こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。

東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。

藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。

奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。

藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。 戻る 次へ

観音坂十一面観音磨崖仏〜大神田阿弥陀不動双体磨崖仏〜藤尾城跡の写真

2021.03.10(水) 15:43

こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。 東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。 藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。 奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。 藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。

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