鷹ノ巣山〜霧氷花〜

2021.03.07(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
6 時間 38
休憩時間
19
距離
17.2 km
上り / 下り
1572 / 1818 m
2 17
13
15
16
19
19
14
1
37

活動詳細

すべて見る

 奥多摩駅に着いて先ずやるべきことは、用を足すことである。この先は避難小屋までトイレがない。トイレに行った後、少し遅れて乗り込んだバスの座席はほぼ埋まっていて、一人掛けのシートがひとつだけ空いていた。前の座席にはオッサンが座っている。そこしか空いていないので選択肢はないし特に問題もない。俺はそこに座った。これが間違いだった。バスが走り出してからこのオッサン頻繁にきつめの寝ぐせのついた頭をガシガシ掻き始めた。掻きむしると言った方がいいかも知れない。さっき奥多摩駅で一緒に降りた女はいいスタイルだったなぁ、などと反芻していると、目の前でガシガシくる。なので折角のプレイバックが吹っ飛んでしまう。しかし俺だったら絶対こんな掻き方はしない。もっと優しくしないと大事な毛が抜けるじゃないか。しかしながらこのオッサン、髪の毛は豊富だった。ガシガシと毛髪量は無関係だ。悔しいが認めざるを得ない。  オッサンがきつめの寝ぐせが付いた頭をガシガシしようがしまいが、バスは淡々と進んでゆく。多摩湖の北側、国道411号線はトンネルが多いが、その中の一つに『女の湯トンネル』という何ともいかした名前のトンネルがある。このトンネルにバスが差し掛かった時、出口付近の反対車線に軽のパトカーが停車しパトライトを回しているのが見えた。その前には赤い誘導灯を持った警官が何故か薄笑いを浮かべて立っている。バスがその横を通り過ぎるとき、一台の軽のワゴンが横倒しになっているのが見えた。何でこんな真っ直ぐのところで横転するのだろう。もしかして『女の湯トンネル』の銘板を二度見してしまい事故ったのか。警官の不気味な薄笑いが何かを物語っていた。  バスが終点峰谷バス停に到着した。終点で降りたのはソロ女一人、ソロ男一人、カップル一組、そして俺だった。ソロ女は元TBSワシントン支局長を準強姦で訴えたジャーナリスト伊藤詩織に似ていて、バレーボール選手を思わせる体格だった。背が高く均整がとれ、山登りで鍛え抜かれた下半身からは力強さを感じる。前触れもなく彼女が先頭を歩き始めた。ソロ詩織の後ろにソロ男が続く。ソロ男はシャレオツなウェアに身を包む草食系のイケメン。そしてその後に続くカップルは不思議な格好だった。男は黒いザックを背負うも下はジーンズ。女もジーンズを履き淡いグレーのスウェット地のパーカーを着て白いデニムのショルダーバッグを襷掛けにしていた。こいつらもしかして鷹ノ巣山を舐めてるのか。登山道に入る前に追い越したが、その後のカップルの消息は不明だ。  ここの登山道の入口は少々分かりにくい。が、登山道に誘う案内がポイントポイントで設置されているので、そう迷うことは無い。登山道に至る脇道に入った時、ソロ詩織の姿は無くソロ男の姿だけが見えた。鷹ノ巣山までの道中に集落があるが、どうやら詩織は集落まで続く舗装道路をそのまま行ったらしい。次の脇道で今度はソロ男が間違えた。彼はすぐに気が付いたらしく駆け足で戻ってくる。その間に俺が前に出てしまった。前に出た以上追い越されるのは不愉快だ。俺はいつもよりもややペースをあげ大股で進む。だが、振り返れば奴がいる。そして数分進む。そして振り返れば奴がいる。この調子で数回振り返るが、奴はいた。しつこい奴め。後ろにピッタリ付かれると無駄に神経を使う。更にピッチを上げ歯を食いしばり足元だけを見つめて登ること20分。振り返ると、とっくに奴はいなかった。完全に撒いたのだった。  集落を通り抜け登山道に入ってゆき、途中にある神社で山行の安全を祈る。ここから尾根へ向けてはやや急な斜面になっていた。標高が上がるにつれ空気がしめり、霧が濃くなっていく。そしてようやく尾根に出ると少し広い丘のようになっていて、そこはシイタケ栽培のホダ場だった。濃霧の中、無数のホダ木が無言で立ち並ぶ様子はシュールですらあった。皆同じ方向にひれ伏し祈りを捧げた姿勢のまま息絶えているかのような光景。また、コマ打ちされたホダ木は草間彌生の蕁麻疹のようなオブジェを思い起こさせた。  ホダ場の辺りで頭に冷たいものが落ちてきた。霜だな、今日は気温が低いから霜も降りるだろうと考えていると、枝が少し白くなっていることに気付く。