観音坂十一面観音磨崖仏〜大神田阿弥陀不動双体磨崖仏〜藤尾城跡

2021.03.10(水) 日帰り

笠置山周辺の石仏を巡った後、藤尾城を見てきました。

民家の庭先へ入り込むような路地を辿って、打滝川の左岸(西側)を南へ歩くと、事務所か倉庫のような建物に突き当たります。観音坂十一面観音磨崖仏へは、その裏手の道を登ります。

https://www.openstreetmap.org/#map=18/34.75052/135.93523

民家の庭先へ入り込むような路地を辿って、打滝川の左岸(西側)を南へ歩くと、事務所か倉庫のような建物に突き当たります。観音坂十一面観音磨崖仏へは、その裏手の道を登ります。 https://www.openstreetmap.org/#map=18/34.75052/135.93523

民家の庭先へ入り込むような路地を辿って、打滝川の左岸(西側)を南へ歩くと、事務所か倉庫のような建物に突き当たります。観音坂十一面観音磨崖仏へは、その裏手の道を登ります。 https://www.openstreetmap.org/#map=18/34.75052/135.93523

観音坂十一面観音磨崖仏への山道は、あちこちプラスチックの板と鉄の棒で階段が整備されていて、思いの外人の手が入っていました。この道は、かつては狭川あるいは阪原へ抜ける山越えの街道だったそうです。確認していませんが、現在は木津川カントリークラブで行き止まりとなっているようです。

観音坂十一面観音磨崖仏への山道は、あちこちプラスチックの板と鉄の棒で階段が整備されていて、思いの外人の手が入っていました。この道は、かつては狭川あるいは阪原へ抜ける山越えの街道だったそうです。確認していませんが、現在は木津川カントリークラブで行き止まりとなっているようです。

観音坂十一面観音磨崖仏への山道は、あちこちプラスチックの板と鉄の棒で階段が整備されていて、思いの外人の手が入っていました。この道は、かつては狭川あるいは阪原へ抜ける山越えの街道だったそうです。確認していませんが、現在は木津川カントリークラブで行き止まりとなっているようです。

観音坂十一面観音磨崖仏(室町中期)。

観音坂十一面観音磨崖仏(室町中期)。

観音坂十一面観音磨崖仏(室町中期)。

お供えがまだ新しく、地元の方が定期的にお世話されているようでした。

お供えがまだ新しく、地元の方が定期的にお世話されているようでした。

お供えがまだ新しく、地元の方が定期的にお世話されているようでした。

般若台六角堂の説明板。建久4(1193)年、興福寺から笠置寺に隠棲した解脱上人貞慶は、翌建久5(1194)年、書写の完成した大般若経一部六百巻を納めるため般若台に六角堂を建立しました。般若台六角堂は板葺六角三間で、本尊は文殊菩薩だったと伝わります。

般若台六角堂の説明板。建久4(1193)年、興福寺から笠置寺に隠棲した解脱上人貞慶は、翌建久5(1194)年、書写の完成した大般若経一部六百巻を納めるため般若台に六角堂を建立しました。般若台六角堂は板葺六角三間で、本尊は文殊菩薩だったと伝わります。

般若台六角堂の説明板。建久4(1193)年、興福寺から笠置寺に隠棲した解脱上人貞慶は、翌建久5(1194)年、書写の完成した大般若経一部六百巻を納めるため般若台に六角堂を建立しました。般若台六角堂は板葺六角三間で、本尊は文殊菩薩だったと伝わります。

六角堂遺構図。

六角堂遺構図。

六角堂遺構図。

六角堂遺構。

六角堂遺構。

六角堂遺構。

近くに東屋がありました。

近くに東屋がありました。

近くに東屋がありました。

付近をうろうろしていたところ、写真が撮りたいだろうからとおっしゃって、わざわざ写らない場所に移動してくださったご夫婦。いい方々でした。

付近をうろうろしていたところ、写真が撮りたいだろうからとおっしゃって、わざわざ写らない場所に移動してくださったご夫婦。いい方々でした。

付近をうろうろしていたところ、写真が撮りたいだろうからとおっしゃって、わざわざ写らない場所に移動してくださったご夫婦。いい方々でした。

このあたりには般若台の堂舎僧坊があったと思われる平坦地が、車道の東側に、階段状に連なっています。

このあたりには般若台の堂舎僧坊があったと思われる平坦地が、車道の東側に、階段状に連なっています。

このあたりには般若台の堂舎僧坊があったと思われる平坦地が、車道の東側に、階段状に連なっています。

寺院跡と思われる平坦地の車道近くに、五輪塔の残欠が埋もれていました。空輪・風輪と火輪だと思います。実範上人御廟塔や西小共同墓地五輪塔と同程度のかなり大きなものです。もしかすると水輪と地輪もこの辺りに埋もれているかもしれません。組み直したら、立派なものになるだろうと思います。

寺院跡と思われる平坦地の車道近くに、五輪塔の残欠が埋もれていました。空輪・風輪と火輪だと思います。実範上人御廟塔や西小共同墓地五輪塔と同程度のかなり大きなものです。もしかすると水輪と地輪もこの辺りに埋もれているかもしれません。組み直したら、立派なものになるだろうと思います。

寺院跡と思われる平坦地の車道近くに、五輪塔の残欠が埋もれていました。空輪・風輪と火輪だと思います。実範上人御廟塔や西小共同墓地五輪塔と同程度のかなり大きなものです。もしかすると水輪と地輪もこの辺りに埋もれているかもしれません。組み直したら、立派なものになるだろうと思います。

