人生で三番目にお疲れ山の1日でした。 【全縦走】

2021.06.20(日) 日帰り

活動データ

タイム

13:01

距離

41.4km

上り

3419m

下り

3390m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
13 時間 1
休憩時間
17
距離
41.4 km
上り / 下り
3419 / 3390 m
5
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活動詳細

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六甲さんに遊んでいただいて半年が経ちました。 この遊び、今までとは少し趣が違うようで、背徳感がまったくありません。 何より、忘れていた感覚、自然の中で汗すること、陽を浴び、草木を匂ふこと、そんな素敵な時を過ごせる事に感謝です。 楽しみながらの体質改善、達成感とストレス発散、何より、ビールと飯がホントうまい! で!今日は六甲メニューの内『定期的に全縦走を試みる』を実践。 てててっ〜ーーーーと快調に須磨浦公園から出発したが、暑い、暑すぎる。 やはり俺ってめちゃくちゃバカだ! 暑い中、行動メシが喉を通らず、鍋蓋山中では、初のハンガーノックかもを経験、体から力が抜ける。 暑さと目まいと空腹感で大竜寺に緊急避難、無理矢理オニギリ捕食も体が震える。 その後、徐々に体調も回復、藤原商店より完全復調、ピュイーンと走って、遅れを取り戻し、前回に比べて全縦タイムを少しだけ短める事ができました。 『これで終わり』は寂しくなるのでわたしの思い出につき合ってくださいな🙏 40年以上も昔の六甲山での思い出を書いてみたので、おヒマなら読んでください。 【携帯電話がなく、阪神高速神戸大阪間が未開通でコンビニもまだほとんど無かった頃のお話です。】 京阪神に居を構える人にとって、六甲山には何かしら心が揺れる、思い出に残るシーンがあることと存じます。 私にも忘れることのできない出来事があり、古い昔の話をさせてください。 私が高校1年の時のお話です。 当時チョット目立ちの男子は大人にあこがれ、背伸びし、体だけが大人であることに気付かず、皆に反抗し、親には並々ならぬ気苦労をかけていました。 当時の私たち*❶の流行りの遊びは大きく分けて3つありました。 創刊したての雑誌POPEYEを片手に、アメリカンカルチャーの影響を受け、サーファーの真似をし、シティボーイの容を目指すも、お金がないので、古着屋で買った半パンTシャツ姿で近場の海岸をナンパ目的でウロウロし、女子を物色する連中*❷。 空前のディスコブームの中、映画サタデーナイトフィバーのジョントラボルタに憧れ、ステップを真似て朝までヘンテコリンな踊りをして、女子の気を引こうとする人たち*❸。 プロレーサ片山敬済の練習場で、聖地六甲山の走り屋を目指し、ガソリン代とバイク(車)の改造代でバイトに明け暮れ、マシンはゴージャスだが日々腹ペコポン、女子の前ではやたら強がるヤツら*❹とに振り分けられていました。 ただ、❹の、お腹をすかしたレーサ気取りのにーちゃんの末路は悲惨で、そのほとんどが、ガードレールの肥やしとなり、バイク(車)は逝くがローンは残る、という大変バカバカしい経験を積み、やがて、皆それぞれの道に踏み出し、社会にもまれ、その時初めて大人になることの大変さに気づきます。 暴走族が社会現象になっていた、年の瀬の寒い夜、悪友のFが 『六甲にお化け捕まえにいこ~ 』 と大変興味をそそるフレーズと共にやってきました。 私は『六甲は神戸長田の族が溜まっているから、カチ会ったらめんどうくさい』 と返すと、Fは『大丈夫、今日は寒い、だからだれもおらん』とかってな解釈。 強引に誘ってきたので根気負け『OK』と、もちろん親には内緒です。 Fは同級生で、既に中型バイクの免許をとり、納車されたばかりのピカピカの400CC を誇らしげに自慢すると、私を後部座席に乗せ、逆瀬川より六甲山へバイクを走らせました。 この日は特に寒く、すれ違う車もほとんどありません。そして上るほどにチラホラと雪が舞っています。 