活動データ
タイム
03:54
距離
4.5km
のぼり
464m
くだり
461m
活動詳細
すべて見る4都府県への「緊急事態宣言」発出🚨に連携するかのように宮城県の「まん防」も延長…😳 そのため予約していたヒコーキ✈️が欠航になり、またしても岐阜に帰れなくなった訳で…🤯 さすがに飛山濃水の故郷が恋しくなってきました😢 岐阜に戻れたら真っ先に岐阜城金華山に登るつもりでした🥾 全山を覆うように生えるツブラジイ🌳の花が初夏の日を受けて金色に輝く様子は、 まさに「黄金の華咲く山✨」という名前にふさわしい光景で、毎年楽しみにしていました😢 その「金華山(きんかさん)」が宮城にもあることを強く意識したのは仙台に赴任してきてから😅 宮城の金華山のことは何となく聞いたことはあったのですが、 長く東海地方に居て、ましてや岐阜に住んでいると、 斎藤道三や織田信長の居城があった「金華山(きんかざん)」こそ、 本家本元の金華山である❗️と思い、宮城の金華山のことはほぼ眼中にありませんでした😑 だがしかし、仙台転勤が決まってから宮城県のお山⛰のことも調べているうちに、 こちらの金華山こそが「元祖」なのではなかろうか⁉️と思い至るようになりました🤭 宮城県の金華山は実は海に浮かぶ島🏝なのですが、その開山の歴史は奈良時代にまで遡ります🧐 聖武天皇が大仏建立を進めている時、この陸奥の地から日本で最初の黄金✨が出たことを祝って 金華山に「黄金山神社」が建立されました⛩ 時に天平勝宝2年(西暦750年)のことです🌟 以来、金運開運商売繁盛、また航海安全大漁祈願に霊験あらたかな神として崇め奉られ、 奥州の三大霊場(金華山・出羽三山・恐山)として篤い信仰を集めてきた霊山霊島なのでした⚡️ 岐阜の金華山と同じ名前を持つお山ゆえ、一度は訪れてみたいと願うようになりました😆 でもこの金華山、離島の上に信仰のお山ということもあってアクセスに難があります😵 上陸するにはもっぱら船便🛥を頼ることになりますが、定期便もチャーターも全て予約制⚠️ その定期便は週1回日曜日のみ出航で、しかも滞在できる時間はわずか2時間🤯 そうです、船は黄金山神社参拝用であり登山客のために出ている訳では無いのです😓 山頂に登拝するには神社に泊まる(参籠)以外に手段がなく、頭を抱えていました😩 そんな時に偶然にもこの金華山を日帰りで登るツアーを見つけました 🤩 渡りに船とはこのことか、まさに天佑、これぞ僥倖‼️と喜び勇んで申し込みをしました😁 コロナ禍で開催が危ぶまれましたが、ツアー会社の尽力で無事に開催挙行となりました👍🏻 その金華山ツアーの顛末は毎度のことながら、フォトライブラリに綴らせていただきました😊 みなさまの金華山登拝、黄金山神社参拝のお役に立てれば良いのですが🙂 ありがとうございました😌 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ ここから先は、陸奥アユム探険隊⛑シリーズ第2弾、 「宮城の金華山と岐阜の金華山のつながり」についての仮説(妄想ともいう😅)です📚 このふたつの金華山の関係を考察したものは意外にも全く無くて、 それならば自分で調べて考えるしかない😤と無謀な試みをしてしまいました😅 ご興味ある方、暇を持て余している方、 超長文ですが、妄想ミステリー🕵🏻♂️にお付き合いいただけましたら幸いです🙇🏻♂️ ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【ふたつの金華山】 宮城の金華山と岐阜の金華山(便宜上、以降は奥州金華山、美濃金華山と記します) 奇しくも全く名前が同じお山ですが何かしらのつながりはあるのでしょうか⁉️ 今回はじめて奥州金華山に上陸していろいろ見て回りましたが、 現地で美濃金華山と直接的に結びつくものを見つけることは出来ませんでした ではこの二つの金華山は偶然同じ名前が付いたということなのでしょうか🤨 自分はそうは思っていません この二つの山それぞれの成り立ちや伝説を知ると、必ず関係があると思えてくるのです 長くなりますが、それらをご紹介していきます💁🏻♂️ ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【奥州の金華山とその縁起】 まずは奥州金華山について✨ 聖武天皇の御世に大仏建立が国家的事業として進められていました この大仏こそがあの東大寺にある「奈良の大仏」なのはいうまでもありません 今の大仏さまは残念ながら当時のオリジナルではありませんが全身が金色に輝いています 聖武天皇も大仏さまを金色に光り輝かせたいと思っていましたが、 当時の日本では金が採れず、金が欲しければ全て中国や朝鮮から調達する必要がありました⚡️ そんな中、都から陸奥国に派遣されていた百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が 