かさぎゴルフ倶楽部から北にすぐ、坂を上りきったあたりにある道標。「史の道ハイキングコース」の看板の右側に「石あて地蔵(台座のみ)」があります。この看板の左側に、道標がありますが、大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏へは、看板と道標の間から、古い道の痕跡をたどって谷底へ下りて行きます。

かさぎゴルフ倶楽部から北にすぐ、坂を上りきったあたりにある道標。「史の道ハイキングコース」の看板の右側に「石あて地蔵(台座のみ)」があります。この看板の左側に、道標がありますが、大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏へは、看板と道標の間から、古い道の痕跡をたどって谷底へ下りて行きます。

かさぎゴルフ倶楽部から北にすぐ、坂を上りきったあたりにある道標。「史の道ハイキングコース」の看板の右側に「石あて地蔵(台座のみ)」があります。この看板の左側に、道標がありますが、大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏へは、看板と道標の間から、古い道の痕跡をたどって谷底へ下りて行きます。

石あて地蔵。

下記は「かさぎ探訪ナビ 伝説いろいろ」から。
http://www.town.kasagi.lg.jp/contents_detail.php?frmId=494

「◆石あて地蔵◆ 「笠置寺住職より」

 笠置町と柳生の間の道端に、ずっとむかしから「石あて地蔵」というお地蔵様が祀られていました。このお地蔵さまにはこんな話が伝えられています。

 そのむかし、元弘の変で笠置山に逃れてきた後醍醐天皇を北条方か追ってきたときのことです。

 目の前に刀を突き付けられた村人が、恐怖のあまり「天皇は笠置山です」と教え、さらに「この道を通って行ける」と道案内までしてしまいました。そのため、北条方が攻めてきて、後醍醐天皇は捕えられ、あげく笠置山は焼けてしまいました。

 村人は村の衆から「お前のせいだ」と散々責め立てられた上に、悪いことをした罰にと、村人の姿を石に掘ってその地蔵に石を当てようと決めました。

 それから長い間、そこを通るときはみんなが石を投げつけたので、いつの間にかお地蔵さまが隠れてしまうほど石が積み重なってしまいました。

 しばらくしてから、このお地蔵さまの前の道を広げることになり、お地蔵さまをこの場所から動かす作業が始まりました。積み重なった石を取り除いてみると、そこにお地蔵さまの姿はなく、台座だけが出てきました。

 さすがに、村の衆も、道案内をした村人の姿をお地蔵さまにして石を当てることはできなかったのでしょうか。そこにはもともとお地蔵さまはなく、台座だけ掘って石を当てていたのです。

 台座だけの石あて地蔵は、広げた道のそばに今もそっとお祀りされています。」

石あて地蔵。 下記は「かさぎ探訪ナビ 伝説いろいろ」から。 http://www.town.kasagi.lg.jp/contents_detail.php?frmId=494 「◆石あて地蔵◆ 「笠置寺住職より」  笠置町と柳生の間の道端に、ずっとむかしから「石あて地蔵」というお地蔵様が祀られていました。このお地蔵さまにはこんな話が伝えられています。  そのむかし、元弘の変で笠置山に逃れてきた後醍醐天皇を北条方か追ってきたときのことです。  目の前に刀を突き付けられた村人が、恐怖のあまり「天皇は笠置山です」と教え、さらに「この道を通って行ける」と道案内までしてしまいました。そのため、北条方が攻めてきて、後醍醐天皇は捕えられ、あげく笠置山は焼けてしまいました。  村人は村の衆から「お前のせいだ」と散々責め立てられた上に、悪いことをした罰にと、村人の姿を石に掘ってその地蔵に石を当てようと決めました。  それから長い間、そこを通るときはみんなが石を投げつけたので、いつの間にかお地蔵さまが隠れてしまうほど石が積み重なってしまいました。  しばらくしてから、このお地蔵さまの前の道を広げることになり、お地蔵さまをこの場所から動かす作業が始まりました。積み重なった石を取り除いてみると、そこにお地蔵さまの姿はなく、台座だけが出てきました。  さすがに、村の衆も、道案内をした村人の姿をお地蔵さまにして石を当てることはできなかったのでしょうか。そこにはもともとお地蔵さまはなく、台座だけ掘って石を当てていたのです。  台座だけの石あて地蔵は、広げた道のそばに今もそっとお祀りされています。」

石あて地蔵。 下記は「かさぎ探訪ナビ 伝説いろいろ」から。 http://www.town.kasagi.lg.jp/contents_detail.php?frmId=494 「◆石あて地蔵◆ 「笠置寺住職より」  笠置町と柳生の間の道端に、ずっとむかしから「石あて地蔵」というお地蔵様が祀られていました。このお地蔵さまにはこんな話が伝えられています。  そのむかし、元弘の変で笠置山に逃れてきた後醍醐天皇を北条方か追ってきたときのことです。  目の前に刀を突き付けられた村人が、恐怖のあまり「天皇は笠置山です」と教え、さらに「この道を通って行ける」と道案内までしてしまいました。そのため、北条方が攻めてきて、後醍醐天皇は捕えられ、あげく笠置山は焼けてしまいました。  村人は村の衆から「お前のせいだ」と散々責め立てられた上に、悪いことをした罰にと、村人の姿を石に掘ってその地蔵に石を当てようと決めました。  それから長い間、そこを通るときはみんなが石を投げつけたので、いつの間にかお地蔵さまが隠れてしまうほど石が積み重なってしまいました。  しばらくしてから、このお地蔵さまの前の道を広げることになり、お地蔵さまをこの場所から動かす作業が始まりました。積み重なった石を取り除いてみると、そこにお地蔵さまの姿はなく、台座だけが出てきました。  さすがに、村の衆も、道案内をした村人の姿をお地蔵さまにして石を当てることはできなかったのでしょうか。そこにはもともとお地蔵さまはなく、台座だけ掘って石を当てていたのです。  台座だけの石あて地蔵は、広げた道のそばに今もそっとお祀りされています。」