この時感じた寒さは私にとって生涯最強クラスのもので、『凍えて死ぬのん俺』って感じで奥歯を噛みしめ耐えていました。 しかし、私と正反対、Fは鈍感なのか全く寒そうな素振がありません。 何やら寒さの中でスキーを楽しむように、雪を喜びはしゃぎながらバイクを操つります。 しかし調子の良いのも束の間で、凍っているであろう道を免許取立てによる未熟な技術で走行、加えてバイクで挑む危険な恐ろしさを体験しました。 スリップにより転倒、私たちは車道奥の少し下がった林に投げ出されました。 幸いスピードがあまり出ていなかったため、顔には青タン手足は擦り傷程度の軽傷だったのですが、バイクは変形、雪もドンドン降ってきたので、凍結と事故の恐怖でバイクに乗って帰ることができません。 仕方がないので、バイクは路肩へ乗り捨て、救援依頼については公衆電話から、まずは友達宅に申し込みたいところですが、携帯電話のない時代、深夜の家電は弔辞を連想するので諦めました。 止む無し我が家に電話をすると、母が出たので、素直に助けてくれとも言い出せず、強がり口調で経緯を説明、六甲山頂付近で事故を起こしたが怪我はなし、心配するなと告げた瞬間10円玉がなくなり電話が切れました。 六甲山から見える町の灯はそう遠くなく、金なし知識なし体力ありの高校生の選択は、迷うことなく歩いて帰ることだったのですが、道中の寒さと空腹、それに加えてTVや映画の影響もあり 『もうダメかもとか、立ち止まるな、とか挙句は目を閉じるな』と真剣にお互いを励ましあって歩いていました。 ヒッチハイクも試しましたが、ヘルメットを持った傷だらけの汚い2人、加えて前年神戸祭り暴動殺人事件があったので車は止まってくれません。 とぼとぼと暗くて寒いドライブウェイを力なく何時間も歩きました。 すると新聞販売所に新聞を届ける2㌧ぐらいの大きさのトラックが私たちの横に止まり 『どうした 何かあったんか』と厳つい顔のお兄さんが声をかけてくれました。 事情を説明すると 『おまえらアホか、ここ歩いていたら車にひかれて死ぬぞ! 駅まで送るから、荷物の配達手伝え』と一喝。当然『ハイ』と返答、手伝うことで身体も温かくなりました。 その後、宝塚まで乗せていただき始発電車を待つことになったのですが、別れ際に 『ムチャするのも今だけや、それと父ちゃん母ちゃんに心配かけたらあかん』と説教。 言葉が身にしみるとはまさにこの時、このことばと今でも思い感じます。 続いて『バイト代や なんか食べて帰り』といって岩倉具視の青い500円札を一枚と財布の中の小銭をすこしだけ頂きました。 頂いたお金と手持ちのお金で切符を買い、残りは早朝より開いているめし屋でおなかを満たし、つぎの試練に耐える覚悟を決めたのです。 私の父母の事ですが普段はおおらかですが、子供の不始末に対しては、烈火のごとく怒るので、そのための心の準備をおこなっていたのです。 しかし目論見は拍子抜け、母親は泣いていたのか目が真っ赤で何も言わずうなずくばかり。 父親は黙って睨んでいましたが、口元は少しニヤケて 『男前になってるやんけ』と優しく迎えてくれました。 今年になって、同じ場所を43年ぶりに歩きました。人も街もおおいに変わりましたがこの地と空は昔のままです。 昨年息子が成人し私も少しは大人になれた気がします。そうですね!父さん ね!母さん、【次の休日はお墓参りにしよう】ときめました。 <番号解説> *❶ 勉強をぜんぜんしないで遊んでばかりの16歳~18歳くらいの人たちのことです。 *❷。波乗りはヘタクソなので、ファッションとして拾ってきたようなポロ板を脇に挟んでいるだけの丘サーファと呼ばれた人たちです。12月~3月は寒いのでお休みしてました。 *❸ 黒人になりたかった人が集まって、下手なダンスを踊っていたんですね。 *❹ ほとんど暴走族と呼ばれた方たちですね。 *❶~*❹すべてを駆け抜けた人は、今となっては、ほとんどがヤ〇ザ屋さんかルンペンかあの世へ逝ってるかもネ。 あァァァ・・・長かった。読んでいただけて、わたしもあなたもヤッパお暇ですね‼️

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