これは・・・霧氷か!周りを見渡せば霧氷が溶け始めて蜘蛛の糸のように垂れ下がっていたり、葉っぱの周囲が白くなっていたりしている。これは急がねば、終わらないうちに上に行こうと焦り始めた。しかしシャレオツなウェアに身を包む草食系のイケメンとの無言の格闘が俺の体力を削ぎ落していた。心は焦るが足が思うように出ない。結局普通のペースで歩を進めるしかなかった。  避難小屋までの道のり、標高とともに霧氷の美しさのレベルが上がってゆく。避難小屋に至り山頂方向を臨むと、それはファンタジーとオカルトが融合した空間だった。幻想的とはこういう景色のことかもしれない。この空間のすべてを写し取りたいと思うのだ。俺は頂上を目指し歩きながらこの景色を夢中で切り取っていった。そして一本の白樺の大木が目に留まる。これが異常な美しさだった。真っ白な濃霧の中、真っ白な樹皮と真っ白な霧氷ですべて真っ白な姿は妖しい魅力で俺を虜にした。俺は興奮していた。そしてグラビアカメラマンにでもなった気分で思わず「綺麗だよぉ、美人さんだねぇ」と呟き、シャッターを切った。その時背後に気配を感じる。振り返れば奴がいた。シャレオツなウェアに身を包む草食系のイケメンがこちらを向いて、申し訳なさそうな所在無さげな表情で立っていた。聞かれてしまった、最も聞かれたくない男に・・・。俺は俯きしばらくの間恥辱に耐えねばならなかった。  頂上の十数歩手前で『鷹ノ巣山』と刻まれているであろう後ろ姿の山頂標識が視界に入る。その右脇には3人の既婚者らしき女性たちがたむろいていて、そのお仲間の一人がスマホで山頂標識を撮るところだった。この女性、お世辞抜きで美人だった。おっ、綺麗な人だなぁ、と正直思ったが、次の瞬間、疲れているから俺もさっさと山頂標識撮ってランチにしよう、と考えた。しかしこの女性、写真を撮った後もそこを動かない。しかし、どいてくれないと写真が取れない。俺は彼女を見つめたまま奥様3人がたむろする横に呆然と立ち尽くす。疲れているので無駄な動きをしたくない俺は、「早くどいてくれ」と念じつつ30秒くらい見つめ続けた。しかし全く動く気配がない。そのうち、俯き加減ではにかんだような微笑をし始めた。えっ、あれっ、そういうんじゃなくて・・・だが、はにかんだ表情なんか見せられて俺もまんざらでもない感情が湧き上がってくるではないか。事態は壮大な勘違いへ向け動き始めていた。その場を覆う妙な空気に奥様たちの一人が異常を感じ取ったらしく、俺に向けてやや刺々しい口調で「こんにちは~」と挨拶してきた。俺は標識前の彼女を見つめたまま奥様に挨拶を返した。ここにきて彼女に何かが伝わったらしい。ようやく動いてくれた。俺は呪縛が解け、山頂標識を写真に収めることができた。あのままあと1分も放置されたら、結婚を申し込んでいたかもしれない。美人恐るべし。  ガスに覆われているので山頂からの眺望は皆無だった。次の日は普通に仕事だったし早めに帰らなければならないので、昼食の後すぐに山頂を後にした。下山も濃霧の中、霧氷のファンタジーロードが延々と続いていく。下り始めてしばらくして前髪が長い男と遭遇した。彼の頭を見て思わず、「頭が凍っていますよ」と伝えた。正確に言うと頭は凍ってはいない。前髪に霧氷がついて白くなっていたのだ。「さっき小雪がちらついていて~、枝が頭に当たるところがあって~それで~」などと言っていたが、小雪でなくて霧氷が舞っていたのだろうし、濃霧の中を歩いていて普通に髪の毛に霧氷が発生したのだと思う。霧氷恐るべし。細長いものはみんな霧氷になる。  その後また別の霧氷男と遭遇した。一眼を携えたこの男に、さっきと同じく「頭が凍っていますね」と言うと、「そうですね、凍ってますね」と返される。あれっ。自分の頭に手をやると前髪がバリバリになっていた。俺の頭も霧氷になっていたのだ。  天候は回復せず、その後もほぼ眺望ゼロの白く薄暗い世界が続いた。それでも今日は濃霧の中霧氷が見られたのだ、良しとせねばなるまい。長谷川等伯の松林図を思わせる濃霧の森は非日常的世界で日々のしがらみを忘れさせてくれた。  帰り道に選択した石尾根の登山道はだらだら下ってゆくが、よく整備されていて歩きやすい。物思いに耽りつつ野歩きをしたいならよい選択だと思う。俺はこういうのは嫌いじゃない。さて、今日のネタも尽きたし、次はどこへ行こうか。

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。