石あて地蔵から谷底までは、古い道の痕跡が残っています。

石あて地蔵から谷底までは、古い道の痕跡が残っています。

石あて地蔵から谷底までは、古い道の痕跡が残っています。

谷底はかつて水田だったため、ジメジメしていて、ところどころ水の流れがありますが、ぬかるんだ場所はそれほどなく、足元に注意を払えば、問題なく歩行できます。もし、水田が放棄された後、植林されなかったら、この場所は笹藪に覆われた沼地のようになってしまっていたと思います。そうなっていたら、谷底を歩くのは難しかったにちがいありません。

谷底はかつて水田だったため、ジメジメしていて、ところどころ水の流れがありますが、ぬかるんだ場所はそれほどなく、足元に注意を払えば、問題なく歩行できます。もし、水田が放棄された後、植林されなかったら、この場所は笹藪に覆われた沼地のようになってしまっていたと思います。そうなっていたら、谷底を歩くのは難しかったにちがいありません。

谷底はかつて水田だったため、ジメジメしていて、ところどころ水の流れがありますが、ぬかるんだ場所はそれほどなく、足元に注意を払えば、問題なく歩行できます。もし、水田が放棄された後、植林されなかったら、この場所は笹藪に覆われた沼地のようになってしまっていたと思います。そうなっていたら、谷底を歩くのは難しかったにちがいありません。

平坦で広い谷底をしばらく歩くと、谷の真ん中に二階建ての家ほどもある巨大な岩が見えてきました。

「南山城 石仏の里を歩く」の著者である石田正道さんは、「ふるさと案内かも」で当尾などの案内人をされていることがあり、いろいろお話を伺う機会があったのですが、石田さんは「この辺りはどこを下りても全て同じ谷に集まる。その谷を少し歩くと谷の真ん中に大きな岩があるからすぐわかる」とおっしゃっていました。

まさにその通りで、谷の真ん中の大岩は遠目にも異様な存在感を放っていました。

平坦で広い谷底をしばらく歩くと、谷の真ん中に二階建ての家ほどもある巨大な岩が見えてきました。 「南山城 石仏の里を歩く」の著者である石田正道さんは、「ふるさと案内かも」で当尾などの案内人をされていることがあり、いろいろお話を伺う機会があったのですが、石田さんは「この辺りはどこを下りても全て同じ谷に集まる。その谷を少し歩くと谷の真ん中に大きな岩があるからすぐわかる」とおっしゃっていました。 まさにその通りで、谷の真ん中の大岩は遠目にも異様な存在感を放っていました。

平坦で広い谷底をしばらく歩くと、谷の真ん中に二階建ての家ほどもある巨大な岩が見えてきました。 「南山城 石仏の里を歩く」の著者である石田正道さんは、「ふるさと案内かも」で当尾などの案内人をされていることがあり、いろいろお話を伺う機会があったのですが、石田さんは「この辺りはどこを下りても全て同じ谷に集まる。その谷を少し歩くと谷の真ん中に大きな岩があるからすぐわかる」とおっしゃっていました。 まさにその通りで、谷の真ん中の大岩は遠目にも異様な存在感を放っていました。

巨大な岩を左(西)側から見たところ。岩のところで地面が崖のように切れ落ち、染み出した水が大岩の下に流れ込んでいました。

巨大な岩を左(西)側から見たところ。岩のところで地面が崖のように切れ落ち、染み出した水が大岩の下に流れ込んでいました。

巨大な岩を左(西)側から見たところ。岩のところで地面が崖のように切れ落ち、染み出した水が大岩の下に流れ込んでいました。

巨大な岩の右(東)側に回ると、目指す大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏が見えてきました。

巨大な岩の右(東)側に回ると、目指す大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏が見えてきました。

巨大な岩の右(東)側に回ると、目指す大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏が見えてきました。

写真だとわかりにくいですが、石仏の四角い枠は、真下に立って手を伸ばしても全然届かない高さにあります。

写真だとわかりにくいですが、石仏の四角い枠は、真下に立って手を伸ばしても全然届かない高さにあります。

写真だとわかりにくいですが、石仏の四角い枠は、真下に立って手を伸ばしても全然届かない高さにあります。

大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏。阿弥陀如来と不動明王が並んで彫られています。室町時代後期の作風とされます。

大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏。阿弥陀如来と不動明王が並んで彫られています。室町時代後期の作風とされます。

大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏。阿弥陀如来と不動明王が並んで彫られています。室町時代後期の作風とされます。

