活動データ
タイム
05:19
距離
11.4km
のぼり
829m
くだり
829m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る🍒gotoみちのく 第1週 福島市2日目 安達太良(あだたら)山 週明け5日の午前。石垣空港は平時を彷彿とさせる賑わいで、ちょっと意外だった。 関空経由で仙台空港着。ここも仙台駅も定禅寺通も、訪れるたびに色々な映像や音声が頭の中を錯綜して、ちと感傷的になる。 いい思い出も、つらい思い出も、同じくらいあるなぁ。 空港で車を借りた。3週間の相棒。こいつと一緒に無事に戻って来られますように。 後ろ髪を引かれる思いで、1泊目の福島市に移動した。午後8時30分着。次の裏磐梯までは宿泊予約済み。その先は未定。とにかく寝た。 🚗 🚗 🚗 🚗 🚗 きょう6日が実質スタート日になる。 1月の関東、2月の阿蘇くじゅうに続く雪山初級編3時間目だが、アイゼン付きフル登山を経験できたのは赤城山だけだ。 石垣島では好天を選んで動けるが、旅人になると、天気予報と毎日にらめっこになる。 7日までは良さそうなので、メジャー系を一気に登ろう。一発目は安達太良山周回だ。 あだたら高原登山口までやって来た。ロープウェイで標高差390mを稼げるが、来週までは平日運休。3週間分の体力温存の観点からは、ちと痛い。 ロープウェイに乗れば必然的に時計回りになるが、斜度を考えて逆回りにした。直近の日記を読むと「残雪」という感じなので、4本爪をバッグに入れていた。 すると、駐車場で格好いい装備のジェントルマンに会い、コースの状態や装備について世間話をした。影響されやすい石垣市民は、4本爪を10本爪に替えた。 🥾 🥾 🥾 🥾 🥾 肝心の登山のほうは、過去最高レベルの体験になった。いい意味でも、悪い意味でも。 ハートを鷲づかみにされたのは、合計数百mの雪面トラバース個所。初めての体験で、歩を進めるのがもったいなかった。 安達太良山の山頂からは、磐梯山、飯豊連峰、吾妻山が三役そろい踏み。 登山客は道中ちらほらという程度で、ほぼ独占状態で満喫できるのもいい。 下りは、逆回りを選んだのが吉と出た。 上りが緩やか、下りが急という組み合わせになるが、いい状態の雪に完全に覆われた登山道では、駆け滑るが如く下山できる。 "BC"なるものを嗜む猛者たちの気持ちを、ほんの少しだけ理解できた。 ⛄ ⛄ ⛄ ⛄ ⛄ ところが、調子に乗っていたら、警戒していたはずの「踏み抜き」をやってしまった。しかも2回。 1回目は右のすねを打ち、その場でしばし悶絶。かすり傷が出来た。 2回目は登山口目前。今度は派手に転倒し、左ももにあざを作った。 みちのくの師匠から助言を受けていたのに、調子に乗ったヘタレ石垣市民が阿呆だった。 でも、言わせてほしい。トレースをきちんと辿っていても、踏み抜く時は踏み抜く。こんなの、ロシアンルーレットみたいなものだ。 それにしても、初日に軽傷とはいえ傷を二つもこしらえたのは深刻。 石垣島ぶざま岳で襲われて以来ヒルという生命体がトラウマになっていたが、きょう新たに「踏み抜き」が加わったのであった。 ちなみに、アイゼンは終日不要だった。アイゼンの選択も難しい…… 📌私的なメモ 2011年3月11日金曜日は、仙台市のオフィス街にいた。 その前月、東京から引っ越してきたばかりの「謎の組織」メンバー。仙台支店みたいなところ?で、マネジメントの見習いみたいなこと?を始めていた。 その日は忙しくもなく、暇でもなく、午前9時半ごろ出勤し、ランチの後、午後2時ごろビル2階に戻った。東北担当のボス、相棒1人、庶務3人がいて、他は出払っていた。 塩釜、石巻、気仙沼、大崎、白石の各市に駐在する仲間たちも、それぞれ働いていた。 そのチーム宮城の実務をまとめる日替わり当番だった。 決めるべきこと、頼むべきこと、もろもろの段取りのメドがつき、淡々と実行するだけだ。当番日は深夜まで仕事。でも、きょうは楽勝だ ─── 🕐️ 🕝️ 🕓️ 🕠️ 🕖️ 午後2時46分。その瞬間の記憶はない。 机の下に自分がいて、四つん這いの体が上下左右に跳ね続けたのは、よく覚えている。重機のような轟音。とても長く感じた。 なぜか建物は持ちこたえている。そのお陰で、自分は意外に冷静だったと思っていた。 隣の机の下にいた相棒から、かなり後になって聞いた。四つん這いの私は「やべえよ、やべえよ」と叫んでいたという。 破壊的で絶望的な揺れが収まった後、バルコニーに出た。普段は喫煙所。 人々が大通りに出て、おろおろしていた。 しかし、ビル群に目立った損傷がない。火事もない。あれ? 「よかったあ。思ったよりも、たいしたことない」。それが、私の見立てだった。 こういう事態に奮い立ち、向かっていくのが、この「謎の組織」の社会的使命だ。休みは吹っ飛ぶけど、よくあること。しょせん「時間の問題」という認識だった。 🕖️ 🕣️ 🕙️ 🕦️ 🕚️ それから後の記憶は、時系列がぐちゃぐちゃになっていて、たどれない。 「津波」「福島」の第一報をいつ、どこで聞いたか。どう理解したか。 食事はできたのか。眠ったのか、眠らなかったのかも、覚えていない。 遠方の大切な人たちへの連絡は、数日間できなかったはずだ。 🕑️ 🕡️ 🕓️ 🕜️ 🕕️ これが、我が3月11日。 震源がずれて、津波さえなければ、途方もなく甘かった見立ても、それほど外れていなかったかもしれない。 「津波さえなければ」 このやり場のない痛恨の思いは、10年たっても燻り続ける。
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