高遠城址散策

2021.05.15(土) 日帰り

活動データ

タイム

00:11

距離

457m

のぼり

5m

くだり

12m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
11
休憩時間
0
距離
457 m
のぼり / くだり
5 / 12 m
12

活動詳細

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高遠城址について 伊那市Webサイトより転載 高遠城の立地と構造 高遠城は、天竜川(てんりゅうがわ)水系(すいけい)最大の支流である三峰川(みぶがわ)と藤澤川(ふじさわがわ)という2つの河川の合流点に形づくられた河岸段丘(かがんだんきゅう)の上にあります。本丸の標高は約800mで、西側の城下から見ると小高い山のようになっていますが、上部は平地になっており、一般的に平山城(ひらやまじろ)と呼ばれる形の城です。三峰川に面する南側は切り立った崖(がけ)になっており、三峰川から本丸までの高低差は約80mもあり、地形の険(けわ)しさを巧(たく)みに利用した城です。 ここは諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道(つえつきかいどう)に面する交通の要衝(ようしょう)であり、伊那市街地まで一望できる高台にあることから、軍事上重要な場所に造られた城であることがわかります。 高遠城の歴史 高遠城の築城時期は? 高遠は古くから諏訪(すわ)氏の勢力圏にあり、14世紀頃(南北朝の時代)に諏訪氏から分かれた高遠氏が一円(いちえん)を治めていました。高遠城の築城年代は不明ですが、当初は高遠氏が拠点(きょてん)にしていた城だと考えられています。 武田氏と高遠城 戦国時代になると、信濃へ侵攻してきた甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)が、伊那谷攻略の足がかりとして高遠を押さえ、高遠氏から城も奪い取りました。天文(てんぶん)16年(1547)に信玄は高遠城の改修を行い、城主には秋山虎繁(あきやまとらしげ)や信玄四男の諏訪勝頼(すわかつより)が就きましたが、勝頼が武田家の後継者(こうけいしゃ)として甲府に呼び戻された後は、信玄弟の信廉(のぶかど)や信玄五男の仁科盛信(にしなもりのぶ)(信盛)が城主となっています。信玄の近親者ばかりが高遠城主になったのは、ここが南信濃支配の拠点であり、遠江(とおとうみ)、信濃、甲斐を繋(つな)ぐ交通の要所として重要視されたからだと考えられます。 高遠城の戦い(武田軍VS織田軍) 武田氏による高遠支配は35年ほど続きましたが、織田信長が勢力を拡大する中で、高遠城は武田対織田の壮絶(そうぜつ)な戦いの場となりました。 天正(てんしょう)10年(1582)3月、高遠城主であった仁科盛信は敵方の総大将であった信長の嫡男(ちゃくなん)、信忠からの降参(こうさん)の要請に応じず城に籠(こも)り、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交(まじ)えました。織田勢の大軍にひるむことなく戦った盛信でしたが、城はわずか一日と持たず、多くの家臣は討(う)ち死にし、盛信も自害(じがい)し、高遠城は落城しました。 高遠城の戦国末期 高遠城落城から時をおかず、甲斐の本国にいた武田勝頼(たけだかつより)も織田信忠に攻められ、戦国大名武田氏は滅亡しました。一方、武田氏を滅ぼした織田信長もわずか3ヵ月後に京都の本能寺(ほんのうじ)で命を落とし、支配者を相次いで失った高遠を含む信濃国全体が混乱に陥(おちい)りました。 混乱に乗じて高遠城に手を入れたのは、藤澤郷(ふじさわごう)(現在の伊那市高遠町藤沢)に本拠を置いていた武田家の旧臣、保科正直(ほしなまさなお)でした。正直は高遠城の戦いの際、城から脱け出して身を隠していましたが、本能寺の変の後、北条(ほうじょう)氏の力を借りて高遠周辺を押さえ、その後徳川家康の配下となり高遠城主となりました。 天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた家康が江戸へ移ると、保科正直も付き従い、下総(しもうさ)国多胡(たこ)(現在の千葉県香取郡多古町)へ移動しています。正直が去った後の高遠城は、秀吉政権の下、毛利(もうり)氏、京極(きょうごく)氏の領地となりましたが、城主は置かれず、代官が派遣される形で統治されました。 近世城郭としての高遠城 戦国時代(せんごくじだい)の城としてのイメージが強い高遠城ですが、現在の城跡は江戸時代が終わるまで数百年間使われた後の状況であり、近世城郭(きんせいじょうかく)としての城の姿です。戦国末期の落城で壊滅的(かいめつてき)な状態になった城は、江戸時代初期までに大改修が行われたと考えられ、城の大手(おおて)(正面入口)を東側から西側に変更したとも伝えられます。大手を西側にすることで、古くからの門前町(もんぜんまち)を城下町に取り込む形となり、城とともに城下町の再編成が行われたのです。 江戸時代の高遠城主 江戸時代の高遠城は、高遠藩(たかとおはん)(石高(こくだか)3万3千石)の政庁となり、明治5年(1872)の廃城まで約270年間、保科(ほしな)氏、鳥居(とりい)氏、内藤(ないとう)氏という三家の大名が入れ替(か)わりで城主に就(つ)きました。 特に元禄(げんろく)4年(1691)から明治維新(めいじいしん)まで、最も治世(ちせい)が長かった内藤氏については、古文書や記録、絵図など多岐(たき)にわたる資料が地域に残されています。内藤氏の時代になると、藩主の生活拠点は江戸になり、江戸城でのお勤めを中心に日々の生活を送っていました。藩主が参勤交代(さんきんこうたい)で高遠へ帰ってくるのは数年に一度でしたが、政務(せいむ)のかたわら、村々を回ったり、猪狩(いのししが)りに行ったり、鵜飼(うかい)、魚採(と)り、花火などの見物に出かけるなどしています。豊かな自然と美しい景色に囲まれた高遠城での生活は、藩主にとって息抜きともいえる時間だったと思われます。江戸へ帰る間際、夏空の雲を眺(なが)めながら高遠を離れるのが名残惜(なごりお)しいと和歌を詠(よ)んだお殿様もいました。

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