かつてはこの大岩の前に、下流へ続く道があったのかもしれませんが、今は岩の前に水の流れがあり、山の急斜面を巻く細い獣道を歩くしかありません。

ところで、この写真は下流側から上流側を撮影したものです。大岩より上流の地面が一段高くなっているのがわかると思います。

つまり、この大岩が天然の砂防ダムとなって、上流の土砂を堰き止め、この大岩より上流に、谷底が平坦な谷を形作ったように見えます。

ちなみにこの大岩より下流は、大小の岩が散らばり、とても耕作可能には思えませんでした。

このあたりを大神田(オオジンダ)と言うそうですが、この大岩が磐座として信仰されていたとすれば、まさにこの大岩が水田を作り出したわけですから、実にこの地にふさわしい名前だと思います。

かつてはこの大岩の前に、下流へ続く道があったのかもしれませんが、今は岩の前に水の流れがあり、山の急斜面を巻く細い獣道を歩くしかありません。 ところで、この写真は下流側から上流側を撮影したものです。大岩より上流の地面が一段高くなっているのがわかると思います。 つまり、この大岩が天然の砂防ダムとなって、上流の土砂を堰き止め、この大岩より上流に、谷底が平坦な谷を形作ったように見えます。 ちなみにこの大岩より下流は、大小の岩が散らばり、とても耕作可能には思えませんでした。 このあたりを大神田(オオジンダ)と言うそうですが、この大岩が磐座として信仰されていたとすれば、まさにこの大岩が水田を作り出したわけですから、実にこの地にふさわしい名前だと思います。

かつてはこの大岩の前に、下流へ続く道があったのかもしれませんが、今は岩の前に水の流れがあり、山の急斜面を巻く細い獣道を歩くしかありません。 ところで、この写真は下流側から上流側を撮影したものです。大岩より上流の地面が一段高くなっているのがわかると思います。 つまり、この大岩が天然の砂防ダムとなって、上流の土砂を堰き止め、この大岩より上流に、谷底が平坦な谷を形作ったように見えます。 ちなみにこの大岩より下流は、大小の岩が散らばり、とても耕作可能には思えませんでした。 このあたりを大神田(オオジンダ)と言うそうですが、この大岩が磐座として信仰されていたとすれば、まさにこの大岩が水田を作り出したわけですから、実にこの地にふさわしい名前だと思います。

上流からの水は、岩の下を潜り抜け、右下の穴から流れ出てきます。

上流からの水は、岩の下を潜り抜け、右下の穴から流れ出てきます。

上流からの水は、岩の下を潜り抜け、右下の穴から流れ出てきます。

岩の下にある岩窟。ジュリーによく似た長髪の先生なら、ここから異界に入って行きそうですが、一人では怖かったので中に入るのはやめました。

岩の下にある岩窟。ジュリーによく似た長髪の先生なら、ここから異界に入って行きそうですが、一人では怖かったので中に入るのはやめました。

岩の下にある岩窟。ジュリーによく似た長髪の先生なら、ここから異界に入って行きそうですが、一人では怖かったので中に入るのはやめました。

谷を登り返しても良かったのですが、そのまま下ることにしました。

「南山城 石仏の里を歩く」著者の石田正道さんに「阿弥陀不動双体磨崖仏から谷筋を下ると、笠置寺から解脱上人墓地へ向かう墓地道の、六地蔵があるところへ出てくる」と教えていただいたからなんですが、道はなく、途中に砂防ダムもあって、あまり安全とは言い難いルートです。同じルートを行く場合はどうぞ無理をせず、危なそうなら引き返してください。

谷を登り返しても良かったのですが、そのまま下ることにしました。 「南山城 石仏の里を歩く」著者の石田正道さんに「阿弥陀不動双体磨崖仏から谷筋を下ると、笠置寺から解脱上人墓地へ向かう墓地道の、六地蔵があるところへ出てくる」と教えていただいたからなんですが、道はなく、途中に砂防ダムもあって、あまり安全とは言い難いルートです。同じルートを行く場合はどうぞ無理をせず、危なそうなら引き返してください。

谷を登り返しても良かったのですが、そのまま下ることにしました。 「南山城 石仏の里を歩く」著者の石田正道さんに「阿弥陀不動双体磨崖仏から谷筋を下ると、笠置寺から解脱上人墓地へ向かう墓地道の、六地蔵があるところへ出てくる」と教えていただいたからなんですが、道はなく、途中に砂防ダムもあって、あまり安全とは言い難いルートです。同じルートを行く場合はどうぞ無理をせず、危なそうなら引き返してください。

六地蔵の小川を隔てて反対(西)側にある地蔵石仏。この岩の川側、下の方にもう一体地蔵石仏が彫られています。

六地蔵の小川を隔てて反対(西)側にある地蔵石仏。この岩の川側、下の方にもう一体地蔵石仏が彫られています。

六地蔵の小川を隔てて反対(西)側にある地蔵石仏。この岩の川側、下の方にもう一体地蔵石仏が彫られています。

墓地道六地蔵。

墓地道六地蔵。

墓地道六地蔵。

裏面川縁地蔵石仏。

裏面川縁地蔵石仏。

裏面川縁地蔵石仏。

貞慶上人のお墓。地元では「上人墓(しょうにんばか)」と呼ばれているそうです。

貞慶は承元2(1208)年、観音信仰に関心を持ち、海住山寺に移りました。そして建暦3(1213)年、貞慶は海住山寺で入寂しました。59歳でした。

海住山寺にも貞慶のお墓があります。おそらくゆかりの深い両寺で分骨したものと思われます。

貞慶上人のお墓。地元では「上人墓(しょうにんばか)」と呼ばれているそうです。 貞慶は承元2(1208)年、観音信仰に関心を持ち、海住山寺に移りました。そして建暦3(1213)年、貞慶は海住山寺で入寂しました。59歳でした。 海住山寺にも貞慶のお墓があります。おそらくゆかりの深い両寺で分骨したものと思われます。