陸奥国内で大量の金を発見し奈良の都に送るという出来事が起こりました その金は砂金で、諸説ありますが今の宮城県涌谷町で産出したものだそうです 日本国内ではじめて採れた金によって奈良の大仏さまは黄金色に輝いたのです 中世には外国から日本=黄金の国ジパングと認識されていましたが、 その華やかなイメージも、奥州藤原氏の中尊寺金色堂の輝きも、全てここから始まったのです✨ 話がそれました😅 黄金が産出されて大仏完成に弾みがつき聖武天皇はたいそう喜ばれました 国中がお祝いムードとなる中、その立役者となったこの陸奥国においても慶事を記念し、 陸奥の沖に浮かぶ秀麗な姿をした島に黄金山神社を創建して神々に感謝を捧げたのでした 神社の縁起によれば、この祝事を詠った万葉歌人・大伴家持の和歌から、 それまで「みちのく山」という名だった島の名は「金花山」または「金華山」となったそうです 陸奥国の黄金産出を祝って造られた黄金山神社は今でも 「三年続けてお詣りすれば、金に不自由はさせますまい」 といわれていて、その多大な御神徳にあやかろうという参詣者が後を絶たないのでした🙏🏻 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【美濃の金華山とその伝説①】 そして美濃金華山です✨ 昔は「稲葉山」とか「一石山」とも呼ばれたのですが今は金華山として定着しています 金華山と呼ばれる様になったのには諸説ありますが、 一番しっくり来るのは、 初夏、ツブラジイの花で全山黄金色に輝くさまを指して名付けられたという説です✨ ただ、金華山にツブラジイが生えてきたのは江戸時代以降のこととされています それ以前はアカマツ林に覆われた山であり、織田信長によって要塞化された山でした ということは、山の様子だけで「金華山」と名付けられる可能性は低かったことでしょう やはり昔は一石山とか稲葉山と呼ばれる時が長かったのだと思います🧐 では奥州と美濃の金華山をつなぐことなど夢まぼろしなのでしょうか それを解くカギは美濃に伝わる伝説にあると思います その内容は東大寺に伝わる『東大寺縁起絵巻』とかなり被っているようですが、 おおまかには次のようなものです💁🏻♂️ 『大仏建立を願う聖武天皇は全国に使いを出して腕の良い仏師を探させた 美濃国に派遣された使者が芥見の願成寺(今は中将姫誓願桜で名高い)でお告げを得る 「明朝そなたが最初に出会う者こそ、探し求めていた人物であろうぞ」 翌日、使者は長良川河畔を歩いていて雄総という場所で一人の牛飼いの少年と出会う まさかな、と思いつつもお告げに従って仏像を作らせてみると、あまりの出来に驚いた この少年こそ大仏を作り上げる者となると信じた使者は少年を都に連れ帰った そしてこの少年は聖武天皇から大仏師に任命され、やがて見事に大仏を作り上げたのである👍🏻』 この少年は日野金丸(ひののきんまろ)と言い、大仏の完成後には美濃国に戻り、 使者と出会った雄総の地に護国寺(今の護国之寺)を建て、 死後はその寺の本尊である千手観音となったとも伝わります 「奈良の大仏」を作ったのが美濃国、岐阜の少年だったなんて本当に驚きました😆 この金丸が大仏開眼供養の際に聖武天皇から下賜されたという金の鉢が護国之寺に現存します 「金銅獅子唐草文鉢」というお供物を入れる器で岐阜市で唯一の国宝として名高いそうです✨ 『東大寺縁起絵巻』や岐阜の伝説ではこの日野金丸が大仏を作り上げたのですが、 国の正史『続日本紀』では国中公麻呂(くになかのきみまろ)という人物がそれに当たります この公麻呂には伝説を裏付けるようなエピソードは残っていないようですが、 名前の響きだけはかなり似ているので「日野金丸同一人物説」を取りたいところですね🤔 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【日野金丸の生涯】 長くなりましたが、もう少しこらえてください🙇🏻♂️ 日野金丸が開眼供養を終えご褒美の金鉢を携えて美濃の雄総に帰った頃(752年)には 実は奈良の大仏さまはまだ完全には出来上がっていませんでした 黄金のメッキも光背も施されておらず、それらが全て整ったのは771年のこと (金メッキは757年に完了したとされているそうです) 雄総の里に帰って護国寺を開いて20年近くの歳月が経っていました😳 少年時代にスカウトされて平城京に上った時、彼がいくつだったか知るよしはありません 今の東大寺のある場所ではじめて大仏が造られ始めたのが745年とされていますから、 仮にその時に18歳くらいだったとして、大仏開眼供養まで7年なので25歳くらい さらに大仏さまの全身に陸奥国から送られた金が塗られるまで5年経ち30歳 18歳で都に出てから全てが完成するまで26年の歳月、彼は44歳となっていました🤭 先ほどの国中公麻呂は774年没との記録が残っています 