首長であった円大臣を殺害…これによって玉田宿禰系統は滅亡。そして葦田宿禰系統の最後の切り札、市辺押磐皇子を殺害…これは実質的な葛城氏の滅亡を意味しています。王家の思惑によって絶大な権力を与えられ大和の盟主となった葛城氏…その葛城氏は今度は王家の反感を買って叩き潰されてしまったわけです。 雄略がとにかくありとあらゆる政敵を粛清した結果何が起こったか…雄略亡き後、王位を継ぐ人材がいなくなってしまったのです… 雄略の後は、子である清寧大王が即位したことになっていますが、この清寧は非常に実在性の乏しい人物です。 生まれつき白髪で、子が生まれなかったと伝わる…実在しないか、もし実在したとしても近親婚による遺伝的な異常があった…そのような人物であったのでしょう。 つまり雄略亡き後、王権は空白期間に入った。王位は途絶えたと考えざるを得ません。 雄略が亡くなった後、継体大王が即位するまでの間、『紀・記』によると4人の大王が即位したことになります。 先述した清寧に続いて、顕宗大王、仁賢大王、武烈大王ですが、誰もが実在性に乏しい人物ばかりです。強いて言えば仁賢は実在した可能性が高い。継体大王の皇后である手白香皇女の父として…王統の橋渡し役として、仁賢は実在した可能性が高いと思います。 おいおい、飯豊はいつ出てくるんだよ! そんな声もそろそろ聞こえてきました。そうですね、飯豊青皇女の話をしなければなりません。 雄略亡き後、王権は空白期間に入った。 大王のいない大和は混乱に陥った。豪族同士の勢力争いによって戦乱に発展しかねない状況だ。大王のいないままでは外交も成立しない。東アジアでの日本の立場も危うくなる。 そこで大和の豪族層が王権の空白を埋めるため白羽の矢を立てたのが、飯豊青皇女だったのです。 ではなぜ飯豊だったのか?飯豊とはどのような女性だったのか?それを確認することにしましょう。 私は飯豊青皇女を巫女的性質の強い女性だと考えています。神に仕え託宣を行うシャーマンのような人物です。 まず飯豊という名前に注目してみましょう。 飯豊とは"ふくろう"を意味します。ふくろうは古来霊鳥とされているんですね。この名前は、「ふくろうのような霊力を備えた女性」という意味を持っているんです。 そしてとても興味深いのが、この飯豊青皇女には驚くような不思議な伝承が残っているのです。 『日本書紀』清寧紀三年秋七月には、このような記述があります。 【 飯豊皇女が角刺宮で夫と初めて交わった。人に話して、「ほんの少し女の道を知ったが、どこにも異ったことはないようだ。もはや男と交わろうとは願わない。」と言った。(ここに夫が有るというのは未詳である。) 】 一体何なんでしょう、これは?というか、こう言われた男は相当落ち込んだでしょうね。私だったら、もう立ち直れない…なんて、まあ、冗談はともかく。 この記述で注目すべきは、わざわざ注釈をつけて「夫が有るというのは未詳」だと言っていることです。わざわざ注釈まで付けてこれを書くということは、つまり彼女には夫がいなかったということですね。 未婚は巫女の条件です。神に仕える巫女や斎王は、未婚の女性であることが求められるのです。 では一度だけ交わったというこの男性は何なのか?おそらく男神ではないでしょうか?一夜妻でしょう。男神と交わることで、さらにその霊力を増したのではないかと考えます。 この飯豊の巫女的性質が、彼女を王位に押し上げる決定打となった。 では王位とは全く無縁の、権力を失った葛城氏の女人がなぜ王位につくことになったのか?いよいよその謎に迫っていこうと思います。 雄略亡き後王位は空白となり大和は混乱に陥った。その時豪族層は何を考えたか。 この難局を乗り切るためには、高い実務能力を持った王をたて、権威と権力にも増して、実力をもって強力に政治を推し進めるしかない。そこに王統の連続性…その優先順位は低かったのではないかと考えられます。 そうして王位に迎えられたのが、飛び抜けた経営手腕で北陸の王者となっていた、応神五世の男大迹王であった。後の継体大王です。 大和の豪族層はこの男大迹王に全てを賭けていた。そしてこの継体の即位を新ヤマト王権の出発点だと考えていたのです。 そのために豪族層がとった行動とは? この継体の即位を、神武東征や応神東遷になぞらえて行うこと。つまり継体の即位は、王権のリセット…いや、王権のリボーンというべきか?…邪馬台国終焉の後、初期ヤマト王権が発足した時と同じように、継体の新王権をゼロから再出発させようとしたのです。 この辺りの詳細は過去に公開した活動日記、 「外出自粛企画☆古代史の謎に迫る!