貞慶上人のお墓。地元では「上人墓(しょうにんばか)」と呼ばれているそうです。 貞慶は承元2(1208)年、観音信仰に関心を持ち、海住山寺に移りました。そして建暦3(1213)年、貞慶は海住山寺で入寂しました。59歳でした。 海住山寺にも貞慶のお墓があります。おそらくゆかりの深い両寺で分骨したものと思われます。

墓地には貞慶上人のお墓とよく似た形式のお墓がもう一基あります。どなたのお墓かは、わかりませんでした。

墓地には貞慶上人のお墓とよく似た形式のお墓がもう一基あります。どなたのお墓かは、わかりませんでした。

墓地には貞慶上人のお墓とよく似た形式のお墓がもう一基あります。どなたのお墓かは、わかりませんでした。

墓地道の地蔵磨崖仏。

墓地道の地蔵磨崖仏。

墓地道の地蔵磨崖仏。

下狭川磨崖仏。

下狭川磨崖仏。

下狭川磨崖仏。

下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。

この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。

下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。 この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。

下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。 この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。

中墓寺から少し坂を下ったところにある地蔵石仏。家と家の間の草むらに埋もれています。

中墓寺から少し坂を下ったところにある地蔵石仏。家と家の間の草むらに埋もれています。

中墓寺から少し坂を下ったところにある地蔵石仏。家と家の間の草むらに埋もれています。

下狭川城跡。土塁と空堀でしょうか。奥の切岸の上に、昭和初年まで、狭川氏のお屋敷があったそうです。

下狭川城跡。土塁と空堀でしょうか。奥の切岸の上に、昭和初年まで、狭川氏のお屋敷があったそうです。

下狭川城跡。土塁と空堀でしょうか。奥の切岸の上に、昭和初年まで、狭川氏のお屋敷があったそうです。

下狭川城跡。

下狭川城跡。

下狭川城跡。

狭川家の屋敷跡。現第223世東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる狭川明俊師は、ここにあったお屋敷から東大寺まで通っておられたそうです。明俊師は、東大寺の第201世別当を勤められました。

狭川家の屋敷跡。現第223世東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる狭川明俊師は、ここにあったお屋敷から東大寺まで通っておられたそうです。明俊師は、東大寺の第201世別当を勤められました。

狭川家の屋敷跡。現第223世東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる狭川明俊師は、ここにあったお屋敷から東大寺まで通っておられたそうです。明俊師は、東大寺の第201世別当を勤められました。

下狭川城趾にある、「狭川家累趾」の石碑。側面と裏面の碑文によると、昭和11(1936)年に、狭川明俊師が狭川家元祖四百年忌に建立したものだそうです。

下狭川城趾にある、「狭川家累趾」の石碑。側面と裏面の碑文によると、昭和11(1936)年に、狭川明俊師が狭川家元祖四百年忌に建立したものだそうです。

下狭川城趾にある、「狭川家累趾」の石碑。側面と裏面の碑文によると、昭和11(1936)年に、狭川明俊師が狭川家元祖四百年忌に建立したものだそうです。

天皇神社の階段。元は八王寺牛頭天王社でしたが、明治の神仏分離で天皇神社に変えられたとのことです。

天皇神社の階段。元は八王寺牛頭天王社でしたが、明治の神仏分離で天皇神社に変えられたとのことです。

天皇神社の階段。元は八王寺牛頭天王社でしたが、明治の神仏分離で天皇神社に変えられたとのことです。

平成20(2008)年に再建された社殿。

平成20(2008)年に再建された社殿。

平成20(2008)年に再建された社殿。

天保十(1839)年に造立された「八王子牛頭天皇」の銘がある灯籠。その横に灯籠の竿の部分がありますが、そこに「中ノ川村/施主 久保田喜太郎」と書かれています。この場所に中ノ川村から灯籠が奉納されていたことは意外でした。何か中ノ川村で流行病でもあって、それで牛頭天王に疫病退散をお願いしたのでしょうか。

天保十(1839)年に造立された「八王子牛頭天皇」の銘がある灯籠。その横に灯籠の竿の部分がありますが、そこに「中ノ川村/施主 久保田喜太郎」と書かれています。この場所に中ノ川村から灯籠が奉納されていたことは意外でした。何か中ノ川村で流行病でもあって、それで牛頭天王に疫病退散をお願いしたのでしょうか。

天保十(1839)年に造立された「八王子牛頭天皇」の銘がある灯籠。その横に灯籠の竿の部分がありますが、そこに「中ノ川村/施主 久保田喜太郎」と書かれています。この場所に中ノ川村から灯籠が奉納されていたことは意外でした。何か中ノ川村で流行病でもあって、それで牛頭天王に疫病退散をお願いしたのでしょうか。

ため池。このため池の西側の山が藤尾城趾です。ため池から西側のどこを登っても藤尾城趾です。

藤尾城趾は、1991年に永井隆之氏によって発見されました。

ため池。このため池の西側の山が藤尾城趾です。ため池から西側のどこを登っても藤尾城趾です。 藤尾城趾は、1991年に永井隆之氏によって発見されました。

ため池。このため池の西側の山が藤尾城趾です。ため池から西側のどこを登っても藤尾城趾です。 藤尾城趾は、1991年に永井隆之氏によって発見されました。

かなり深い空堀。

かなり深い空堀。

かなり深い空堀。

土塁の跡。

土塁の跡。

土塁の跡。

こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。

東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。

藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。

奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。

藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。

こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。 東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。 藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。 奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。 藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。

こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。 東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。 藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。 奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。 藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。

藤尾城趾の南端は、現在奈良柳生カントリークラブの敷地となっており、一部はグリーンの下に埋れています。

この付近には、かつて薬師堂があり、薬師堂は狭川地域では最も古い建築だったと言われます。明治時代に、この薬師堂は、本尊の薬師如来坐像とともに、現在の中墓寺に移されました。

現在中墓寺に、この薬師堂はなく、新たに建てられた収蔵庫が薬師堂として使われています。

ところで、薬師堂跡周辺には室町時代の磨崖仏や石仏が点在していたといいます。

薬師堂跡にあった石仏には、地蔵菩薩像(桃山)、自然石彫込六地蔵菩薩像(室町)、磨崖阿弥陀如来像(磨崖線刻不動明王像)、自然石梵字種字碑(室町)などがあるようです。

しかし、これらの石仏は、現在ゴルフ場の敷地内にある「石仏公園」に安置されているため、柵の外からは、後ろ姿しか見られませんでした。ゴルフをプレーしない限り見学できないそうです。

藤尾城趾の南端は、現在奈良柳生カントリークラブの敷地となっており、一部はグリーンの下に埋れています。 この付近には、かつて薬師堂があり、薬師堂は狭川地域では最も古い建築だったと言われます。明治時代に、この薬師堂は、本尊の薬師如来坐像とともに、現在の中墓寺に移されました。 現在中墓寺に、この薬師堂はなく、新たに建てられた収蔵庫が薬師堂として使われています。 ところで、薬師堂跡周辺には室町時代の磨崖仏や石仏が点在していたといいます。 薬師堂跡にあった石仏には、地蔵菩薩像(桃山)、自然石彫込六地蔵菩薩像(室町)、磨崖阿弥陀如来像(磨崖線刻不動明王像)、自然石梵字種字碑(室町)などがあるようです。 しかし、これらの石仏は、現在ゴルフ場の敷地内にある「石仏公園」に安置されているため、柵の外からは、後ろ姿しか見られませんでした。ゴルフをプレーしない限り見学できないそうです。

藤尾城趾の南端は、現在奈良柳生カントリークラブの敷地となっており、一部はグリーンの下に埋れています。 この付近には、かつて薬師堂があり、薬師堂は狭川地域では最も古い建築だったと言われます。明治時代に、この薬師堂は、本尊の薬師如来坐像とともに、現在の中墓寺に移されました。 現在中墓寺に、この薬師堂はなく、新たに建てられた収蔵庫が薬師堂として使われています。 ところで、薬師堂跡周辺には室町時代の磨崖仏や石仏が点在していたといいます。 薬師堂跡にあった石仏には、地蔵菩薩像(桃山)、自然石彫込六地蔵菩薩像(室町)、磨崖阿弥陀如来像(磨崖線刻不動明王像)、自然石梵字種字碑(室町)などがあるようです。 しかし、これらの石仏は、現在ゴルフ場の敷地内にある「石仏公園」に安置されているため、柵の外からは、後ろ姿しか見られませんでした。ゴルフをプレーしない限り見学できないそうです。

ジョーセン地蔵。地蔵堂があり石仏が集められていますが、ここにある石仏は、なぜか奈良市の調査報告書に記載がありません。

ジョーセン地蔵。地蔵堂があり石仏が集められていますが、ここにある石仏は、なぜか奈良市の調査報告書に記載がありません。

ジョーセン地蔵。地蔵堂があり石仏が集められていますが、ここにある石仏は、なぜか奈良市の調査報告書に記載がありません。

ジョーセン地蔵。瘡(クサ)地蔵とも呼ばれ、皮膚の病にご利益があるとのこと。

ジョーセン地蔵。瘡(クサ)地蔵とも呼ばれ、皮膚の病にご利益があるとのこと。

ジョーセン地蔵。瘡(クサ)地蔵とも呼ばれ、皮膚の病にご利益があるとのこと。

夕暮れの笑い仏。

夕暮れの笑い仏。

夕暮れの笑い仏。

笑い仏脇のお地蔵さんは、晴れた日の夕方訪れると、いつもよりちょっと目鼻がわかりますね。なんとも愛らしいです。

笑い仏脇のお地蔵さんは、晴れた日の夕方訪れると、いつもよりちょっと目鼻がわかりますね。なんとも愛らしいです。

笑い仏脇のお地蔵さんは、晴れた日の夕方訪れると、いつもよりちょっと目鼻がわかりますね。なんとも愛らしいです。

笑い仏脇のお地蔵さん。

笑い仏脇のお地蔵さん。

笑い仏脇のお地蔵さん。

民家の庭先へ入り込むような路地を辿って、打滝川の左岸(西側)を南へ歩くと、事務所か倉庫のような建物に突き当たります。観音坂十一面観音磨崖仏へは、その裏手の道を登ります。 https://www.openstreetmap.org/#map=18/34.75052/135.93523

観音坂十一面観音磨崖仏への山道は、あちこちプラスチックの板と鉄の棒で階段が整備されていて、思いの外人の手が入っていました。この道は、かつては狭川あるいは阪原へ抜ける山越えの街道だったそうです。確認していませんが、現在は木津川カントリークラブで行き止まりとなっているようです。