彼が日野金丸と同一人物だとすると、一連の試算で行けば金丸は47歳で死去したことになる ちょうど今の私と同じ歳なので書いていても胸が痛むのですが、 奈良時代の平均寿命は30歳前後というのですから、この推測もあながち間違いでもなさそうです 日野金丸と国中公麻呂は、やはり同一人物とみなして良いのではないでしょうか🤔 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【美濃の金華山とその伝説②】 また、美濃金華山はかつて「一石山」と呼ばれたこともあったと書きましたが、 この一石山というのはあたかも金華山全体が硬い一枚岩で出来ているような特徴から出たようです 確かに、硬いチャート質で出来た金華山にはふさわしい名前のようにも思います そしてこの一石山にも伝説がありました😃 『昔むかし、雄総の地に住んでいた少年がちっとも親のいうことを聞かないので、 ついには勘当されて家を飛び出した 少年は諸国を放浪しやがて東山道の最果て陸奥国にたどり着き金華山に上陸 しばらくこの霊島に篭ったが、やがて改心してどうしても親に会いたくなった 何かの土産にと金華山の石を持って帰ることにしたが、 「ここは霊山なので何も持って出てはならない」という巫女のお告げがあったのに、 それを無視して石を持って美濃国に帰ってしまった 美濃国で再会した親にその話をすると「お前は何も改心していない」とたいそう怒り、 少年が持ち帰ってきた金華山の石をつかんで長良川の向こう岸に投げつけてしまった その翌朝、驚いたことに対岸に一夜にして巨大な岩山が出来上がっていた 恐れおののいた少年はこれ以降、本当に心をあらためて暮らしたそうな こうして出来た石の山を地元の人々は一石山と呼び、後に金華山と名付け大切にした👍🏻』 陸奥国の金華山の石からできたのが美濃国の金華山、とても面白くて興味深い話ですよね これは古くから両国の交流があったことを伝えているのだろうと思われます 古代の幹線であった東山道は陸奥国府多賀城からさらに先までも通じており、 それは恵那山の神坂峠も越えて美濃どころか奈良の都ともつながっていたのです 現在の私たちが思うよりも古代の人々はダイナミックに交流していたようです この少年はもしかすると美濃国から陸奥国へ砂金掘りに行っていたのかもしれませんね🤔 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【つながるふたつの金華山】 いよいよこの妄想に妄想を重ねた考察の結論です😤 ✔️奥州金華山と美濃金華山は奈良時代、大仏建立で大いに繋がっていた ✔️当時の奥州は大仏を飾る黄金を産出し、美濃国は大仏造立の仏師や人夫を供給した そんな所から地域の交流も生まれ美濃国から陸奥国へ砂金掘りの出稼ぎに行った者もいたかも ✔️日野金丸は、仏師として作った大仏さまを金色に輝かせ完成させた奥州産の黄金に感謝し、 そのことを一生涯忘れないために黄金山神社のある奥州金華山を、 一石山とも呼ばれ雄総の対岸にそびえ立つ美濃金華山と重ね合わせて崇めた ✔️時の帝から黄金の鉢を賜るような郷土の偉人の話はこの里の人々に長く伝わった それで「金華山」という名前も、その発祥の理由は定かではなくとも現代まで残ってきた👍🏻 東大寺大仏建立には、奥州と美濃の人々が大きく関わり支えていたのです 隠れた歴史の舞台、サイドストーリーにはいつも驚かされます✨ ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 【戦国コソコソ噂話】 我田引水の感が強過ぎる妄想論ですが、奥州と美濃をつなぐ歴史ロマンが見えてきました 奈良時代だけでなく、戦国時代でもその勢いは止まりません😏 伊達政宗が治めた仙台藩にある金華山、政宗は領国経営のために金山開発に熱心でした 織田信長のいた岐阜城金華山、信長は宣教師達から黄金の国ジパングの王とみなされていました 奇しくも、奥州と美濃を本拠にした二人の戦国覇者も「黄金」でつながるのです 遠く離れた宮城と岐阜ですが、 こうして考えていると昔からずっと知っていた場所のような、 今こうしてここで仕事するのが必然だったようにも思えてきます😚 ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨ 奇想天外、荒唐無稽な妄想の垂れ流し、大変失礼いたしました🙇🏻♂️ 最後までお付き合いいただいた方、厚く御礼申し上げます🙏🏻 最後は奈良時代の歌人、大伴家持が金華山を取り上げた歌を捧げて締め括りたいと思います😌 ”すめろぎの 御代栄むと 東なる みちのく山に 金花咲く” ✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨
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