①「古代史最大の謎、継体大王の秘密」 https://yamap.com/activities/6243973」 に詳述していますので、ご一読いただければと思います。 ここにどう飯豊が絡んでいくのか? 一旦時を遡って邪馬台国終焉の時代の状況を見てみましょう。 卑弥呼が亡くなった後、男王が立つも国中が服さず戦乱が起こったと記録されています。この混乱を収拾するために、豪族層は卑弥呼の親戚筋の女性、台与を共立しました。この台与は卑弥呼と同じく巫女的性質を持つシャーマンの女性です。 強力な祭祀王である台与の即位によって大和の混乱は収束した。しかしながら台与が亡くなれば、また混乱が生じるかも知れない。そう考えた豪族層は台与存命中から、台与亡き後の新しい政治の秩序、システムというものの構築に奔走していたのでしょう。 そして台与が亡くなったことをきっかけに、全く新しい政治の秩序とシステムを採用した政権を発足させる。それが初期ヤマト王権だったのです。 では雄略亡き後の大和をもう一度確認してみましょう。 雄略亡き後王権は空白期間に入り、大和は混乱を極めた。その状況は卑弥呼亡き後の大和の状況と酷似している。 豪族層は新ヤマト王権の発足を画策しますが、その前に大和の混乱を抑え込む必要があった。それには台与が必要だったわけです。そしてその台与の役目を担ったのが…強力な祭祀王…シャーマンの女性…そう!飯豊青皇女だったのです!豪族層は台与の再来として、飯豊を共立したのです。 飯豊が葛城氏の女人であったことも重要です。この時すでに葛城氏は没落し権力を失っていた。没落した葛城氏の女人を即位させることで、豪族層の勢力バランスが崩れるのを防いだ…無用な争いを避けることができたのでしょう。 484年、飯豊晩年に彼女は忍海角刺宮で王位につきました。現在の御所市忍海です。執政期間はわずかに10ヶ月。『紀・記』にも執政中の事績の記載は全くありません。 ただ後に記された『扶桑略記』や『本朝皇胤紹運録』は彼女を「飯豊天皇」と記しています。 しかしそれよりも当時の大和の状況、飯豊の個性や立場を考えると、やはり飯豊青皇女は実在し、日本で初めての女帝として即位したと考えるべきではないでしょうか? 飯豊青皇女…ミステリアスなこの女性は、実は歴史の常識を覆す画期的な人物であるのかもしれません。 それでも飯豊は冷めた眼差しで、きっとこう言い放つでしょう。 「ほんの少し女帝の道を知ったが、どこにも異ったことはないようだ。もはや女帝になろうとは願わない…」 完 参考文献 『原本現代訳 日本書紀』山田宗親(ニュートンプレス) 『古事記 全訳注』次田真幸(講談社学術文庫) 『女帝と譲位の古代史』水谷千秋(文春新書) 『女帝の古代史』成清弘和(講談社現代新書) 『葛城と古代国家』門脇禎ニ(講談社学術文庫) 『謎の古代豪族葛城氏』平林章仁(祥伝社新書) 『謎の大王 継体天皇』水谷千秋(文春新書) 『卑弥呼と天皇制 王統の誕生と記紀神話』小路田泰直(洋泉社) *-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----* 一般的な常識で言えば、日本で初めての女帝は推古女帝ということになります。しかし私はどうしても飯豊青皇女が気になっていた。 この人は一体何なんだろうか?彼女こそ日本初の女帝ではないのか? 今回の小論文を執筆するにあたって参考文献を読み返し、雨の中フィールドワークを行ったことで、うやむやした気持ちは確固たる確信に変わった。 飯豊青皇女は王位についた。彼女こそ日本初の女帝であると。 卑弥呼、台与と弥生時代終末期の倭国の女王は、未婚のシャーマンだった。飯豊より後の女帝はみな既婚者で、男王が即位するまでの中継ぎ王的性格が強かった。 飯豊は卑弥呼や台与と同じ未婚のシャーマンでありながら、後世の女帝のような中継ぎ的性格も併せ持っている。 女帝の性格として中間的位置にありながら、その即位事情は台与の再来…それは復古主義によるものと言わざるをえない。彼女が特異な性質を持った女帝であることは間違いない。 彼女の姿を想像すると…冷たく冷めた眼差し…神秘的でしかも妖艶な美しい女性の姿が浮かびます。 誰が彼女から笑顔を奪ったのか…?おそらく市辺押磐皇子が殺害されたことが原因ではないでしょうか?兄を殺されて彼女は変わった…そんなことを想像してしまいます。 倭王讃こと履中王の娘でありながら、実の兄を殺され、自家は没落する…希望を失い絶望の底にいた彼女に、降って沸いたような即位要請… 王位についた彼女はどんな気持ちだったのだろうか?何を考え王位についたのだろうか?そしてその冷たい眼差しは一体何を見つめていたのだろうか? 彼女への興味は尽きない。