観音坂十一面観音磨崖仏(室町中期)。

お供えがまだ新しく、地元の方が定期的にお世話されているようでした。

般若台六角堂の説明板。建久4(1193)年、興福寺から笠置寺に隠棲した解脱上人貞慶は、翌建久5(1194)年、書写の完成した大般若経一部六百巻を納めるため般若台に六角堂を建立しました。般若台六角堂は板葺六角三間で、本尊は文殊菩薩だったと伝わります。

六角堂遺構図。

六角堂遺構。

近くに東屋がありました。

付近をうろうろしていたところ、写真が撮りたいだろうからとおっしゃって、わざわざ写らない場所に移動してくださったご夫婦。いい方々でした。

このあたりには般若台の堂舎僧坊があったと思われる平坦地が、車道の東側に、階段状に連なっています。

寺院跡と思われる平坦地の車道近くに、五輪塔の残欠が埋もれていました。空輪・風輪と火輪だと思います。実範上人御廟塔や西小共同墓地五輪塔と同程度のかなり大きなものです。もしかすると水輪と地輪もこの辺りに埋もれているかもしれません。組み直したら、立派なものになるだろうと思います。

かさぎゴルフ倶楽部から北にすぐ、坂を上りきったあたりにある道標。「史の道ハイキングコース」の看板の右側に「石あて地蔵(台座のみ)」があります。この看板の左側に、道標がありますが、大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏へは、看板と道標の間から、古い道の痕跡をたどって谷底へ下りて行きます。

石あて地蔵。 下記は「かさぎ探訪ナビ 伝説いろいろ」から。 http://www.town.kasagi.lg.jp/contents_detail.php?frmId=494 「◆石あて地蔵◆ 「笠置寺住職より」  笠置町と柳生の間の道端に、ずっとむかしから「石あて地蔵」というお地蔵様が祀られていました。このお地蔵さまにはこんな話が伝えられています。  そのむかし、元弘の変で笠置山に逃れてきた後醍醐天皇を北条方か追ってきたときのことです。  目の前に刀を突き付けられた村人が、恐怖のあまり「天皇は笠置山です」と教え、さらに「この道を通って行ける」と道案内までしてしまいました。そのため、北条方が攻めてきて、後醍醐天皇は捕えられ、あげく笠置山は焼けてしまいました。  村人は村の衆から「お前のせいだ」と散々責め立てられた上に、悪いことをした罰にと、村人の姿を石に掘ってその地蔵に石を当てようと決めました。  それから長い間、そこを通るときはみんなが石を投げつけたので、いつの間にかお地蔵さまが隠れてしまうほど石が積み重なってしまいました。  しばらくしてから、このお地蔵さまの前の道を広げることになり、お地蔵さまをこの場所から動かす作業が始まりました。積み重なった石を取り除いてみると、そこにお地蔵さまの姿はなく、台座だけが出てきました。  さすがに、村の衆も、道案内をした村人の姿をお地蔵さまにして石を当てることはできなかったのでしょうか。そこにはもともとお地蔵さまはなく、台座だけ掘って石を当てていたのです。  台座だけの石あて地蔵は、広げた道のそばに今もそっとお祀りされています。」

石あて地蔵から谷底までは、古い道の痕跡が残っています。

谷底はかつて水田だったため、ジメジメしていて、ところどころ水の流れがありますが、ぬかるんだ場所はそれほどなく、足元に注意を払えば、問題なく歩行できます。もし、水田が放棄された後、植林されなかったら、この場所は笹藪に覆われた沼地のようになってしまっていたと思います。そうなっていたら、谷底を歩くのは難しかったにちがいありません。

平坦で広い谷底をしばらく歩くと、谷の真ん中に二階建ての家ほどもある巨大な岩が見えてきました。 「南山城 石仏の里を歩く」の著者である石田正道さんは、「ふるさと案内かも」で当尾などの案内人をされていることがあり、いろいろお話を伺う機会があったのですが、石田さんは「この辺りはどこを下りても全て同じ谷に集まる。その谷を少し歩くと谷の真ん中に大きな岩があるからすぐわかる」とおっしゃっていました。 まさにその通りで、谷の真ん中の大岩は遠目にも異様な存在感を放っていました。

巨大な岩を左(西)側から見たところ。岩のところで地面が崖のように切れ落ち、染み出した水が大岩の下に流れ込んでいました。

巨大な岩の右(東)側に回ると、目指す大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏が見えてきました。

写真だとわかりにくいですが、石仏の四角い枠は、真下に立って手を伸ばしても全然届かない高さにあります。

大神田(オオジンダ)阿弥陀不動双体磨崖仏。阿弥陀如来と不動明王が並んで彫られています。室町時代後期の作風とされます。

かつてはこの大岩の前に、下流へ続く道があったのかもしれませんが、今は岩の前に水の流れがあり、山の急斜面を巻く細い獣道を歩くしかありません。 ところで、この写真は下流側から上流側を撮影したものです。大岩より上流の地面が一段高くなっているのがわかると思います。 つまり、この大岩が天然の砂防ダムとなって、上流の土砂を堰き止め、この大岩より上流に、谷底が平坦な谷を形作ったように見えます。 ちなみにこの大岩より下流は、大小の岩が散らばり、とても耕作可能には思えませんでした。 このあたりを大神田(オオジンダ)と言うそうですが、この大岩が磐座として信仰されていたとすれば、まさにこの大岩が水田を作り出したわけですから、実にこの地にふさわしい名前だと思います。

上流からの水は、岩の下を潜り抜け、右下の穴から流れ出てきます。

岩の下にある岩窟。ジュリーによく似た長髪の先生なら、ここから異界に入って行きそうですが、一人では怖かったので中に入るのはやめました。

谷を登り返しても良かったのですが、そのまま下ることにしました。 「南山城 石仏の里を歩く」著者の石田正道さんに「阿弥陀不動双体磨崖仏から谷筋を下ると、笠置寺から解脱上人墓地へ向かう墓地道の、六地蔵があるところへ出てくる」と教えていただいたからなんですが、道はなく、途中に砂防ダムもあって、あまり安全とは言い難いルートです。同じルートを行く場合はどうぞ無理をせず、危なそうなら引き返してください。

六地蔵の小川を隔てて反対(西)側にある地蔵石仏。この岩の川側、下の方にもう一体地蔵石仏が彫られています。

墓地道六地蔵。

裏面川縁地蔵石仏。

貞慶上人のお墓。地元では「上人墓(しょうにんばか)」と呼ばれているそうです。 貞慶は承元2(1208)年、観音信仰に関心を持ち、海住山寺に移りました。そして建暦3(1213)年、貞慶は海住山寺で入寂しました。59歳でした。 海住山寺にも貞慶のお墓があります。おそらくゆかりの深い両寺で分骨したものと思われます。

墓地には貞慶上人のお墓とよく似た形式のお墓がもう一基あります。どなたのお墓かは、わかりませんでした。

墓地道の地蔵磨崖仏。

下狭川磨崖仏。

下狭川磨崖仏。「奈良県史 第七巻 石造美術」297ページによると、三体彫られた磨崖仏のうち中央の阿弥陀如来像の左右に「天文八年(1539) 己亥 二月十五日 与三郎」と刻まれているそうです。阿弥陀如来像の左右は地蔵菩薩像です。 この磨崖仏は、街道が集落のある谷あいの平地から、川沿いの道へ入るところにあります。道の保全と道中の安全を願ったものでしょうか。

中墓寺から少し坂を下ったところにある地蔵石仏。家と家の間の草むらに埋もれています。

下狭川城跡。土塁と空堀でしょうか。奥の切岸の上に、昭和初年まで、狭川氏のお屋敷があったそうです。

下狭川城跡。

狭川家の屋敷跡。現第223世東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる狭川明俊師は、ここにあったお屋敷から東大寺まで通っておられたそうです。明俊師は、東大寺の第201世別当を勤められました。

下狭川城趾にある、「狭川家累趾」の石碑。側面と裏面の碑文によると、昭和11(1936)年に、狭川明俊師が狭川家元祖四百年忌に建立したものだそうです。

天皇神社の階段。元は八王寺牛頭天王社でしたが、明治の神仏分離で天皇神社に変えられたとのことです。

平成20(2008)年に再建された社殿。

天保十(1839)年に造立された「八王子牛頭天皇」の銘がある灯籠。その横に灯籠の竿の部分がありますが、そこに「中ノ川村/施主 久保田喜太郎」と書かれています。この場所に中ノ川村から灯籠が奉納されていたことは意外でした。何か中ノ川村で流行病でもあって、それで牛頭天王に疫病退散をお願いしたのでしょうか。

ため池。このため池の西側の山が藤尾城趾です。ため池から西側のどこを登っても藤尾城趾です。 藤尾城趾は、1991年に永井隆之氏によって発見されました。

かなり深い空堀。

土塁の跡。

こちらも土塁の跡。藤尾城の土塁は、各曲輪の東側と、どちらかとえば北側に築かれていました。 東側には道があります。そして北側には、下狭川城があります。 藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、北側の土塁の方が高いのは不自然です。 奈良市史では、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが、実際に現地を見ると、こちらの説に説得力を感じました。 藤尾城の南側は、薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのではないかと思います。

藤尾城趾の南端は、現在奈良柳生カントリークラブの敷地となっており、一部はグリーンの下に埋れています。 この付近には、かつて薬師堂があり、薬師堂は狭川地域では最も古い建築だったと言われます。明治時代に、この薬師堂は、本尊の薬師如来坐像とともに、現在の中墓寺に移されました。 現在中墓寺に、この薬師堂はなく、新たに建てられた収蔵庫が薬師堂として使われています。 ところで、薬師堂跡周辺には室町時代の磨崖仏や石仏が点在していたといいます。 薬師堂跡にあった石仏には、地蔵菩薩像(桃山)、自然石彫込六地蔵菩薩像(室町)、磨崖阿弥陀如来像(磨崖線刻不動明王像)、自然石梵字種字碑(室町)などがあるようです。 しかし、これらの石仏は、現在ゴルフ場の敷地内にある「石仏公園」に安置されているため、柵の外からは、後ろ姿しか見られませんでした。ゴルフをプレーしない限り見学できないそうです。

ジョーセン地蔵。地蔵堂があり石仏が集められていますが、ここにある石仏は、なぜか奈良市の調査報告書に記載がありません。

ジョーセン地蔵。瘡(クサ)地蔵とも呼ばれ、皮膚の病にご利益があるとのこと。

夕暮れの笑い仏。

笑い仏脇のお地蔵さんは、晴れた日の夕方訪れると、いつもよりちょっと目鼻がわかりますね。なんとも愛らしいです。

笑い仏脇のお地蔵さん。